今日の福音は先週と共通して「もてなし」がテーマです。
もてなすことに一生懸命だったマルタはなぜイエスからとがめられたのでしょう?
今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『第一朗読は創世記が読まれました。アブラハムの3人の旅人に対する”もてなし”と言ってもいいのでしょうか。私は創世記の今日の出だし、「主がアブラハムに現れた」という表現が最初にある中で、アブラハムが目を上げると3人が彼に向かって立っていた、という”3人”という箇所に、何か深い意味があるのではないかと考えたりしています。この場面については父と子と聖霊を人の似姿として現している芸術家もいます。この”3人”というのを皆さんはどのように考えているでしょうか?
いずれにしても今日の朗読の箇所ではアブラハムがこの3人の旅人をもてなす様子が語られています。そして福音では、姉妹であるマリアとマルタのイエスに対するもてなしの話が語られます。第一朗読も福音も「もてなし」が共通テーマになっています。
もてなしの心はちょっとした気遣いでもあり、日本の文化に特別な心があるともいえます。東京オリンピック招致の際も、日本の文化として「おもてなし」をアピールしていたのを思い起こします。それは相手に対して、また人に対してリラックスという心の快適さ、心地よさを感じさせるものでもあるようです。先週の「善きサマリア人」の行動で隣人に対する対応としても現されていることであり、兄弟への真心をどのように現すのかということにつながっています。そして、イエスの教えである「あなたの隣人を、自分と同じように愛しなさい。私が愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」に結ばれることです。
対照的なマリアとマルタの姉妹の対応については、二元論を展開する大きな違いが見られるので私たちも悩むことがあります。この二元論は古くから教会で天上と地上、観想と活動、霊魂と肉体というテーマで議論されてきたことです。トラピスト修道院の生活で言うと祈りと労働といえるでしょうか?
わたしたちにとって、大きな二つの行動の優劣について考えさせられます。一つは、「もてなすことに一生懸命となり心配する姉のマルタ」、そしてもう一つは「イエスの足元に座り、ひたすら耳を傾ける妹のマリア」。これはキリスト教世界の中で活動生活と観想生活の価値づけともなりました。イエスが言われた「必要なことはただ一つ」とマリアの方を評価したように考えがちな私たちですが、神に仕えることだけをイエスが評価するものではないことがわかります。
先週の「善きサマリア人」の話にそれを見つめることが出来ます。祭司やレビ人は神殿で神に仕える人たちで祈りを大事にする人たちであり、神の世界に打ち込むことがゆるされていました。しかし、その人たち(=ユダヤ人)からサマリア人は軽蔑されていたのです。イエスはこの三人の行いに対して、祈りを大事にする人たちではなく、サマリア人を評価したのです。それは愛からあふれ出た行動をしたサマリア人、温かな心の持ち主であるサマリア人であったからです。神の目にとって価値あるものは、ただ一つ愛でした。
マルタがとがめられたのは愛についてではないでしょうか。イエスの足下に座り、耳を傾けるマリアの心を理解しなかった。マリアの心は精神的に飢え、渇いていたのかもしれません。その心は切実に救いを求め、叫んでいたのかもしれないのです。マルタは忙しさで、マリアの心を思いやる心の温かさを見失ってしまったのです。
マルタだけではなく全ての人に必要なのは、隣人の心のうちを理解し、それを包みいたわり合う心、愛こそが大切になってくるということではないでしょうか。
しかし、愛と言っても自己中心、エゴイズムの愛が中心となってしまい、まわりや隣人のことを考えない愛を押しつけられると、受け取る側も苦しくなることがあります。
もてなしの心・活動も大切ですが、真の愛を見失うことなく、慌ただしい時代だからこそ、静かに自分自身を見つめ、「私が愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」といわれたイエスの愛を顧みる時間も大切にしたいと思います。
祈るためにも、働くためにも、ゆとりを持って過ごす大切さを忘れないでいたいものです。』