イエスのエルサレム入城を記念し、司教様の祝福を受けた棕櫚の葉を手に、枝の行列が聖堂へと歩みました。
福音朗読では、ルカによる主イエス・キリストの受難が読まれました。
勝谷司教様のお説教の一部をご紹介します。
『今日の福音朗読は非常に長いので、全体についての解説はせずに、イエス様の十字架の意味を説明するために、この朗読の中の一箇所だけに焦点をあててみたいと思います。
それは、イエス様と一緒に磔にされたされた犯罪人の一人が、
「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
と言ったことに対して、
「あなたはきょう、わたしと一緒に楽園にいる。」
とイエス様がこの犯罪人に言われた箇所です。
今まで散々、悪いことに手を染めていたであろう彼は、人生の最後の最後の瞬間にイエス様に出会いすがったとき、全てが赦され楽園に入ることになりました。このこと自体は、私たちの腑に落ち、受け入れることができるのではないかと思います。
しかし、この物語、他の福音書の箇所と照らし合わせてみると、全く同じ主題になっているものがいくつかあります。
私たちが良く知っている「放蕩息子のたとえ」もまさに同じテーマです。放蕩の限りを尽くして帰ってきた息子を父親は無条件に受け入れたのです。しかし、そのとき兄は受け入れることができませんでした。
もう一つ、福音の中で同じテーマで語られている部分は、あの「葡萄園の労働者」の話です。一日、1デナリオンの約束で朝早くから働いた労働者の不平です。朝早くから一日中炎天下で汗を流して働いた労働者は、最後の1時間だけしか働かなかった者の報酬が全く同じ賃金であったことに不平を漏らします。
これらの話になると、放蕩息子の兄だけではなくて、読み手である私たちも、何か変じゃないかと、私たちの常識が邪魔をして、すんなり腑に落ちない印象を持つのではないでしょうか。
確かにこの世のことを語っているのであれば、不正ではないですけれど、働かされている者であれば文句も言いたくなる気持ちも分かると思います。
しかし、神の国に入るという観点で考えるなら、私たちはどう考えたら良いのでしょうか?
私たちの犯した罪とその償い、その償いをきちんと果たした者だけが、救われ、神の国に入ることができるのだと、長い間、私たちは疑問を持たずにそう信じてきました。それは間違っているのではありません。
しかし、逆説的なもう一つの観点が欠落していたのです。罪とその償いという観点から物事を捉えるなら、正しいものが報われ、正しくないものはそうならない、という当然のような考え方のもと、私たちは不正義がきちんと償われることを心のどこかで望んでいます。にも関わらず、間違っていたと思われる人が償いを果たさずに神の国に招かれたりすることは、放蕩息子のお兄さんや葡萄園の労働者と同じように、私たちも文句を言いたくなるのかもしれません。
教皇様はこの点について、
私たちは長い間、正義を追及してこようとしていましたが、正義のみを追求するあまり、その正義を行使することによって、結果的に正義を台無しにしてしまっていたのではないでしょうか。
と、特別聖年の大勅書の中で教皇様はそのように語っています。
そして、正義よりも神はいつくしみであって、そして最終的にはゆるしによって開かれている、これがとても大切です。神の愛といつくしみ、この観点を忘れてただ正義のみを追求することの危険性を教皇様は強調しています。』