2016年3月13日日曜日

四旬節第5主日 黙想会”神のいつくしみにふれられて”

今日の福音では「姦通の女」の話をとおして、神の愛といつくしみが語られました。
罪人に対するイエスのゆるしと回心の呼びかけに心を傾け黙想会が行われました。


後藤神父様のお説教をご紹介します。
『四旬節の第5主日を迎え、今日、私たちは「罪人の女」の箇所のみ言葉を聴いています。来週は四旬節の最後、後半に入っていきますので、復活もさらに近づいている気がいたします。今日、教会の庭を窓から覗いてみましたら雪がすっかり消えて路面が出ています。まさに、春が来ていることは外の景色からも感じますけれど、私たちの心の中に春は来ているでしょうか。復活祭は近づいて来ているんでしょうか。

  今日のお話を思い出しながら、皆で黙想し考えてみたいと思います。旧約の律法は細かな規定によって罪と呪いを説き裁くことが多いと言われるのに対して、新約の世界に入るとイエスの福音は人々に神の愛と赦しを説き教えます。裁くのではなく、罪を咎めるのではなく、愛と赦しを優先して、イエスの福音は人々に大きな感動をよんでいたようです。
 しかし、イエスの罪の赦しを耳にする律法学者やファリサイ派の人々は、それが気にいらなかった。今日のみ言葉では「かねてからキリストを罪に陥れ訴えようと、その告発をさがし続けている律法学者やファリサイ派の人々がイエスの前に一人の罪人、姦通の現場で捕らえられた女の人を連れて来て、しつこくイエスの前で質問をしようとしています。その彼らの企てたたくらみは巧妙です。何故かと言うと、もし、罪の女をイエスが赦すとすれば、モーセの律法に背くことになります。それは神を冒涜するという口実になります。また、律法で命じられているとおり罪を犯した女の人を石で撃ち殺せと命ずるならば、イエスがこれまで教え説いてきた愛と神の憐れみの教えについて、自ら踏みにじる、その教えを覆すことになる。さらに、イエスが律法に従って「殺しても構わない」ということにするとすれば、死刑の判決をくだすことになり、当時、イスラエルの国はローマ帝国の支配のもとにありますから、死刑に関する権限を持つローマ帝国に反する政治的な犯罪者としても、告発することが出来るということになります。ですから、律法学者やファリサイ派の人々の意向、意図は必ずしも宗教的なものだけではなくて、政治的な意図もそこに含んでいたことが想像されます。その巧妙さは、まさに極まりの様相をみせていたということになります。

 いつの時代でも自分の正しさを主張する者がいます。人の良い行いや喜びに対して、素直に喜ぶのが難しいのが私たちにもあると思います。先週の「放蕩息子」の話しの中にもそのことが描かれていました。弟が還ってきて父親が喜んでいるのに、長男である兄はとても冷ややかな態度でした。妬んでいる態度にもみえました。特に、真面目な人間は、悪い者は罰せられて当たり前だという考えが強いように思われます。赦すことがなかなか歓迎出来ない、超まじめ人間は私たちの中にもいるような気がします。そして、私も中にもそういう一面があるようにも感じます
 私たちはいったいどちらの側に立っている人間でしょうか。イエスのように人を愛し、人を赦す側に立っているでしょうか。それとも妬んで人の罪を揶揄する立場に立っているのでしょうか。自分の罪に目がゆかず、自分の罪に対しはまさに盲目で、人の罪を責め立ていきり立って訴えている人。時には自分もそうした人の中に立っているような気がします。あるいは、反対に人に訴えられている罪人になっているのかもしれません。私たちは一人で二役を演じているような気がします。罪人を揶揄する自分と、自分では気づかないけれど人から訴えられている自分がいるのではないでしょうか。でも、聖書で私たちに姿を示されるイエス・キリストは
罪人に対して、差別されている人に対しても手を差しのべている人です。「たとえ話」にでてくるように99匹の羊ではなく、群れから離れてさまよい迷った羊の一匹を探し出したことを心から喜ぶように、失われたものを見いだそうとするイエス・キリストは、いつも私たちのそばに立っています。

 私たちは、様々な考えをもって、生活をもって、価値観をもって社会の中で生活しています。人から拒絶される人にはそれなりの理由があります。もし、その人自身だけを見るだけなら、とても愛することは難しいことだと思います。その人に注がれている、もし神の愛を見ることができるならば、私たちは少し違った目で人と接することができるような気がします。失われたものに近づくことも、見いだすことも、ただ一方的に見るならば、それは難しいことだと思います。さらに、その人を愛することは簡単にはできないことだと思います。神がその人を大切にされておられる、神が愛している、神がその人を救いに招いておられる。そういう目で私たちも人を見ることが出来るならば、私たちの心の中に愛の光が、愛のぬくもりが、きっと周りの人にもあてて見ることが出来るような気がします。

  今日のみ言葉で、イエスの前に連れてこられた一人の女は罪人でした。誰もが罪を犯した女であることを認める人でした。ですから、この人の犯した罪は当時の律法では石殺しの刑に処せられてもおかしくないと思われる人でした。でも、律法学者やファリサイ派の人々はイエスをこころよく思っていませんでしたから、イエスが罪人に対してどのような反応をみせるのか興味津々でありました。イエスがその人を赦すと言えば律法を破る、殺せと言えばイエスがこれまで愛を説き赦しを説いてきたことに矛盾し相反することになる。ただひたすらイエスを窮地に陥れようとしていた人たちは、イエスの答えをただ待ち続けました。
 イエスは沈黙しています。地面に指で何かを書いておられたと聖書は語っていますけれど、イエスはその時何を考え、何を地面に画いていたのでしょうか。沈黙が流れる中でイエスは立ち上がり「罪のない者がまず石を投げなさい。」と言われました。自分自身を深く考えてみると、私たちはお互いにそんなことは出来ないのではないか、そういう言葉に聞こえてきます。石を投げようと拳に石を握っていた人々は、イエスの「罪のない者がまず石を投げなさい。」という言葉を心に留めました。心に響きました。年長者の方もいます、信仰に熱心な方もいます、律法をひたすら守ってきた人々もそこにいました。法で定められたことであるということも知っておられる方もたくさんおられたと思います。でも、イエスの言葉が心に響いた。長老の人たちもまた、イエスの言葉にもう一度、自分自身を見つめる一瞬がありました。
  人生の様々な経験をしてきた年長者の人々でさえ、自分の心を思い巡らして、石を握った手が緩んでしまう、自分にはそういう資格がないということに気づかされます。私も罪人である。私はけっして罪を犯した人間ではないと誰もが自信を持って言えませんでした。罪人の女に石を投げつけようと立っていた人々は、同じ神の前で赦されなければならない、人間の一人であると気づからされました。彼らの姿は私たちの惨めさであるともいえるでしょう。私たちも自分の罪や欠点に盲目になります。そして、人の過ちには厳しく敏感になります。パウロは今日の第二朗読の中で真理のうちに自分を見つめ回心するようにと勧めています。「なすべきことはただひとつ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神を目指てしひたすら歩みなさい。」(フィリピの教会への手紙3章13~14節)それは過ぎ去った過去に目を向けるのではなく、悔い改めたならば、その新しい心をもって前に向かいなさいということだと思います。第一朗読(イザヤの預言)の言葉にもそうした勧めがありました。始めからのことを思い出すな、昔のことを思い出すな。過去の罪を含めて、過去にとらわれることなく前に進みなさいという言葉が第一朗読の中にもみられます。人生経験の豊かな年長者が自分の罪深さに気づいたように、イエスの言葉は私たちに気づきを与えてくださます。罪を犯した女性にイエスは声をかけました。「私もあなたを罪に定めない。」神の愛、神のいつくしみがどんなに大きなものか、どんな罪深い人に対しても神のあわれみは注がれていることか。
 でも、罪に定められていることは 、自分が人を裁くほど清廉潔白ではないということではないと思います。イエスにとって、あなたを罪に定めないということは、十字架において  その罪をイエスは引き受けられるからです。イエスがどんな罪をも赦す理由は、一つの願いが 託されていることを私たちは忘れてはならないようです。その願いということは、これからはもう罪を犯してはならないということ。それは、ゆるしの秘跡の中でも入って深く繋がっていきます。

 イエスによる新しい出発には 、罪を赦してくださったイエスに対して、真実、罪を犯さないように生きることです。また、そこには新しい生き方が生まれることであり、隣人に対して他者に対して、愛が始まることでもあるということです。四旬節、 悔い改め、すべての人が神の懐に戻るとき、回心のときです。赦しの恵みをいただく私たちは、その恵みをくださった神の愛に生きることで、神の子に相応しく、罪から解放され、新しい自分を発見することになると思います。私たちが洗礼のときに頂いたその恵みにもう一度立ち帰り、新しい人として生きる決心をして、神の祝福、神の赦しを願って歩みたいと思います。』


「派遣の祝福」の前に神父様から、今回、改宗されることになったお二方の紹介がありました。


御ミサの後、黙想会の第2部として、
今日の福音「ヨハネ8・1-11」が再び朗読された後、黙想を行いました。
その後、分かち合いとして、お二人の信徒からご自身の信仰についてのお話しをいただきました。