2016年7月31日日曜日

年間第18主日 「金持ちの農夫」

私たちにとって人生における「生活の目標」というのはどのようなことなのでしょうか?
今日の福音(ルカ12・13-21:金持ちの農夫)では、そのようなことを考えさせられます。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日のみ言葉には、たとえ話で収穫がたくさんあって財産がたくさん残りそうな人の生き様というか姿が描かれました。一体、私たちにとって人生における「生活の目標」というのはどのようなことなのでしょうか?一体どこにポイントを置いているのでしょうか?そのようなことを考えさせられます。
財産と呼べるほどのものがなくても、人から見ればゴミのようなものでも捨てがたいものが私にとってもたくさんあります。捨てられずに部屋の中は乱雑になるばかりです。
今日のみ言葉は、「人生というものは」持つことに執着するのではなく、「真実に生きることである」と教えられているような気がします。

福音の前半部分は、群衆の集まる中に入ってきたイエスに「遺産を分けて欲しい」と群衆の一人が願い出る話で、遺産相続の問題で血を分けた兄弟が醜い争いを繰り広げるというのは、イエスの時代でも今の時代と変わらないようです。特に、お金や財産への人間の執着は人間の本性と関わってくるもののようで、人間の世界には将来もなくならないものではないでしょうか。
お金や財産は、簡単に手に入るなら喉から手が出るほど人が求めるものであり、誘惑の多いものかもしれません。そして、私たちはそれによって人生を揺るがすこともあるのです。富や財産は私たちの生活から切り離すことができず、どうやって食べてゆくのかということに密接につながっていることなのです。富や財産に恵まれると余裕が出来て、食べることに対する日々の心配は消えて心は落ち着きますし、自分の望みもかなえられます。富はその意味で現実的な力を持っていて、誰もがお金の魅力に執着することも多くなり、惹かれてしまうことになるのです。「地獄の沙汰も金次第」という諺にあるとおりです。
イエスは「遺産を分けるように兄弟に頼んでほしい」というこの願いに対して、「私は裁判官でも調停人でもない」と言い、仲裁の依頼を断ります。キリストの使命はすべての人を神に招くことであり、この世のものではないのです。そしてイエスは、この世の財産はいのちを保証するには全く無力であることを教えるのです。
財産はそれ自体、決して悪いものではなく、むしろそれを必要な人に施し、貧しい人を助けるために使うならば天に宝を蓄えることになります。その反面、それらが人間の心を奪い神から遠ざけることになるならば、また隣人を顧みることなく踏みにじるという危険性を持つならば、「富んでいるあなた方は不幸である」と言われるのです。だからイエスは「どんなどん欲にも注意を払いなさい」と言われたのです。

福音の後半部分は収穫に恵まれたというたとえ話です。
金持ちの農夫の話を掘り下げてみます。私の作物、私の倉、私の財産、私の蓄え、私の将来・・・、とギリシャ語の聖書では”自分”を強調する表現がされています。彼は、自分と神との関係においても、自分だけのことしか考えていないようで、貧しい人に心を向けることの出来ないというところに問題があるようです。
私たちの神は、借金のある僕を哀れみ、主人が借金を許したように「ゆるしと愛の関係」にあるのです。金持ちの農夫は、神との関係を知らず「ゆるしと愛」を問われていることに気付いていないのです。
”私が、私が”という生活が先になり、自分の豊かさだけに心を奪われて生活するのみで、そこに「愚かさ」があるのです。さらに、自分に対する過信があり、自分の業、自分の力により頼んで生きているのであり、ここに第二の「愚かさ」があるのです。

私たちは神の前に富を積まなければなりません。イエスは「あらゆるどん欲に対してよくよく警戒しなさい。たとえ、たくさんの物を持っていても、人の命は持ち物によらない。」を言われるのです。
イエスの福音のメッセージは、「神に信頼し、御国を求めなさい」ということです。

私たちの人生の旅路の果てに、父なる神が待っておられます。私たちの人生は神との出会いのための準備と考え、その自覚を持って生きている人こそ、真の信仰者といえるというのが今日のメッセージのようです。
イエス自身も貧しさの中に生まれ、私たちの救いのためにその貧しさの中から歩まれました。私たちもそのイエスに見習い、貧しさの中にあっても希望を失うことなく、しっかりと自分の人生の歩みを大切にしていきたいと思います。
自分を過信して愚か者にならずに、神の前に宝を積むことができるように共に祈りたいと思います。
ルカによる福音の別な箇所でも、このようなみ言葉が私たちに与えられています。
「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことであろう。金持ちが神の国に入るより、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」』

2016年7月25日月曜日

年間第17主日

この日の福音では「主の祈り」のお話が語られました。祈りの言葉の一語一語をかみしめながら、自分の内面からの深い声になりますよう。



後藤神父様のお説教をご紹介します。
『この1週間は皆さんは忙しい日を過ごされたのではないでしょうか。 私にとっても四つの会議がありましたし、おやじの会、葬儀、金曜日にはカルチャーナイト、昨日は平和講演会がありました。この間、私たちはどんな祈りをしたでしょうか。会議や行事で振り回されたような気もします。

 今日、皆さんが聴いた福音は「主の祈り」のお話が語られました。私たちクリスチャンにとっては欠かすことの出来ない祈りが語られています。イエスはある所で祈っておられた。こういう言葉で今日のみ言葉は語られました。イエスの祈りの姿はしばしば聖書の中で見ることができます。今日の箇所で言えば、その祈る姿を見つめていた弟子たちが、自分たちにも祈りを教えて欲しいと願い出ました。弟子たちの一人ヨハネがその弟子たちに教えたように、私たちにも祈ることを教えてください。弟子たちはイエス様と一緒に過ごしていましたが、共に祈ることはなかったのだろうか、そんことをふと考えてしまいます。イエスの熱心な祈る姿に駆られて、弟子たちも、私たちもあなたのように祈りを捧げたい、そう思ってお願いしたのではないでしょうか。
 イエスが教えたその祈りが「主の祈り」になります。今日のルカの福音の中に語られる主の祈りは、この同じような内容はマタイの福音書の中にも同じような内容が出て来ます。(マタイ6:9-15) 今日、私たちが聴いたルカの祈りは短い内容になっています。マタイの福音の祈りは今、私たちが唱えているような祈りで語られています。父よと呼びかけて祈りなさい。イエスはそう言われました。父、神に代わる言葉が様々あると思います。神に対しては全能の神、創造主である神とか、実に様々です。今、私たちが良く使っているのは「いつくしみの神」という表現を使っています。憐れみの神、愛である神。数え切れないほどのものがでてくると思います。もし、全知全能の神、創造主である神という形で主の祈りが教えられたとしたら、堅い祈りになってしまう気がします。全能の神、創造主である神という言葉で主の祈りが始まったら、随分神との距離が出来てしまうと考えないでしょうか。それよりも、「天におられる私たちの父よ」、父よと呼ぶことによって、ひじょうに身近に感じられ私と神との関係。私たちと神との関係が出来るのではないでしょうか。イエスはそういうことを考えて教えたかどうかは分からないかもしれませんが、父よと呼びかけて祈ることを教えてくれたことはとても素晴らしいことです。親しみをこめて、まさに私たちと神様の関係が親子の関係であるかのような距離にあって、神様に祈りを捧げることができる。わたしたちにとって大きな慰めにもなってくるのではないでしょうか。

  マタイの福音の中では、「天にいます父よ」という表現をとっていて、私たちが現在唱えられている「 天におられる私たちの父」という表現に変わっています。でも、ルカの福音ではまず最初に「父よ」というみ言葉です。短い祈りの言葉の中に、教会が常に教える共同体としての教会の祈りも、主の祈りの中に入っているように思えます。そしてまた、私ではなく、「私たちの父」という表現が入ってくる、とても大切な教会の共同体的要素がそこにあるということではないでしょうか。私と父という関係だけで祈るのではなくて、私たちと父という関係でイエスは私たちに祈りを教えられた。何度も「私たちに」という言葉が繰り返されて祈りがあります。信仰は神と私の関係ということも言えますが、イエスが教えられた主の祈りは、私たちが大切にする個人ではなく共同体としての祈りであることがはっきりと示されたと考えられます。「私たちの父よ」という表現はまさにそういうことを示されているのではないでしょうか。ですから、改めて私たちが主の祈りを唱えるとき、私個人という気持ちではなく、私たちという意識も心に込めて祈ることが大切になるようです。

 主の祈りの構造はふたつの部分に分けてみることが出来ると良く解説されています。最初の部分は神に向かう祈り、神を賛美する祈り、感謝する祈りと言われます。内容は 神の御名が崇められるそのこと。また、神の支配する御国が来ることを願う。さらに神のみ旨が行われますように。前半は神に向かう祈り。でも、後半は私たちの祈りになっています。必要な糧を与えてください。毎日の食事に事欠くことなく与えらますようにと祈りが続き、罪を赦していただく祈り。そして、自分に負い目のある人を赦すように、私たちを赦してください。また、誘惑にあうことのないようにしてください。
  教会の歴史の中では有名なアウグスチヌスとかルターという人がいます。そうした聖人、神学者たちは、主の祈りの解釈をいろんな形で私たち教会に示しました。私たち自身、様々な注解書、解釈書に触れることができますが、決まり切ったオウム返しに祈る祈りではなくて、 主の祈りの一言一言、一語一語をかみしめながら、自分の内面からの深い声として祈ることが出来るように、そうありたいと思います。毎日のように何回も何回も唱えている祈りですから、ただ言葉を繰り返す祈りになってしまう。でもそうならないように私たちは心がけることが大切だと思います。

  さて、第一朗読に創世記がありました。罪を犯す町があると聞いた主が、その話しが真実であるかどうか確かめると聞いたアブラハムは、街が滅びてしまうと心配して、正しい人がいる街を悪い者といしょに滅ぼすのですかと、主に詰め寄る話しが繰り返し出て来ます。50人の正しい人がいるなら、それでも街を滅ぼすのですか。いやいや50人に5人欠けたならどうなるだろうか。45人正しければ、数が少しずつ減っていきますが、神は正しい人がいれば街は滅ぼさないと答えられました。一人正しい人がいれば神はそれを大切にし、その社会を滅ぼすことなく支えてくださる。もしそうだとすれば、今の私たち現代においてもそうだとすれば、10人の中の一人の正しい人になることが大切なようか気がします。10人のうちの一人が難しければ、50人のうちの、100人のうちの一人に私たちがなるならば、この世界は神様によって守られ支えられることになるのではないでしょうか。神様の愛はそれほど慈しみの深い心で私たちを導いてくださっていることを物語っているような気がします。

  イエスは弟子たちに教えたこの祈りに続いて「たとえ話」をされましたが、祈りは愛という行為の中から生まれるということも話されたと感じます。求めるものは受け、さがすものは見つけ、門を叩くものには開かれる。希望を与える天の父は、求めるものに聖霊を与えてくださると約束してくださいました。とかく私たちは諦めることも良くしてしまいますが、諦めるなということを言われているような気がします。諦めてしまっては、そこから何も生まれてこない、そこから前に進んでいかない。諦めない辛抱しながら、ゆっくりゆっくりと努力することによって道は開かれていく。その間、とても辛いことかもしれませんが、神様はそれに耐える力もまた与えてくださる方と信じています。時々、祈りがなかなか出来ないと悩んでしまうこともあります。そういう思いで弟子たちも祈りを教えてくださいとイエスに願ったのではないでしょうか。私たちも悩んでどう祈ったら良いのか分からなくなることがあると思います。 それでも神様に心を向けて、父よと呼びかけながら、どうぞ私に祈る言葉を与えてくださいと、祈りを教えてくださいと、祈り続けるときに私たちは道が開かれ、私たちに聖霊の光が与えられると信じています。
 試練の前に私たちはとかく信頼を見失います。どんな試練にも乗り越えられると思っていても、試練の前では打ち倒されてしまうことも良くあると思います。私たち人間には底なしの弱さがどこかで持っている。でも、小さな力ではどうしようもないときにも神様は私たちに目を注いでくださる。私たちをそこから立ち上がらせ、前へと進ませてくださる。神の愛に私たち一人ひとりを委ねることが出来るかどうか、そういう信仰も問われているような気がします。イエスが教えた主の祈りの一つ一つの言葉を深く味わいながら、私たちの信仰の中で、信仰生活の中で唱えられるように成長していきたいと思います。』

2016年7月24日日曜日

7月22日(金) 聖マリア・マグダラ祝日 カルチャーナイト

今年からマグダラの聖マリアの記念日を「祝日」として祝うことになりました。当教会も参加しているカルチャーナイトとも重なり、18:00からの祝日ミサには120名がミサに与りました。

ミサの後には、今年100周年を迎える聖堂内のツアーやミニコンサートが行われ、カテドラルホールでの交流の場にも多くの方々が訪れました。










2016年7月17日日曜日

年間第16主日 「マルタとマリア」

今日の福音は先週と共通して「もてなし」がテーマです。
もてなすことに一生懸命だったマルタはなぜイエスからとがめられたのでしょう?



今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『第一朗読は創世記が読まれました。アブラハムの3人の旅人に対する”もてなし”と言ってもいいのでしょうか。私は創世記の今日の出だし、「主がアブラハムに現れた」という表現が最初にある中で、アブラハムが目を上げると3人が彼に向かって立っていた、という”3人”という箇所に、何か深い意味があるのではないかと考えたりしています。この場面については父と子と聖霊を人の似姿として現している芸術家もいます。この”3人”というのを皆さんはどのように考えているでしょうか?
いずれにしても今日の朗読の箇所ではアブラハムがこの3人の旅人をもてなす様子が語られています。そして福音では、姉妹であるマリアとマルタのイエスに対するもてなしの話が語られます。第一朗読も福音も「もてなし」が共通テーマになっています。
もてなしの心はちょっとした気遣いでもあり、日本の文化に特別な心があるともいえます。東京オリンピック招致の際も、日本の文化として「おもてなし」をアピールしていたのを思い起こします。それは相手に対して、また人に対してリラックスという心の快適さ、心地よさを感じさせるものでもあるようです。先週の「善きサマリア人」の行動で隣人に対する対応としても現されていることであり、兄弟への真心をどのように現すのかということにつながっています。そして、イエスの教えである「あなたの隣人を、自分と同じように愛しなさい。私が愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」に結ばれることです。
対照的なマリアとマルタの姉妹の対応については、二元論を展開する大きな違いが見られるので私たちも悩むことがあります。この二元論は古くから教会で天上と地上、観想と活動、霊魂と肉体というテーマで議論されてきたことです。トラピスト修道院の生活で言うと祈りと労働といえるでしょうか?
わたしたちにとって、大きな二つの行動の優劣について考えさせられます。一つは、「もてなすことに一生懸命となり心配する姉のマルタ」、そしてもう一つは「イエスの足元に座り、ひたすら耳を傾ける妹のマリア」。これはキリスト教世界の中で活動生活と観想生活の価値づけともなりました。イエスが言われた「必要なことはただ一つ」とマリアの方を評価したように考えがちな私たちですが、神に仕えることだけをイエスが評価するものではないことがわかります。
先週の「善きサマリア人」の話にそれを見つめることが出来ます。祭司やレビ人は神殿で神に仕える人たちで祈りを大事にする人たちであり、神の世界に打ち込むことがゆるされていました。しかし、その人たち(=ユダヤ人)からサマリア人は軽蔑されていたのです。イエスはこの三人の行いに対して、祈りを大事にする人たちではなく、サマリア人を評価したのです。それは愛からあふれ出た行動をしたサマリア人、温かな心の持ち主であるサマリア人であったからです。神の目にとって価値あるものは、ただ一つ愛でした。
マルタがとがめられたのは愛についてではないでしょうか。イエスの足下に座り、耳を傾けるマリアの心を理解しなかった。マリアの心は精神的に飢え、渇いていたのかもしれません。その心は切実に救いを求め、叫んでいたのかもしれないのです。マルタは忙しさで、マリアの心を思いやる心の温かさを見失ってしまったのです。
マルタだけではなく全ての人に必要なのは、隣人の心のうちを理解し、それを包みいたわり合う心、愛こそが大切になってくるということではないでしょうか。
しかし、愛と言っても自己中心、エゴイズムの愛が中心となってしまい、まわりや隣人のことを考えない愛を押しつけられると、受け取る側も苦しくなることがあります。
もてなしの心・活動も大切ですが、真の愛を見失うことなく、慌ただしい時代だからこそ、静かに自分自身を見つめ、「私が愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」といわれたイエスの愛を顧みる時間も大切にしたいと思います。
祈るためにも、働くためにも、ゆとりを持って過ごす大切さを忘れないでいたいものです。』


2016年7月10日日曜日

年間第15主日

今日の福音は「善きサマリア人のたとえ」が朗読されました。
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」と主は語られます。


後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日のミサの集会祈願では人との関わりについて祈りました。人とのかかわり合いを見失い、愛に飢え渇く世界。私たちは愛に飢え渇くそういう状況を感じているでしょうか。皆さんは家族の中で、教会の中で、また友人、知人との中で愛に飢え渇くそういう思いを感じたことはあるでしょうか。歳を重ねると若いときと違って人とのかかわり合いが鬱陶しくなるという話しをする人がいます。でも、一方では歳を重ねてなかなか自分の行動範囲も限られて、話し相手がいなくなって寂しくなりましたという話しをする人もいます。鬱陶しい、お歳を召さなくても、時には心理状態でそういう思いにかられることが人にはあるような気がします。鬱陶しいというのは自分の話を聞いてくれるよりも 、相手の話を聞かされてばかりいて、自分が話したい気持ちの不満が解消されないときに、特に強く感じることではないでしょうか。私たちにとって隣人は大切で必要です。でも、相手にとって良き隣人であるかということは、自分の考えとは良く違っていることがあるような気がします。自分にとって良き隣人を得ることは簡単なことではないと思います。
 随分以前になりますが、北海道新聞の「朝の食卓」(コラム)で「老化自慢あれこれ」と題するエッセイが投稿されていたことがありました。誰もが迎える老化現象。そういう現実を寂しくなる、また気持ちの持ちようでは明るく生きられる。そんな内容が綴られていました。高齢者とは日本の統計調査では65歳以上、国連では60歳以上、世界保健機構(WHO)は 65歳以上が高齢者。国によって、様々な団体によって高齢者の定義づけが違っているようです。前期高齢者という表現もあるそうです。65歳から74歳までを言うそうです。後期高齢者は75歳以上。ここにおられる方々も65歳を過ぎている方がたくさんおられると思います。でも、今の私たちにとって65歳であれば、自分は50代の気持ちで生活をされているのがほとんどだと思います。75歳の人は60代の気分で生活しているのが普通だと思います。自分自身もまもなく70歳ですが、まだまだ50代後半の気持ちになっているような気がします。でも、体が動かなくなってくると、あるいは調子が悪くってくると、やはり歳をとっているなと実感させられます。気持ちはまだまだ身体とは別で、若く感じて生活しているような気がします。朝の食卓(コラム)を紹介します。『高齢者とは65歳以上の人を言い、国はこの年齢で線引きして老人と指定している。だとすれば私はれっきとした老人、年寄りである。ならば口うるさい、意地悪ばあさんでいようか。投稿した方は女性のようです。それとも、ウーンかエトセトラ。自分はまだ若いと思っていても、老化現象はじわじわじわとやってくる。箸で小さなまるいものがそっと掴めないと私が言うと、私は無意識に手から箸がコトッて落ちてしまうと友人が話していた。食事のとき何故かむせちゃうのよねと別の友人が言います。
後から胸元の汁のシミがある、シミの跡がついていたりして。買い物のあと自転車を何処においたか忘れて歩いてきたことがある。久しぶりに会った人の名が思い出せないまま、話し続けて冷や汗をかいたわ。私はかなり前からそうよ。階段を一気に駆け上がれない。手すりに捕まりながら「よいしょ」という言葉が口にでる。こういうやりとりを紹介しながら老化現象を自慢しながら 笑い合った。これまで出来たことが出来なくなり、それを受け入れてゆっくり老人になっていくのだろう。こうして失ったものと引き替えに、たっぷりの自由時間と僅かな年金が手に入ったのだから、まァ良しとしよう。』こんな内容になっています。皆さんも同じような思いあたるところがあり、共鳴されていたのではないかと思います。このエッセイを書かれた方はたくさんの友人、隣人に恵まれているようです。たくさんの会話が紹介されました。人間関係が煩わしい鬱陶しいと感じるのは、そこで自分の不満がいつも残るから。話しを聞かされるばっかりと思ったとたんに楽しさも消えてしまう。聞いたり、聞いてもらったり。そうしたことがなければ自分自身の心もまた寂しくなる。皆さんは普段どんな会話をされているでしょうか。話しを聞いてもらう事に夢中になったりしてませんか。相手の話にも耳を傾ける余裕も忘れないでいたい、私自身も考えてしまいます。でも、実際話しをしていて夢中になると、自分の話したいことを永遠と話してしまうのは、私たち誰にも持っている才能かもしれません。その才能の善し悪しを知りたいとも思います。きっと夫婦でも、親子でも同じ事が言えるのではないでしょうか。今、ミサのそばにいる左右の人をどのように受けとめているでしょうか。そばに座っていても、心がまったく動かない隣人のままでいる人も多いのではないでしょうか。隣人であること、隣人になることは簡単ではないようです。そういう意味では、今日の聖書のお話を黙想していかなければと思います。

  今日、信仰者として大切なお話が前半で語られました。律法に書いてあることとして、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。私たちの信仰はこの一言に尽きるかもしれません。どういう信仰を生きたいですかと問われれば、まず今日の聖書のこの言葉で答えられたらどんなに素晴らしいかと思いますが、なかなかそうはいかないと思います。
 後半は隣人の話でした。たとえでイエスは3人の旅人を登場させながら、隣人とは誰かということを示しました。登場する人物は最初に祭司が来ました。どんな祭司のイメージでしょうか。旧約聖書の中で何度も出てくる祭司ですが、永遠の大祭司といわれるメルキゼルクは旧約聖書では有名な祭司です。彼には王と祭司との努めがあったといわれます。いわば指導者。祭司は指導者であり、支配的な立場にある人を聖書では表しています。古代の宗教では祭司は神の代わりに語る人とも定義されています。祭儀における奉仕をする人、神のみ言葉への奉仕がありました。そして祭司は神と人との仲介者でもありました。そういう使命を持っている祭司が今日、聖書に登場する一人であった。そういう役割、使命、責任を持った人が、今日最初にでてきた人であるということを考えながら、祭司のとった行動はどんなものであるのか、こんなことを考えると聖書の世界は深くなってくるような気がします。
  もう一人、レビ人が登場します。レビとは言葉の中に親しむとか、結び合わせることの意味があるようです。言葉の中にそういう意味を持っているそうです。遡れば旧約聖書のイスラエルの12部族の中の唯一、祭儀を執り行う特別の部族がレビ部族でした。このレビも神と人とを繋ぐ役割、奉仕を与えられました。ですから、祭司もレビも大切な神の前での役割を担う奉仕をする人であった。その二人のとった態度、行動をどういうふうに、私たちは受けとめれば良いでしょうか。祭司もレビも社会的な立場を約束された人々であったのに、傷ついた人の前で通り過ぎて無関心を装って消えていく。
  3人目に登場した人はサマリア人でした。サマリア人という言葉は何度も繰り返し聞いている言葉です。サマリア人はシケムに住むおろかな神と称されました。人々からは異邦人として軽蔑される人々でもあった。3人の登場人物を見ると祭司とレビ人はたまたま通り過ぎたかのようにも思えます。けっして急いでいるふうでは聖書では話されていません。それでも彼らは苦しむ人から離れて遠ざかる、別の道を通り過ぎていきました。かかわりたくないという気持ちが彼らの中にあったということでしょう。一方、サマリア人は旅をしていたから、きっと目的があってその道を通ったはずです。でも、彼は一人の傷ついた人を見て、自分の目的を変更してまでも、その傷ついている人に近づき接します。よく見るとこの傷ついている人は自分たちを軽蔑するユダヤ人でもあった。日頃、侮辱され冷たくののしられ、言葉もかけてくれない、挨拶も交わさない人、その人が傷ついていた。でも、無視してもおかしくないような状況であった。彼はそれを乗り越えて近づいていきました。自分の時間もその人のために捧げます。憐れみと思いやりの気持ちで対応していく。

  今日のみ言葉は、私たちの心の状態をもう一度考えさせます。私たちも時には、人の目や目線を気にすることなく、本当に大切なものは何かということを、行動で表しなさいということがイエスの教えだと思います。行ってあなたも同じようにしなさい。イエスはそう呼びかけました。どんなに立場が様々であったとしても、大きな責任を担わされていても、そうではなくて、あなたも今私が話したように、隣人とは誰かということを理解した。それならば自分の行動を自分で表しなさい。自分もそのように生きなさい。
 毎年のようにこのサマリア人の話しを聞きながら、イエスは私たち一人ひとりにそうしなさい、あなたがたが理解した隣人としての行動をあなたも執りなさい、と言い続けています。私たちは何度も何度もこの話しに触れ、このみ言葉に触れ、イエスの言葉として受けとめていたはずなのになかなか私たちはそうした隣人とのかかわりを生きていないような気がします。信仰を生きると言うことは、み言葉を生きることでもあります。でも私たちは理解していても  イエスの話されたことを生きるということは、私たち信仰を生きる者として  努めになることと思います。サマリア人の心には傷ついた心もあったはず、何度も何度も侮辱されユダヤ人を憎んだ気持ちもあったはずです。でもそのときサマリア人はそれを乗り越えて傷ついた人に助けを必要とする人の近くに寄って、自分の時間さえ財産さえもその人に使いました。それがイエスの言われる愛だと思います。イエスの言われる慈しみを生きることだと思います。憐れみの心、単に上から目線で人を見るということではなく、私の心のはらわたが煮えかえるような思いで同情を呼び起こし。それがイエスが話される憐れみである。慈しみである。愛である。
私たちは神に対して願ったり祈ったりするだけでなく、神様から頂いた教えを理解してそれを
答えなければならないはずです。隣人に対してしてもらうことだけでなく、自分から何かをしたり、隣人との関係も深まっていく。ただ近くにいる隣人だけではなく、心をかよわせる、心を生かす、そういう隣人関係が本当の隣人になっていくということではないでしょうか。  
 
 だれもが、この聖書に書かれたサマリア人、隣人になった人は素晴らしいと思います。何故素晴らしいのか。それは犠牲を惜しみなく捧げたということで素晴らしいと言っているのではないでしょうか、ただ親しいだけの関係を見て素晴らしいと言うのではないはずです。その人が捧げたその捧げものを私たちは感じながら、それが出来たということで素晴らしい関係ということで思っていると思います。私たちも今、イエスに促されています。行って、あなたも同じようにしなさい。私たちの思いがためらいの中で消えてしまうことなく、いつも勇気を持って歩みの力を主に願いましょう。翻弄することなく出来るように、このミサの中で、力と恵みを祈りましょう。』


献堂100周年の記念事業の一環として、2つある告解部屋の一つを改修しました。
中の声が部屋の外に漏れないように扉を一つ増やし、完全な個室にしました。




2016年7月3日日曜日

年間第14主日

今日の後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。



『今日告げられたみ言葉は、72人を任命し福音宣教に派遣されるという出来事が私たちに語られました。
すでに12人の弟子を「神の国を宣べ伝え、人を癒すために派遣する」にあたり、その心構えについては、既に9章で語られていたイエスでしたが、今日ルカの福音だけが伝える異教徒への宣教における72人の弟子たちの派遣に際しての心構えについてもほとんど変わりません。たとえば「物質的な貧しさ」や「与えられたもので満足すること」、「足についたちりを払うこと」などは同じような大切な心掛けです。
刈り入れについては、教会の使命を示唆しているようですが、本当に豊かな収穫をするためには、十分な働き人が必要であると述べています。しかし、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから収穫のために働く手を送ってくださるように収穫の主に願いなさい。」と言われているのです。

先週、札幌教区の「全道司祭大会」が開催されました。教区の100周年を迎える中、教会が抱える問題として少子化に伴う信徒の減少、高齢化による司祭の減少がありますし、人事面ではかつてはどの教会にも司祭が任命されていましたが、現実は司祭不在の教会が増えていて適正配置の問題があります。財政問題では教会の補修や改修があると在籍する信者だけでは負担が大き過ぎるという問題、さらに礼文、夕張、中司悦など小教区の閉鎖が続いています。そのような現状を踏まえ、札幌教区、そして小教区の将来について具体的に考えるために意見が交わされました。
現在、教区司祭と教区以外のフランシスコ会、パリミッション会、メリノール、マリア会、トラピスト、ラ・サール会の司祭を含めた札幌教区で働く司祭の平均年齢は71歳です。札幌教区司祭だけでは67歳、他教区の司祭平均年齢の47歳と比較すると高齢化が顕著です。
今日のみ言葉では、弟子が72人任命されて派遣され宣教に遣わされて働き手が少ないという話がありますが、「全道司祭大会」でも現実を直視すると問題は今も昔も変わらないのです。イエス様の当時は収穫が多いのに、今はその収穫も思うようにならないという厳しい現実があります。

「収穫が多いが、働く人は少ない。だから祈りなさい、願いなさい」
教会が、信徒一人一人が、福音宣教を叫ぶとき、もう一度、真剣になって、私たちの心を見つめて願い・祈るという点検をしてみたいものです。』