「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」と主は語られます。
後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日のミサの集会祈願では人との関わりについて祈りました。人とのかかわり合いを見失い、愛に飢え渇く世界。私たちは愛に飢え渇くそういう状況を感じているでしょうか。皆さんは家族の中で、教会の中で、また友人、知人との中で愛に飢え渇くそういう思いを感じたことはあるでしょうか。歳を重ねると若いときと違って人とのかかわり合いが鬱陶しくなるという話しをする人がいます。でも、一方では歳を重ねてなかなか自分の行動範囲も限られて、話し相手がいなくなって寂しくなりましたという話しをする人もいます。鬱陶しい、お歳を召さなくても、時には心理状態でそういう思いにかられることが人にはあるような気がします。鬱陶しいというのは自分の話を聞いてくれるよりも 、相手の話を聞かされてばかりいて、自分が話したい気持ちの不満が解消されないときに、特に強く感じることではないでしょうか。私たちにとって隣人は大切で必要です。でも、相手にとって良き隣人であるかということは、自分の考えとは良く違っていることがあるような気がします。自分にとって良き隣人を得ることは簡単なことではないと思います。
随分以前になりますが、北海道新聞の「朝の食卓」(コラム)で「老化自慢あれこれ」と題するエッセイが投稿されていたことがありました。誰もが迎える老化現象。そういう現実を寂しくなる、また気持ちの持ちようでは明るく生きられる。そんな内容が綴られていました。高齢者とは日本の統計調査では65歳以上、国連では60歳以上、世界保健機構(WHO)は 65歳以上が高齢者。国によって、様々な団体によって高齢者の定義づけが違っているようです。前期高齢者という表現もあるそうです。65歳から74歳までを言うそうです。後期高齢者は75歳以上。ここにおられる方々も65歳を過ぎている方がたくさんおられると思います。でも、今の私たちにとって65歳であれば、自分は50代の気持ちで生活をされているのがほとんどだと思います。75歳の人は60代の気分で生活しているのが普通だと思います。自分自身もまもなく70歳ですが、まだまだ50代後半の気持ちになっているような気がします。でも、体が動かなくなってくると、あるいは調子が悪くってくると、やはり歳をとっているなと実感させられます。気持ちはまだまだ身体とは別で、若く感じて生活しているような気がします。朝の食卓(コラム)を紹介します。『高齢者とは65歳以上の人を言い、国はこの年齢で線引きして老人と指定している。だとすれば私はれっきとした老人、年寄りである。ならば口うるさい、意地悪ばあさんでいようか。投稿した方は女性のようです。それとも、ウーンかエトセトラ。自分はまだ若いと思っていても、老化現象はじわじわじわとやってくる。箸で小さなまるいものがそっと掴めないと私が言うと、私は無意識に手から箸がコトッて落ちてしまうと友人が話していた。食事のとき何故かむせちゃうのよねと別の友人が言います。
後から胸元の汁のシミがある、シミの跡がついていたりして。買い物のあと自転車を何処においたか忘れて歩いてきたことがある。久しぶりに会った人の名が思い出せないまま、話し続けて冷や汗をかいたわ。私はかなり前からそうよ。階段を一気に駆け上がれない。手すりに捕まりながら「よいしょ」という言葉が口にでる。こういうやりとりを紹介しながら老化現象を自慢しながら 笑い合った。これまで出来たことが出来なくなり、それを受け入れてゆっくり老人になっていくのだろう。こうして失ったものと引き替えに、たっぷりの自由時間と僅かな年金が手に入ったのだから、まァ良しとしよう。』こんな内容になっています。皆さんも同じような思いあたるところがあり、共鳴されていたのではないかと思います。このエッセイを書かれた方はたくさんの友人、隣人に恵まれているようです。たくさんの会話が紹介されました。人間関係が煩わしい鬱陶しいと感じるのは、そこで自分の不満がいつも残るから。話しを聞かされるばっかりと思ったとたんに楽しさも消えてしまう。聞いたり、聞いてもらったり。そうしたことがなければ自分自身の心もまた寂しくなる。皆さんは普段どんな会話をされているでしょうか。話しを聞いてもらう事に夢中になったりしてませんか。相手の話にも耳を傾ける余裕も忘れないでいたい、私自身も考えてしまいます。でも、実際話しをしていて夢中になると、自分の話したいことを永遠と話してしまうのは、私たち誰にも持っている才能かもしれません。その才能の善し悪しを知りたいとも思います。きっと夫婦でも、親子でも同じ事が言えるのではないでしょうか。今、ミサのそばにいる左右の人をどのように受けとめているでしょうか。そばに座っていても、心がまったく動かない隣人のままでいる人も多いのではないでしょうか。隣人であること、隣人になることは簡単ではないようです。そういう意味では、今日の聖書のお話を黙想していかなければと思います。
今日、信仰者として大切なお話が前半で語られました。律法に書いてあることとして、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。私たちの信仰はこの一言に尽きるかもしれません。どういう信仰を生きたいですかと問われれば、まず今日の聖書のこの言葉で答えられたらどんなに素晴らしいかと思いますが、なかなかそうはいかないと思います。
後半は隣人の話でした。たとえでイエスは3人の旅人を登場させながら、隣人とは誰かということを示しました。登場する人物は最初に祭司が来ました。どんな祭司のイメージでしょうか。旧約聖書の中で何度も出てくる祭司ですが、永遠の大祭司といわれるメルキゼルクは旧約聖書では有名な祭司です。彼には王と祭司との努めがあったといわれます。いわば指導者。祭司は指導者であり、支配的な立場にある人を聖書では表しています。古代の宗教では祭司は神の代わりに語る人とも定義されています。祭儀における奉仕をする人、神のみ言葉への奉仕がありました。そして祭司は神と人との仲介者でもありました。そういう使命を持っている祭司が今日、聖書に登場する一人であった。そういう役割、使命、責任を持った人が、今日最初にでてきた人であるということを考えながら、祭司のとった行動はどんなものであるのか、こんなことを考えると聖書の世界は深くなってくるような気がします。
もう一人、レビ人が登場します。レビとは言葉の中に親しむとか、結び合わせることの意味があるようです。言葉の中にそういう意味を持っているそうです。遡れば旧約聖書のイスラエルの12部族の中の唯一、祭儀を執り行う特別の部族がレビ部族でした。このレビも神と人とを繋ぐ役割、奉仕を与えられました。ですから、祭司もレビも大切な神の前での役割を担う奉仕をする人であった。その二人のとった態度、行動をどういうふうに、私たちは受けとめれば良いでしょうか。祭司もレビも社会的な立場を約束された人々であったのに、傷ついた人の前で通り過ぎて無関心を装って消えていく。
3人目に登場した人はサマリア人でした。サマリア人という言葉は何度も繰り返し聞いている言葉です。サマリア人はシケムに住むおろかな神と称されました。人々からは異邦人として軽蔑される人々でもあった。3人の登場人物を見ると祭司とレビ人はたまたま通り過ぎたかのようにも思えます。けっして急いでいるふうでは聖書では話されていません。それでも彼らは苦しむ人から離れて遠ざかる、別の道を通り過ぎていきました。かかわりたくないという気持ちが彼らの中にあったということでしょう。一方、サマリア人は旅をしていたから、きっと目的があってその道を通ったはずです。でも、彼は一人の傷ついた人を見て、自分の目的を変更してまでも、その傷ついている人に近づき接します。よく見るとこの傷ついている人は自分たちを軽蔑するユダヤ人でもあった。日頃、侮辱され冷たくののしられ、言葉もかけてくれない、挨拶も交わさない人、その人が傷ついていた。でも、無視してもおかしくないような状況であった。彼はそれを乗り越えて近づいていきました。自分の時間もその人のために捧げます。憐れみと思いやりの気持ちで対応していく。
今日のみ言葉は、私たちの心の状態をもう一度考えさせます。私たちも時には、人の目や目線を気にすることなく、本当に大切なものは何かということを、行動で表しなさいということがイエスの教えだと思います。行ってあなたも同じようにしなさい。イエスはそう呼びかけました。どんなに立場が様々であったとしても、大きな責任を担わされていても、そうではなくて、あなたも今私が話したように、隣人とは誰かということを理解した。それならば自分の行動を自分で表しなさい。自分もそのように生きなさい。
毎年のようにこのサマリア人の話しを聞きながら、イエスは私たち一人ひとりにそうしなさい、あなたがたが理解した隣人としての行動をあなたも執りなさい、と言い続けています。私たちは何度も何度もこの話しに触れ、このみ言葉に触れ、イエスの言葉として受けとめていたはずなのになかなか私たちはそうした隣人とのかかわりを生きていないような気がします。信仰を生きると言うことは、み言葉を生きることでもあります。でも私たちは理解していても イエスの話されたことを生きるということは、私たち信仰を生きる者として 努めになることと思います。サマリア人の心には傷ついた心もあったはず、何度も何度も侮辱されユダヤ人を憎んだ気持ちもあったはずです。でもそのときサマリア人はそれを乗り越えて傷ついた人に助けを必要とする人の近くに寄って、自分の時間さえ財産さえもその人に使いました。それがイエスの言われる愛だと思います。イエスの言われる慈しみを生きることだと思います。憐れみの心、単に上から目線で人を見るということではなく、私の心のはらわたが煮えかえるような思いで同情を呼び起こし。それがイエスが話される憐れみである。慈しみである。愛である。
私たちは神に対して願ったり祈ったりするだけでなく、神様から頂いた教えを理解してそれを
答えなければならないはずです。隣人に対してしてもらうことだけでなく、自分から何かをしたり、隣人との関係も深まっていく。ただ近くにいる隣人だけではなく、心をかよわせる、心を生かす、そういう隣人関係が本当の隣人になっていくということではないでしょうか。
だれもが、この聖書に書かれたサマリア人、隣人になった人は素晴らしいと思います。何故素晴らしいのか。それは犠牲を惜しみなく捧げたということで素晴らしいと言っているのではないでしょうか、ただ親しいだけの関係を見て素晴らしいと言うのではないはずです。その人が捧げたその捧げものを私たちは感じながら、それが出来たということで素晴らしい関係ということで思っていると思います。私たちも今、イエスに促されています。行って、あなたも同じようにしなさい。私たちの思いがためらいの中で消えてしまうことなく、いつも勇気を持って歩みの力を主に願いましょう。翻弄することなく出来るように、このミサの中で、力と恵みを祈りましょう。』
献堂100周年の記念事業の一環として、2つある告解部屋の一つを改修しました。
中の声が部屋の外に漏れないように扉を一つ増やし、完全な個室にしました。