勝谷司教様のお説教をご紹介します。
『神学校に入学した時、まずラテン語を勉強しなければならなかったのですが、それは今の神学生も同じだと思います。最初に習うラテン語の例文が「Manus manum lavat.(マヌス・マヌム・ラウァト)」。「手は手を洗う」という意味です。例文自体に深い意味があったかは分かりませんが、自分が両手を洗うのでは何の意味もないわけです。手を独立した片手のもので考えると、その手が汚れていても片手では洗えません。手を合わせて初めて汚れを落とすことができます。手を合わせることによって、汚れを落とすことができる。このことを思い出しました。
今日の福音書の箇所。互いに足を洗い合わなければならないというイエス様の命令。これは何を意味しているのか。互いにその弱さを受け入れ、赦し合うという奨めに感じますが、考えて見るならば、私たちの罪や汚れというものは本当の意味では、他者との関わり合いなくして、赦されたり、癒されたりしないのではないかと思ったわけです。人間というものは基本的に他者との関わりの中でしか幸福を見いだすことが出来ないようにつくられています。人間の根本的な欲求を突き詰めていくならば、自己実現という意味で、その行き着く先は愛したい、愛されたいということにつきるのではと私は思っています。つまり、人間は基本的に一人では幸福になるようにはつくられていない。必ず他者との関わりの中でしか自己実現出来ない。あるいは本当の意味で幸福を見いだすことが出来ないようにつくられているのです。人間の本質は愛し愛されるときに実現されていく。人間が神の似姿としてつくられたという意味は、単に外見が似ていることではないのです。この愛し愛される存在、それが三位一体の神の中で完全なかたちで実現している。その似姿として私たちはつくられた。愛し愛されるときに、私たちは初めて神の本性に与るものになっていくのです。しかし、人間は弱い存在であり罪を犯すものです。私たちが罪を犯すというとき、キリスト教的意味でいうならば、愛の関わりの中で、人に対する罪、愛に背を向けたり、傷つけたり、壊したり。愛との関わりの中で罪というものが見えてくるのです。そうではなくて、ただ単に自分が正しい生き方をしているかどうかという、自分のみを基準にし、自分にのみ目を向けて正しさを追い求めたのが律法学者やファリサイ派と言われる人たちです。彼らにはこの交わりの世界で罪が癒されていくことが理解できない。あるいは、その中でおいてこそ罪の裏返しである愛の招きの世界があることを気づけない人たち。
放蕩息子のたとえでいうならば「お兄さん」。言いつけに背いたことは一度もない。ずっと、あなた(父)の前で奴隷のように働いてきた。でも、そこで正しさのみを追求するうちに、あの放蕩の限りをつくして還ってきた弟を無条件に迎え入れる父親の慈しみ深い姿、豊かな愛の交わりの世界をまったく理解できない人間であったわけです。私たちが本当の意味で罪深い人間であるというときは、必ずこのような一人よがりの次元を求める罪ではなくて、人との愛の関わりの中で見えてくる罪深さです。
そう考えるならば、その罪と癒しも同じように関わりの中でしか得られることができない。
自分一人で勝手に赦されたとか、癒されたとかと思うのは非常に困難です。しかしときどき私たちは、誤解することがあります。特に赦しの秘跡などを受けるときの心の姿勢として。例えば嫌いな人の悪口を言ったとか、あるいはその人と喧嘩をしてしまったとかいうときに、喧嘩をしたとか悪口をいったとか、正しいものである自分のプライドを傷つけるものとして、苦々しく思うのですね。だから誰かの悪口を言いましたとか、誰々と喧嘩しましたという告白をして、その行為自他赦されないことはないのですが、大きく架けている点があるのです。悪口を言ったり、喧嘩をしたりしたと言うならば、その裏返し、何かと言うならばその人と仲直りすることです。あの人は嫌いなままで、これからも話しもしたくない。これからも顔を合わせる度に喧嘩をするだろう。でも、喧嘩した苦々しさは赦してもらいたい。あの人とは仲良くしたくない。そういうならば全然意味がない。私たちは関わり合いの中で愛の招きに応えているかということをいつも問われていることを忘れてはならないと思います。この関わりの中で互いに癒されるというとき、個人的な関わりの世界ではなく、目を広げて世界を見わたす必要があります。
今日、互いに足を洗いなさいといったイエス様は、その席で聖体の秘跡を制定されました。
聖体はまさにイエス様が私たちのために、命さえ惜しまず与えつくそうとする愛の印です。それをすべての人に分かち合うように、すべての人を招くかたちでこの食卓を囲むように、すべての人に開かれています。しかし、現実の社会はどうであるのか。私たちの愛の交わりの世界から排斥され、およそ幸せという世界からは関わり合いのないない世界に追いやられている人がたくさんいるわけです。そういう人たちのことを全く顧みることなくして、今の自分たちの
淡麗な状態を感謝するというのでは、これも何かに欠けているというこに気づかなければならないでしょう。今の社会を見渡すならば、特に難民という人たちのことが大きな問題となっています。さらには未だに多くの人たちが饑餓に苦しみ、栄養失調で命を落としている。あるいは、5歳となる前に病気で命を落とす。簡単な綺麗な水さえあれば、そのためのやる気があるならば、救える命が救えずに。今でも、国連のミレニアム計画、去年までに達成させるといっていたものが、ある程度実現してきましたが、それが認められていたのは3秒に一人の割合で幼児が亡くなっていました。それが今、5秒で一人となったというものです。今でも圧倒的多数の子供たちが亡くなっている現実。
そういう現実がありながらも日本においては、1800万トンの食料が食べないで捨てられています。そのうち家庭からでるゴミが800万トン。国際社会が食料援助として国際的に援助している総数は500万トン。それをはるかに超えるまだ食べられる食料を私たちは廃棄している。廃棄の文化の中で生きています。
先ほどの難民の問題も、日本ではなかなか難しい問題です。たくさんの人が難民申請をしていますが、ほとんど受け入れられることがありません。去年、認められたのは11人という現状です。フェイスブックでシリアの女性が私に友達申請してきました。誰だか分からないのでお断りしましたが、自己紹介してきました。元イスラム教徒でカトリックに改宗(転会)して
シリアから逃れて今、隣国トルコと思いますが、カトリック教会に匿われている。何とか自分はそこから出て日本に行きたい、日本の大学で勉強したいと言ってきたのです。が、何もしてあげられることができない。いろいろ問い合わせたが非常に難しい現実があります。彼女のフェイスブックは家族といっしょにいる楽しげな写真しか載っていないのですが、それは内戦の起こる前のものです。今は非常に命の危険にさらされている状態で、必死に助けを求めてくるのですが何もしてあげることが出来ないことで、私は心を痛めています。
同じように今の世界は、このようなかたちで情報を含めて、私たちの日常生活と直接、間接的に繋がっている世界です。そのなかにおいて、私たちが今、どういう状況に置かれているのか、それをしかっりと見極める中で 、同じ神からの招きを受けている、幸福に生きるように招かれている兄弟たちが苦しい状態にいるのに、私たちが何もしないという決断をするのが赦されるのか、強く自分の心に問うてみなければならないことだと思います。そして同じように私たちは共同体としても、日本の教会として何が出来るのか、これを真剣に模索していくように、強く求められているのです。確かに今は何も出来ないという状況の中で、その状態を素直に認めながら、でも出来る何かを見出し、実行に移すことが出来るように祈り、求めていくことにしたいと思います。』
聖体拝領の後、聖体がカテドラルホールに設置された仮祭壇の聖櫃に安置されました。
ミサの後、祭壇の装飾が取り払われ、十字架と御像には紫の布がかけられました。