2016年4月10日日曜日

復活節第3主日

さあ、来て、朝の食事をしなさい(ヨハネ21・12より)



復活節第3主日を迎えました。
今日の福音では、ヨハネ福音書の最終章(21章)が朗読されました。この最終章はヨハネの弟子によって後に書き加えられたと考えられています。

イエスの死後、弟子たちはガリラヤ湖で一晩中漁をしていましたが、魚はまったく獲れませんでした。
そこに、復活されたイエスが現れますが、弟子たちは気付きません。
イエスが彼らに「舟の右側に網を打ちなさい。」と告げ、
実際そのようにすると、網を引き揚げられないだけの大量の魚がかかりました。
弟子の一人はおそらく、イエスとの最初の出会いの出来事(ルカ5・4-8)を思い出したのでしょう。「主だ」と言いました。
その後、イエスは、ペトロに三度 「私を愛しているか」と自分への思いをお尋ねになりました。

後藤神父様のお説教をご紹介します。


『イエスの復活を祝って私たちは2週間を過ごしてきました。パウロは「キリストの復活がなかったなら、教会の宣教は無駄となり、私たちの信仰もまた空しく、私たちは今もなお罪の中にいることになる。」(1コリント15:12-19)と、このように大胆に話しています。復活を祝った私たちの信仰を持って今日もまた私たちは教会に集います。そして主の祭壇を前に一致して祈ります。イエスの復活によって新しくされたその信仰は、私たちに実感出来ているでしょうか。復活を祝った私たちですが、その復活を私たちは、自分の信仰で一人ひとりが実感出来ているでしょうか。復活を祝ったと言いますが、具体的に私たちは何を記念しお祝いしたのでしょうか。その一人ひとりの信仰をいつも問われているような気がします。

  み言葉に耳を傾けながらイエスへの信仰を私たちは強めていきたいものだと思います。今日のみ言葉はペトロと弟子たちとの間にあって、復活されたイエスとの出会いの物語が語られます。復活祭を迎えてから、その復活の主との出会いがみ言葉を通して私たちに語られます。それぞれ四つの福音書がイエスの復活の出来事を詳細に記しています。ヨハネの福音では、墓のあったエルサレム近郊と弟子たちが隠れていた場所にイエスが復活の姿を現します。私たちに告げられているヨハネ福音の21章、今日の物語は20章の出来事を踏まえて書かれたものです。ヨハネ福音の21章は福音書の最後にあたります。一番最後の章になっています。内容を見てみるとヨハネ福音の20章で中味は終わっているのです。実際は20章でヨハネの福音書は終わりを告げています。それなのに、もう1章加えられて今日の福音が語られているのです。何故そのようなことがあるのか、どのような理由があったのでしょうか。そんなことを私たちは少しを考えてみると、この福音書が書かれた目的も深く理解出来ることになります。                                                
  20章の最後にこう加えられています。「このほかにも、イエスが弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためである。」(20:30-31)復活した出来事、そして復活した主との出会いを通して弟子たちが変わってきたこと、変わっていくこと、そのことをこのヨハネの福音書は目的として書かれている。だから、一応終わったけれど、様々にイエスの伝承を誰もが語り聞いています。イエスの復活物語は、きっと聖書のほかにもいろいろないい伝えがあったのだと思います。ですから出来るだけそのことを知らせましょう、書きましょう、記しましょうということを、また加えられた内容がを今日、読まれた内容でもあるということです。

   弟子たちのリーダーであったペトロは一度ならず、二度、三度と復活のイエスと出会っていることが聖書に書かれます。最初にペトロが復活したイエスに出会ったことは、実は聖書には具体的に詳しくは記されていないのです。本当に小さな記事でしか書かれていない。よくよく注意して読まないと、その箇所はほとんど記憶に留まらないかたちで読み過ごしてしまいそうな内容です。
  紹介しますと、その一つはルカによる福音書の24章にあります。あのエマオの旅人の中に
触れられているのです。「エルサレムに戻ってみると11人とその仲間が集まって本当に主は復活してシモンに現れたと言っていた。」(ルカ24:34)このような記事が書かれています。シモンに現れたと言っていた。エマオに向かう二人の弟子たちが、その道々で復活したイエスに会ったという出来事の中の1節に「シモンに現れた。」ということが記されているだけなのです。どんな状況でペトロに現れたかは、具体的な内容は聖書には触れられていません。弟子たちの中でも特別な存在であったペトロでしたから、イエスはなるべく早くペトロに現れていたのかもしれません。ペトロが他の人たちに先立って復活された主に出会っていたのだ、このように推測するしかありません。とはいえ復活の主はいつまでもいっしょに居てくれる復活の主ではありませんでした。復活の記事の中を見てもいつもそうです。復活の主は現れるんです。私たちの間に、みんなが集まっている中に、永く留まったという記事はどこにもありません。ふと現れて弟子たちと話しをしながら、そこからいなくなっているということが、繰り返えされるだけです。
  復活のイエスに出会ったとしても、寝食を共にしたかつてのイエスの姿に触れることはできません。ペトロも弟子たちも黙って座っているわけには、復活の主を待っているだけではいられない状況が続きます。いつでもいっしょにいてくれるなら、また違った行動になるのでしょうが、復活の主は現れるけれど自分たちからまた姿を消し、それを繰り返された時、どう考えたら良いのでしょうか。
 復活のイエスを待ちつつも、ペトロは漁師の仕事に戻っていこうと考えた。それが今日のみ言葉に綴られています。彼らはまだ共同生活をしていたかのようです、いっしよに自分たちのかつてしていた猟の仕事をしようとします。しばらくは猟から離れてイエスと共に生活をしていた弟子たちですけれども。夜通し網を降ろしていました。でもその日は何も魚が捕れなかった。でもそんなことは誰も驚きはしません。そんな経験はかつて何度も何度もしてきたことでした。この日の猟は諦めようと岸に引き返してきます。岸に近づいてくると、誰かが声をかけ「何か食べ物はあるか。」と叫んできました。弟子たちは夜通し網を打って何も捕れず、仕事に疲れ、おなかも空かしていたことでしょう。何か食べ物はあるか、腹立たしい質問に聞こえたかもしれません。「食べ物はない。」と答えました。でもすぐ今度は「舟の右の方に網を打ちなさい。」と声がかかります。夜通し苦労して働き帰って来たのに、また網を打てとはどういうことなのか。冗談でも言われたかのように受けとめたかもしれませんが、それでも網を打ってみました。すると不思議なこと網に魚が入っている手応えが伝わってきます。どういうことだろうか。夜通し網を打って引き上げても魚一匹捕れなかったのに。いま網を打てと言われて素直に従ったときに、魚がたくさん網にかかっている、その手応えを今感じている。どういうことなのか、ためらいがちに沈黙してしまいます。でも弟子の一人であるヨハネは気づきました。岸の方から自分たちをじっと見ているその人を指さして「主だ。」とヨハネは叫びました。ヨハネは過去の出来事を思い出しました。過去にも同じ事がありました。大漁である理由もそれで分かりました。でもヨハネは気づいた後、ほかの弟子も次から次へと過去の出来事とまったく同じ事が起きている。そのことに気づいています。

 もし、私たちが神に与えられた本来の姿を生きていなければ、生きていても死んでいるといえるかもしれません。もし、私たちが神に与えられた本当の自分の価値を知らないで、自分をおとしめるような生き方をしているならば、それは生きていても死んでいるといえるかもしれません。ペトロもほかの弟子たちもきっとそのことを考えていたと思います。神から与えられたその使命を生きていなければ自分たちはいったい何なのだろう。そんな想いが弟子たち一人ひとりの中にあったようです。自分たちが十字架に架かったイエスを見捨てて逃げてしまったこと、自分たちの罪の重さもそういう想いの中に浮かんできます。罪深い私たち、あんなに愛され、指導を受けて喜びを共有してきた自分たちであったのに。それでも私たちは十字架のイエスを見て逃げてしまった。そういう一面を弟子たちは考え、何度も何度もイエスと出会ったとしても、もう戻って来てはくれないだろうとそんな不安も抱えていました。復活のイエスに出会ったとしても、それはあくまでイエスの出来事であって、自分自身の復活の出来事につながってこなかった。ペトロはそういう意味で死んでいたのかもしれません。イエスに召し出され愛され、その中でなおかつ「あなたは岩である。その岩の上にわたしの教会を建てよう。」(マタイ16:18)という光栄ある言葉をいただいたペトロであったのに、ペトロは神から託された使命を自覚できないままで、イエスに従っていたのかもしれません。復活のイエスとの出会いを繰り返しながら、死んだペトロを立ち上がらせ生かしたのはまさに復活の主イエスでした。

  良く私たちは分かち合いをする中で、神様の愛、イエスの愛について考えます。そして、ある人は、神様は私たちを無条件に愛してくれているんですねと気づいています。失敗しても、落ち込んだとしても、イエスの愛はこの自分に注がれている。立ち上がるまで、生き返るまで
、神の愛は私たちの上に注ぎ込まれています。
  今日のみ言葉の中で、私はとてもうれしい一節(ひとこと)に出合っています。きっと弟子たちもその言葉におおきな喜びを感じたはずです。疲れて岸に戻ってきて、復活の主がそこにいました。復活の主は薪を燃やし暖をとるように弟子たちを迎えてくれます。その火の上には魚が焼かれ、パンまで用意されていました。イエスのやさしさぬくもりに弟子たちは本当に心休まる思いでイエスのもとに戻ってきたと思います。イエスは彼らに声をかけます。「さあ、来て、朝の食事をしなさい。」
 私は『聖書と典礼』を最初に手にしたとき、表紙の絵の上にも「さあ、来て、朝の食事をしなさい」という言葉が綴られていました。私たちもこの教会に集い、このミサに与り、イエスに招かれ「朝の食事をしなさい。」と、ご聖体を用意されているかのように受けとめています。私たちにも呼びかけてくるイエスの言葉のように聴こえてきます。弟子たちにもそうであったように、わたしたちの飢え、渇きを満たしてくださるイエスです。恵みに満たされた処から「新しい一日を、新しい命を生きなさい。」そう言ってくださるのが復活の主であると思います。
  今日もまた、このミサの中で私たちはご聖体の恵みをいただきます。「朝の食事をしなさい」と語りかけてくださっているイエスの声を聴きながら、私たちはこのミサで共に祈り、感謝してご聖体に近づきたいと思います。』