第一部「光の祭儀」
【火の祝福】
聖堂に隣接するカテドラルホールに信徒が集まり、勝谷司教様により火の祝福が行われました。
【ろうそくの祝福】
続いて復活のローソクが祝福されました。
新しい火が復活のローソクに灯されました。
「輝かしく復活したキリストの光が、心の やみを照らしますように。」
【光の行列】
復活のロウソクを手にした司祭が「キリストの光」と唱えるなか、信徒は「神に感謝」とこたえ、行列は聖堂へと進みます。
司祭が聖堂の入口で二度目の「キリストの光」と唱えた後、復活のロウソクから信徒のロウソクへと火が移され入堂しました。
【復活賛歌】
聖堂がロウソクの火にほのかに包まれる中、復活賛歌が歌われました。
第二部 「ことばの典礼」
【聖書朗読】
旧約聖書から7つの箇所が朗読されました。
【栄光の賛歌】
栄光の賛歌が歌われている間、十字架、御像にかけられていた紫布が取り外されました。
【福音朗読】
佐藤助祭による福音朗読
勝谷司教様のお説教をご紹介します。
『皆さん、ご復活おめでとうございます。
私たち人間は人生の意味を問わずにはいられない存在です。しかし、考えてみてください。今の生きる意味は、今、完全に知ることはできません。それは常に未来において振り返った時に明らかにされてくるものです。今の取組が必ず将来のためになると信じて生きるのが今です。同様に人生全体の意味は、永遠という観点においてしか明らかになりません。永遠を否定しては人生を今を生きる意味も無くなってしまいます。今、生きているということにどういう意味があるのかという問いは、特に厳しい現実、望ましくない状況に直面させられるときに悲痛な問いとなって発せられます。自らの落ち度でそうなってしまったのなら自業自得かもしれません。それでも、苦しい現実を誰かのせいにしたくなるときもあります。さらに、与えられた状況に対して、私たちの側に何の落ち度も責任もないことも多いでしょう。しかし、与えられた環境に私たちの責任はなくても、そこでどう生きるかは私たちに委ねられており、その選びとった生き方に 私たちは責任を持たなければならないのです。
選びようのない現実、それが逃れられない現実であるならば、私たちはそれを受け入れ、選び取って歩んでいくほかありません。それを召命と呼ぶこともできます。
すなわち神が私にそこに生きるように召しておられること、そこで生きるよう神が望んでおられるのなら、必ず必要な助けも神が与えてくださるに違いないと信じることができます。たとえ、今の苦しみに意味を見出すことが出来なくても、それが選びようのない現実にあるならば、神が私をそこに召しておられる。だから必ず、今は分からないけれども、知られざる意味があるのだということです。
アウシュビツを体験した精神科医フランクルは、収容所での体験した手記のなかで、生きる意味を失ったとき、人は生きる気力を失い 、それだけで命を落としていったことを記しています。フランクルは言います。自分にとってこの人生に意味があるのかと問う人が、「人生から何も期待することが出来ない。」と語らざるを得なくなったとき次々と倒れていったと。そして、視点を変えて、答えを求めた人が生き延びました。それは、私が人生の意味を問うのでなくて、自分の人生が私にその意味を問うている、という視点の転換でした。
私の人生が私に何を求めているのか、と問われ続けているのがそれが私たちなのだと。復活を信じる者にとって、自分の人生にとって意味があるのかが問題ではなく、神がお与えになったこの人生に私が応え続けて、その意味を見いだしていくのです
人生の招きに私たちは応えているのでしょうか。どんな絶望的な状況においても、人生には意味がある。そのことを主の復活をとおして私たちは確信できます。限られた「今」という時間の中では見えないものも、永遠の時間の中にある復活の主が私の人生を知り、愛し招いておられるのです。
その主が言われます。「恐れるな、私はすでに世に打ち勝った。」私たちは復活の信仰によって、初めて苦しみを積極的に選び取り、捧げることができるようになるのです。この確信に基づいて、私たちはたとえ厳しい現実であってもそこで生きることを選びとることが出来るのです。』
第三部
【改宗式】
改宗式が行われ、お二人の方が新たに共同体に招かれました。おめでとうございます。
【洗礼の約束の更新】
神に従うという洗礼の約束を新たにした後、司教が祝福された水を会衆にふりかけました。
第四部 「感謝の典礼」
派遣の祝福の前に、この日、改宗されたお二人に記念品が贈られ、ご挨拶をいただきました。