2016年9月18日日曜日

9月18(日)年間第25主日

「敬老の日」を明日迎えるこの日のミサでは、後藤神父様から、人生のそして信仰生活の先輩方へ祈りと祝福が捧げられました。

神父様のお説教の後、祭壇前に集まった方々へ神父様からお祈りと祝福が捧げられました。



今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『先週はチャリティバザー、先々週は教区100周年を記念する式典と行事が続きました。教区100周年記念式典は、カトリック新聞の一面に大きく記事が掲載され、私たちは、これまでの100年の歩みを盛大にお祝いしましたが、これから先も未来に向かって大きな希望をもって歩み続けたいと思います。

さて、今日告げられた福音に思いを巡らせてみましょう。分かりづらく、いろいろな解釈のできる話です。
不正な管理人が登場し、主人からは「もう管理は任せられない」と宣告されたことにより、彼は自分の今後の身の振り方、生活をうまく生きるための方法を真剣に考えます。そして借金の証文を低く書き換えさせることによって、自分に好意を持たせるという抜け目のないやり方を実行したのです。そしてこの主人は、この管理人の巧みさ、狡猾なやり方を知り驚いたのです。
この管理人の賢いやり方は、他の人よりも確かに優れているといえるでしょう。イエスは弟子たちに何を言おうとしているのでしょうか?イエスは「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢い者である」と彼をほめています。それは、この世の財産、この世での生活のために、人々はこれほどまでに巧みになり、熱心に努めているのに、なぜ、神の国、永遠のいのちのためにもっと努力をしないのだろうか、と言う意味が込められているのではないでしょうか。
この世の富は決して悪いものではない。しかし、悪いとすれば、それをただ自分のためだけに利用する利己的生き方であり、そのことが非難されるのです。そして、この世の富を利用して、来るべき世でこそ我々を助け、歓迎してくれる友を作るようにというメッセージがあるようです。
キリストはご自分の弟子として生きたいと願う人々に、つい先日、家族を捨て、自分の十字架を背負って従うようにと話したように、ここでも、神かこの世か、永遠の命かこの世の富か、と「二人の主人に兼ね仕えることはできない」と、二者択一を迫っているのです。
私たちは自分の危機的状況をどこまで真剣に見つめているでしょうか。崖っぷちに立って初めて永遠のいのち、救いを求めるのではなく、日頃の飢えや渇きの中に、いつも、救いを求める生き方こそ、何より大切なことであることを伝えているのではないでしょうか。

明日は国民の祝日「敬老の日」です。長寿は喜びですが、高齢者が日々健康年齢で長寿を迎えていることは、なおいっそう嬉しいことです。国民の祝日に合わせて、私たちは特に教会の諸先輩の方々のために祈り健康と長寿を祈りたいと思います。

教会の福祉部から敬老の日に向けて名簿が届きました。教会の信徒名簿では、現在75歳以上の人は150名ほどです。今日も健康そのもので教会に来られた方もいますし、病気を抱えながらも頑張って来られた方もおられると思います。献堂100周年を記念する年を迎えていますが、この方々こそ私たちをいつも支えてくださり、この守護の天使に守られ献堂された北一条教会の礎を受け継がれ、わたしたちに繋いでくださっている方々です。「次の世代に繋ぐ信仰」を掲げて100年を迎え、明日という未来に歩みを進めようとしています。
 復活秘儀を祝う主の日である日曜日、神のことばを聴き、感謝の祭儀に参加して、主イエスの受難と復活の栄光を記念し、感謝のうちに敬老の日を迎えるみなさんに神の祝福を心から祈りましょう。
 「いつくしみの特別聖年」の閉幕もだんだんと近づいていますが、神のいつくしみがよりいっそう一人一人の上に注がれますように、十字架の称賛の心を取り戻すとともに、わたしたちのために支え、祈り続けられている大先輩とともに今日のミサを捧げることにも心から感謝し祈りを捧げましょう。』