今週の3月1日(水曜日)には灰の記念日、四旬節を迎えることになります。
後藤神父様のお説教をご紹介します。
『年間の季節の前半は今週で終わりです。3月1日には灰の記念日、四旬節を迎えることになります。あと僅かで四旬節という季節に入ります。2月も終わり、そういうふうに考えますと、寒い冬、長い冬はまもなく終わって春が来るなと。春が来るなと思うと復活節なんだなと、そんなことを日々の生活で感じられるようになりました。
今日の福音の内容は皆さんもきっと、自分に言われているかのように聞いた人も多いのではないでしょうか。マタイの福音の6章は、施しのこと、祈りのこと、断食や節制、そして富についての具体的な問題が取り上げられます。まさに、四旬節の精神がたくさん、そこにちりばめられているような内容が、6章に出て来ます。
私たちの最大の関心はどんなことでしょうか。私自身は、必ずしも命のことが最大の関心であるといいきれません。でも、自分の歳を時々考えます。それはこういう年代に入ってくると時折、身体の調子が異常をきたすような思いで、身体の変化を時々感じることがあるからです。命のことは深く考えませんが 、健康のことはよく日々考える、このごろような気がします。 皆さんもきっと命のことは深く考えないにしても、自分の健康や自分の幸せは常に考えてしまうのではないでしょうか。私たちの最大の関心事、聖書の中では命が何より大切だといわれますけれど、命よりも少し違ったほうに心が向かってしまうような気がいたします。この世に生きる者として、そして信仰者として富とか物とか物質主義的な考え方が優先したり、また完全でもないにしても、神の国とか神の義とか、見えない価値観に心を向けたりしています。
キリストを信じる者として、聖書で述べられる世の終わりがあることを信じるところにキリスト者の信仰があるはずですが、実感が伴わなかったり希薄なために、喧噪な日々がはじめにあるような気がいたします。私自身がそういうな生活を送っていることを、今日み言葉をいろいろ考えながら、自分でそう思っています。
この世はずっと続くと思い、現実的なことに終始してしまう自分の日常。永遠の命とか天の国にはたいして心が向かない日々を過ごしている自分。時折、様々な機会をとおしてそうしたテーマをさがすことがあります。でも、ときにそうした話しをし出しても「将来のことは言っても先のことは分かりません。」というような感じであまり関心を持たず終始してしまうこともよくあることです。とかく私たちは、自己中心的な発想からなかなか抜け出すことが出来ないようです。
私たちの思い、私たちの現実が大切にされなければならないとはいっても、信仰者としてもっと大切なところに目を向けていくことも大事なような気がいたします。聖書にははっきりと世の終わりについて書かれています。この世の死があって、神の国を信じ、救いを信じ、永遠の命を私たちは求めます。私たちは神を信じ、信仰者としてそこ希望をもって、復活を信じているはずです。将来のこと、遠い先のことをいっても、分からないと一蹴されたとすれば、私たちの信仰は今どれほど大切にして生きているか、問われるような気がいたします。私たちは神の前に立つときがいつか必ず来ます。今、若くて健康で、将来の日が不安に感じる日がないにしても、必ずそこに向かって私たちは今生きています。神の前に立つときがいつか来る、その神の前にいつの日か立つとき、私たちは何を携えて立つことが出来るでしょうか。今日のみ言葉は、そのようなことを話されています。
「誰も二人の主人に仕えることはできない。…神の国と神の義を求めなさい。」イエスはそう私たちに話しておられます。先週までのみ言葉では、隣人を愛し敵を憎め、そのようなみ言葉が弟子たちをとおしてまた、私たちにも語られています。「敵を愛し祈りなさい。」先週のみ言葉でした。今日は神の国と神の義を求めなさい、といわれます。
かつて、天国に入るためにはあなたがたの義が、ファリサイ派の人や律法学者の人に勝っていなければならないということが話されていました。四旬節を前にして、私たちが自分のおごりから解放されて、私たちの弱さ、いたらなさを赦してくださる神に信頼して謙虚な心で神の前に立つことを忘れないように、したいと思います。そして、自分の健康のことが気になる日々ではありますけれど、自分の幸せだけを考えることから解放されて、神の義を求める大切さを忘れることなく、大切だと思うことを生きることが出来るように、今日もまたイエスのみ言葉に感謝し、その教えを心にとめて歩む決心をしたいと思います。
近づく四旬節の精神を教会の伝統にあわせて、お互い思いおこしながら、私はこの四旬節の間どのような犠牲をささげ神の愛に応えていこうか思い巡らしながら、今日のミサに与りたいと思います。』
2017年2月26日日曜日
2017年2月19日日曜日
年間第7主日
「敵を愛しなさい。敵のために祈りなさい」というイエスの教えは、私たちが神の子としての生きる道を示しています。
後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日から札幌で始まる冬季アジア大会の関係者の方も教会に見えられています。ようこそいらっしゃいました、歓迎いたします。良い思い出となりますようお祈りいたします。
春を感じる水滴が屋根から滴り落ちるのを窓からいつも覗いています。水浸しの足元が気になって、寒さが戻ると滑るような気がして、転ばないように気を遣っています。
天気予報の中で「光の春」の訪れ、という言葉で解説がありました。「光の春」、まさに響きのよい言葉として受け止めています。み言葉のメッセージも私たちの心に新しい光、暖かな光を届けて春を告げているようですが、私たちは今日のみ言葉をどのように受け止めているでしょうか?
今日は、先週の「わたしが来たのは、律法や予言者の教えを廃止するためではなく、完成・成就するために来たのである。」という教えに引き続いて話されるイエスのみ言葉です。「目には目を、歯には歯を」という旧約の同害復讐法の教えを取り上げながらも、旧約の教えに留まるのではなく、それを否定して「敵を愛する」ことを弟子たちに語られたイエスです。同害復讐法は日本の思想にもあって、「仇を討つ」こととして許されていた時代があり、そのような物語は美化され、涙を誘い感動を呼ぶ映画にもなっています。今はそういうことではなくて、憎しみの連続をつくってはならないということで、そのようなことが起こらないように、相手を許すことが大切にされる時代になってきています。憎しみの連鎖は、終わりなき戦いが延々と続くということでもあり、それは決して平和につながるものではないということも私たちは心の底から知っています。でもそう思いながらも、もし家族の一人が何の罪もなく誰かに殺されたとしたら、きっと家族の人にとっては憎しみの感情を抑えることは至難の業ではないかと思います。そのような人間の感情を知りながらも、イエスは旧約の教えに留まる事なく、敵を愛すること、敵を許すことを弟子たちに教えています。
イエスの教えは「悪人には逆らうな」。悪人を戒めたり、懲らしめたり、そのような思いを私たちは誰しも抱えるかもしれませんが、そのような当たり前の考えを覆すように「敵を愛しなさい」と私たちにも話されます。
そんなイエスの教えは、私たちにとっても、ましてや当時の人々にとっては、驚きの話でした。今までそんな教えはありませんでした。聖書のとおり、古い慣習や伝統のとおり、それを守ることが掟を守ることであり、その掟を生きることが天の国へ入ることの要件でもあったと考えられていたからです。
ですから、山上の説教でも人々はイエスの話を聞いたとき驚いたのです。「心の貧しい人は幸いである。」「心の清い人は幸いである。」と逆説的な教えを話されたように、今日の福音でも敵を憎むのが当たり前とする考えから、「敵を愛しなさい。敵のために祈りなさい」とイエスは話されます。他人に損害を与えるよりは、自分が悲しみ損をすることを善しとする隣人愛、愛することと同時に祈ることもイエスは強調しています。
これは救いの時代に生きる私たちが、悪の力から救われ、神の子、天の父の子となるために、どのようにイエスとともに生きるかということを、話しているということでもあります。昔の教えのように「隣人を愛し、敵を憎む」のであれば、神の子でなくて誰でもしていること。当時悪人、罪人と言われていた徴税人でさえもしていることで特別なことではない。異邦人でさえもしていることだとイエスは話されます。
人々はイエスのそのような教えに驚きながらも、人間として考えたならば、その方がどれだけ素晴らしいことかということに気付かされています。イエスは言います「あなた方は神の子である。神に愛され神から招かれている一人一人なのだから、そのように生きなさい」と話すのです。「天の父のように神の子に相応しく、あなた方も完全な者となるように」と話されます。
2週間前、「あなた方が地の塩であり、世の光であることを考えなさい」と言われたときと同じように、イエスが世の光であるように「あなた方は、すでに世の光である」ということも話されました。私たちが何度も聞くその聖書の言葉に、「私は世の光なのか?地の塩なのか?とてもなれません・・・」と言い続けているそのような心に私たちは気付かされます。でもイエスは私たちに「神の子として生きるのであれば、そうありなさい」と話されているのだと思います。
このイエスの言葉を心に留めるときに、私たちはどう自分の生き方を変えていかなければならないのでしょうか?
いま私たちの心の中には、偏った愛、自分に都合の良い愛、自分の好きな人にだけ向けようとする愛を、優先するような心を抱えていると思います。でもイエスはその心を変えていくことが、神の子の道を生きることだと話しています。神の子とされ洗礼の恵みを受けて生きている私たちは、そのイエスのことばに従い、それを守ることが出来るように恵みを求めなければなりません。もしつまずいたならば、素直に赦しを願い、また新しい心で立ち上がることを続けなければならないと思います。そこに神の子の恵みが降り注いでくると思います。
先週から続いているこのイエスのみ言葉と教えから黙想していくと、律法学者やファリサイ派の人々へ向けられた「義に勝っていなければ、あなた方は決して天の国に入ることは出来ない」というイエスのみ言葉につながります。天の国。今、元気で健康な日々を送っている人は、あまり意識は持たないかもしれませんが、やがて弱り果て死を意識した時には、誰もが天の国に入ることを必死に願うと思います。私たちは健康な時、病気の時に関わらず、天の国を求め続けなければいけないはずです。
神を愛すると言いながら、私たちが日々生きている家族や隣人への愛はどうでしょうか?私たちが実行している愛はどんな愛でしょうか?
もう一度振り返りながら、「あなた方も聞いているとおり」と繰り返されたイエスのことば、私に告げられたこのみ言葉をもう一度心に留めて、歩み始めたいと思います。
イエスの心を生きる愛とはどういうことなのか?私たちはもう教えられなくてもイエスの愛を知っています。キリスト者としての理想に近付くことができるように努力していきたいと思います。つまづいても転んでも、イエスはいつも私たちに手を差し伸べて起き上がらせてくれることを、もう一度深く信頼して歩みを続けたいと思います。』
後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日から札幌で始まる冬季アジア大会の関係者の方も教会に見えられています。ようこそいらっしゃいました、歓迎いたします。良い思い出となりますようお祈りいたします。
春を感じる水滴が屋根から滴り落ちるのを窓からいつも覗いています。水浸しの足元が気になって、寒さが戻ると滑るような気がして、転ばないように気を遣っています。
天気予報の中で「光の春」の訪れ、という言葉で解説がありました。「光の春」、まさに響きのよい言葉として受け止めています。み言葉のメッセージも私たちの心に新しい光、暖かな光を届けて春を告げているようですが、私たちは今日のみ言葉をどのように受け止めているでしょうか?
今日は、先週の「わたしが来たのは、律法や予言者の教えを廃止するためではなく、完成・成就するために来たのである。」という教えに引き続いて話されるイエスのみ言葉です。「目には目を、歯には歯を」という旧約の同害復讐法の教えを取り上げながらも、旧約の教えに留まるのではなく、それを否定して「敵を愛する」ことを弟子たちに語られたイエスです。同害復讐法は日本の思想にもあって、「仇を討つ」こととして許されていた時代があり、そのような物語は美化され、涙を誘い感動を呼ぶ映画にもなっています。今はそういうことではなくて、憎しみの連続をつくってはならないということで、そのようなことが起こらないように、相手を許すことが大切にされる時代になってきています。憎しみの連鎖は、終わりなき戦いが延々と続くということでもあり、それは決して平和につながるものではないということも私たちは心の底から知っています。でもそう思いながらも、もし家族の一人が何の罪もなく誰かに殺されたとしたら、きっと家族の人にとっては憎しみの感情を抑えることは至難の業ではないかと思います。そのような人間の感情を知りながらも、イエスは旧約の教えに留まる事なく、敵を愛すること、敵を許すことを弟子たちに教えています。
イエスの教えは「悪人には逆らうな」。悪人を戒めたり、懲らしめたり、そのような思いを私たちは誰しも抱えるかもしれませんが、そのような当たり前の考えを覆すように「敵を愛しなさい」と私たちにも話されます。
そんなイエスの教えは、私たちにとっても、ましてや当時の人々にとっては、驚きの話でした。今までそんな教えはありませんでした。聖書のとおり、古い慣習や伝統のとおり、それを守ることが掟を守ることであり、その掟を生きることが天の国へ入ることの要件でもあったと考えられていたからです。
ですから、山上の説教でも人々はイエスの話を聞いたとき驚いたのです。「心の貧しい人は幸いである。」「心の清い人は幸いである。」と逆説的な教えを話されたように、今日の福音でも敵を憎むのが当たり前とする考えから、「敵を愛しなさい。敵のために祈りなさい」とイエスは話されます。他人に損害を与えるよりは、自分が悲しみ損をすることを善しとする隣人愛、愛することと同時に祈ることもイエスは強調しています。
これは救いの時代に生きる私たちが、悪の力から救われ、神の子、天の父の子となるために、どのようにイエスとともに生きるかということを、話しているということでもあります。昔の教えのように「隣人を愛し、敵を憎む」のであれば、神の子でなくて誰でもしていること。当時悪人、罪人と言われていた徴税人でさえもしていることで特別なことではない。異邦人でさえもしていることだとイエスは話されます。
人々はイエスのそのような教えに驚きながらも、人間として考えたならば、その方がどれだけ素晴らしいことかということに気付かされています。イエスは言います「あなた方は神の子である。神に愛され神から招かれている一人一人なのだから、そのように生きなさい」と話すのです。「天の父のように神の子に相応しく、あなた方も完全な者となるように」と話されます。
2週間前、「あなた方が地の塩であり、世の光であることを考えなさい」と言われたときと同じように、イエスが世の光であるように「あなた方は、すでに世の光である」ということも話されました。私たちが何度も聞くその聖書の言葉に、「私は世の光なのか?地の塩なのか?とてもなれません・・・」と言い続けているそのような心に私たちは気付かされます。でもイエスは私たちに「神の子として生きるのであれば、そうありなさい」と話されているのだと思います。
このイエスの言葉を心に留めるときに、私たちはどう自分の生き方を変えていかなければならないのでしょうか?
いま私たちの心の中には、偏った愛、自分に都合の良い愛、自分の好きな人にだけ向けようとする愛を、優先するような心を抱えていると思います。でもイエスはその心を変えていくことが、神の子の道を生きることだと話しています。神の子とされ洗礼の恵みを受けて生きている私たちは、そのイエスのことばに従い、それを守ることが出来るように恵みを求めなければなりません。もしつまずいたならば、素直に赦しを願い、また新しい心で立ち上がることを続けなければならないと思います。そこに神の子の恵みが降り注いでくると思います。
先週から続いているこのイエスのみ言葉と教えから黙想していくと、律法学者やファリサイ派の人々へ向けられた「義に勝っていなければ、あなた方は決して天の国に入ることは出来ない」というイエスのみ言葉につながります。天の国。今、元気で健康な日々を送っている人は、あまり意識は持たないかもしれませんが、やがて弱り果て死を意識した時には、誰もが天の国に入ることを必死に願うと思います。私たちは健康な時、病気の時に関わらず、天の国を求め続けなければいけないはずです。
神を愛すると言いながら、私たちが日々生きている家族や隣人への愛はどうでしょうか?私たちが実行している愛はどんな愛でしょうか?
もう一度振り返りながら、「あなた方も聞いているとおり」と繰り返されたイエスのことば、私に告げられたこのみ言葉をもう一度心に留めて、歩み始めたいと思います。
イエスの心を生きる愛とはどういうことなのか?私たちはもう教えられなくてもイエスの愛を知っています。キリスト者としての理想に近付くことができるように努力していきたいと思います。つまづいても転んでも、イエスはいつも私たちに手を差し伸べて起き上がらせてくれることを、もう一度深く信頼して歩みを続けたいと思います。』
2017年2月12日日曜日
年間第6主日
今週の2月7日(火)大阪城ホールで、ユスト高山右近の列福式が行われ、約1万人が集まったそうです。列福式の様子はインターネットの動画サイトで生中継され、当教会のカテドラルホールでも放映されました。入祭の歌「いつくしみ深い御父のように」が荘厳に流れる中、札幌教区の簑島神学生が侍者として香炉を持って入場する姿も写っていましたね。
今日の主日ミサの福音では、イエスが厳しい言葉でキリスト者の"義"について語られました。私たちは、イエスの語られた義について黙想したいと思います。
後藤神父様のお説教をご紹介したいと思います。
さて、主日ミサの後、教会の”雪割”を行いました。今年の冬は例年よりも積雪量が多く、結構大変でしたが、ボーイスカウトの皆さんや屈強な外国人信徒も協力し、窓を塞いでいた雪や、屋根に積み重なった固い氷もきれいに片付きました。皆さん本当にお疲れさまでした!
雪割終了後は、B地区の皆さんが心を込めてご用意いただいた豚汁、そして、J.Jが差し入れして下さったカレースープと焼き魚で、お腹も満たされ疲れも癒されました。感謝!
今日の主日ミサの福音では、イエスが厳しい言葉でキリスト者の"義"について語られました。私たちは、イエスの語られた義について黙想したいと思います。
後藤神父様のお説教をご紹介したいと思います。
『皆さんはこの1週間をどのように過ごされたでしょうか。先週火曜日は高山右近の列福式が大阪で行われ、インターネットをとおしてその儀式を観ることができました。私たちの教会では大きなテレビの画面を観て、集まって来た人たちと一緒に列福式の様子を観ました。日本にもう一人の聖人(福者)が誕生しました。
今日、私たちに語られたみ言葉で「律法」とういう言葉が出てきました。その言葉を私たちはどのように考え、イメージするでしょうか。私たちにとって「律法」とはどんなものでしょうか。今日のみ言葉で「あなたがたも聞いているとおり」と、3回もイエスは繰り返し話します。それは私たちが知っているということを前提にして、イエスは律法の規定や掟について話されます。「あなたがたも聞いているとおり」というのは、私たちが知っている正しい生き方、法による規定、倫理や道徳。それは善悪に繋がるでしょう。また、様々な習慣、そして信仰からくる教えなど。良い規則、規律や掟などは数限りなくあることを言われます。そのことをあなたがたも聞いているでしょうと、イエスは私たちに問いかけます。
しかし、私たちが知っているそうした掟やその全容、良い行いをみんながそうしているかといえば、必ずしもそういうことではないのです。やらなければならないと知ってはいても、それを行動に移すかどうかは一人ひとり、様々な状況におかれます。正しいこととして優先させて、何が何でもやらなければならない。覚悟してやるときもあれば、それは仕方がないと諦めやそんな気持ちでやっている時もあるかもしれません。やらないとき、やれないときもあります。そして、それを許してしまう自分もあるような気がします。でもイエスは言います。「小さな掟をひとつでも破ることは、天の国で最も小さな者である。しかし、小さな掟を守る者は天の国で最も偉大である。」。こう、私たちに話されます。小さな掟をひとつでも破ることは小さな者。小さな掟を守る者は偉大な者。こういうイエスの教えを私たちは、これまでに何度何度も繰り返し聞いていますけれど、小さな掟も守れないのが私たちのようです。だとすれば天の国では最も小さな者になってしまう。もしかするとそれによって、天の国に入ってしまうことになるかもしれません。知っていること、理解していることを行動に移すことはどんなに難しいことかと、このことからも分かります
一方、信仰の世界の律法は、本来モーセが神から授かった「十戒」に由来するということも考えることが出来るようです。「十戒」で具体的に十の掟がイスラエルの民に授けられました。それは神が宗教生活の中心となる基準として人間に授け、そして教えるものでした。基本的なものだっと思います。その旧約の古い律法を、イエスは新約の新しい律法として完成させたと、今日のみ言葉では語っています。古い律法、新しい律法というものがあるんだなと、こういうところからも分かります。
一方にはもうひとつ、律法には「自然の律法」と呼ばれるものも教会の思想の中に示されます。旧約の律法は旧約時代の律法として理解出来ますし、新約の律法はイエスが来られてから新しく教えられた律法、掟として理解することも出来ます。でも、「自然の律法」というのは皆さんは聞いたことがないと思います。
「自然の律法」はどういうことでしょうか。教会の思想から考えていくと、旧約や新約の民とはかけ離れた異邦人や様々な国の人がいます。キリスト教、ユダヤ教徒でない人々がいます。でもそうした人々の心の中にも、律法の要求するところを心の中に保って、正しいこと、義を行っている。それをパウロは「自然の律法」という表現をとってローマ書で書かれているのです。ですから通常、私たちがキリスト者として、イスラムの民の関わりを持つ者として、信仰者として、旧約の律法、新約の律法は理解できることですが、それを超えたところで「自然の律法」もあるのだということのようです。民族の中に、国の中に、そして社会の中には様々な掟や決まり事が生まれていきます。神の「み心」に適ったものもあれば、ときにはそれからかけ離れたものも決まり事して、それぞれの社会、グループに存在します。
私たちは生活の中で常にそうした正しいこと正しくないことの基準を学んで、理解しながらそれを選択して生きているのが現実です。小さなことで他の人に知られたくない。知られることのないことであれば、自分の選んだ選択が人にはあまり奨められないことでも、まぁいいか、しょうがないか、そんな気持ちになって安易に行動することもないわけではありません。そこには、外見的に悪いことをしなければ大丈夫という考え方が潜んでいるかもしれません。
イエスの今日のみ言葉は、私たちのそのような心の奥深くを突いてくる話しのように、私は考えています。私たちの安易な考え方に挑戦してくるイエスのみ言葉だと私には思えます。小さな掟をないがしろにしてしまう私たち。そうであってはならないというのが、今日のイエスの話しになるような気がします。私たちの行為には時には衝動的と思われるような、日頃、心の中で積み重ねていたものが外に現れる場合があるようです。大きな過ちとなる前に隣人を傷つけたり、おとしめたり。また、自分のわがままで人をおしのけたり、人を批判したり、軽蔑したりする心の内なる動きがあるようです。そうした心の積み重ねが、時には自分では抑えることの出来ない大きな罪を吹き出させるとも言えないでしょうか。イエスは「私は言っておく」という表現をとって私たちに語ります。殺人という大きな罪、罪名よりその行為の根本にある人間の欲望を指摘しています。イエスは新しい掟として、心の内からすべてを清めようとしています。本能的な欲望に真正面から私たちが向かっていくことを求めています。いい加減にしてはならない。きちんと良く見つめて、それに対処していかなければならない。それは簡単に実行できることではありませんが、私たちを大切に思い、一人ひとりを天の国に招くためにイエスはそのことを私たちに話されます。私たちの救いのために、私たちが天の国に招かれるために。外面や体裁だけをいつも作ろうとしたら、いつまでも自分は変わらない。だからこう言います。「右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。からだの一部が無くなっても、全身が地獄に投げ込まれないほうがましである。」イエスの教えは厳しいです。私たちの心の中の動きの、冷たく暗い動きと戦いながら、心をこめて誠実な愛を自分の心に投げかけていく努力をすることが大切である。そうイエスは私たちに語りかけます。心を清めるということは、自分の方正との戦いでありますから難しいのは当然です。そして、自分の心の中に平和が訪れるためには、そうした積み重ねが大切だということでもあります。ましてや社会や世界に平和が訪れるためには、一人ひとりの内なる戦い、積み重ねと努力によって生まれてくるのではないでしょうか。平和というものはそんなに簡単に築かれるものではありません。私たち一人ひとりの小さな努力の積み重ねによって作られていくものだと思います。私たちの未来の生と死は私たち一人ひとりの自分への真実な挑戦、戦いにかかっていると思います。
ユスト高山右近が2月7日に列福されました。高山右近の生き方、その人柄を私たちは様々なパンフレットをとおして少しは理解しています。生涯をかけて神を信じ、祈りと慈しみと正義に自分の地位と名誉、すべてを捨てたそういう高山右近の生き方、信仰が列福に向かっていったということだと思います。祈りと慈しみと正義を生きた高山右近。信仰を生きる日々の中で正しいこと、正義に背くことをはっきりと知っている私たちです。でも、それは出来る出来ないで終わってしまうことがないように。今日は私たちもまた、主の祭壇の前で祈りたいと思います。イエスの呼びかけとして、しっかりと受けとめて、正しいこと正しくないことを理解し、そして自らの行動に正しい道が繋がっていくように。そして勇気と力を頂いて、新しい一歩を歩み出すことが出来ますように。今日も私たちは、こころをひとつにして、主の食卓にあずかり、新しい自分に変えられるように祈りたいと思います。』
さて、主日ミサの後、教会の”雪割”を行いました。今年の冬は例年よりも積雪量が多く、結構大変でしたが、ボーイスカウトの皆さんや屈強な外国人信徒も協力し、窓を塞いでいた雪や、屋根に積み重なった固い氷もきれいに片付きました。皆さん本当にお疲れさまでした!
雪割終了後は、B地区の皆さんが心を込めてご用意いただいた豚汁、そして、J.Jが差し入れして下さったカレースープと焼き魚で、お腹も満たされ疲れも癒されました。感謝!
2017年2月5日日曜日
年間第5主日 「地の塩、世の光」
今日2月5日は「日本26聖人殉教者」の記念日です。
先週の「山上の垂訓」から続く今日のみことば「地の塩、世の光」について黙想してみましょう。
今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『暦の上では昨日が立春でした。まだまだ寒い北海道ですが、言葉の響きから何となく春を感じるこの頃です。毎朝の7時のミサでも日の出が少しづつ早くなっていることに気付きます。
今日2月5日の日曜日、主日のミサを行っていますが、本来は「日本26聖人殉教者」の記念日となっています。主日であっても26聖人の信仰を心に留めながら、今日のミサを捧げることにいたしましょう。
この26聖人は、1862年6月8日に当時のピオ9世教皇によって列聖され、「日本26聖人殉教者」の記念日が誕生しています。26聖人は遡ること1597年2月5日に長崎の西坂の丘で、その命を神様のもとに捧げられています。皆さんも思い起こすと思われます。その26人の中で最年少は12歳のルドビコ少年でした。そして13歳と14歳の同じ年代のこどもが3名いたことはあまりにも有名な話です。日本人20名と共に6名の外国の司祭、修道士もおりました。
そして、もう一つ今日思い起こして欲しいことは、2日後の2月7日にユスト高山右近の列聖式が大阪で行われるということです。高山右近については三年前、その時はまだ列聖が決まっていませんでしたが、私が北一条教会に赴任した五月に京都から大塚司教様が来て講演をして下さいました。高山右近の列聖式にも心を合わせて共に祈りたいと思います。
さて今日の福音についても一緒に考えてみましょう。
先週の山上の説教に続いて、私たちに語られたイエスのみ言葉は、「あなたがたは地の塩・世の光である」。「塩」や「光」の役割・使命を改めて説明する必要はないと思います。すでに私たちは理解しています。でも、わたしがその塩である、その光であるという思いで、そのみ言葉を私たちはもう一度、味わってみなければならないと思います。
わたしが塩そのものであるとは?わたしが光そのものであるとは?どういうことになるのでしょうか?一人一人が地の塩であるということは、また、神からの恵みを賜り、個性を持った一人の人間としても考えることができます。わたしの価値を生かすことができるその地の塩である、他の人にはない優しさや、明るさ、力を持つ人間としても考えることができると思います。
わたしはそのような信仰を大切にしているでしょうか?塩の役目、役割を自分に当てはめて考え、その思いをもって、周りの人々と接しそして生活を実践していくなら、私たちの信仰から人々へ、イエスの生き方、イエスのみ言葉が伝わっていくような気がします。そのような努力をしながら、私たちは宣教ということにもっと深くつながっていけるような気がいたします。
イエスは今、現在、身に覚えのないことで傷つけられ、落胆しそうになり、悲しみにある人々を勇気づけてくださっています。我慢の限界にきそうな人に向って話されます。「あなた方が地の塩であり、世の光であることを考えなさい」。塩は塩味を付けることで効果があり役割を果たします。忍耐ができずに逃げ出して、塩味をつけられないものとなったら何の役にも立たなくなり、外に捨てられ、人に踏みつけられてしまうだけになってしまうかもしれません。
世の光も同じことが言えます。光に求められるのはただ照らすこと。くじけることなく灯のように、懸命に周りを照らすことが大切です。光は最後の最後に小さくなっても照らし続けてその命を終えていきます。光もまた周りの人に対して立派に見せるために輝いているのではありません。自分が受けた光を従順に照らすことで、人は神を褒め称えるというのが聖書の教えではないでしょうか。
私たちは地の塩、世の光について黙想していきます。キリストの教える心の貧しい人とは、心の清い人というのは、先週から語られていますけれども、イエスの教えに忠実であることはどんなことなのか?私は難しく考えずに、心の清い人というのは「おごる事無く、素直で謙虚な純粋な心」と単純に理解するようにしています。聖書の中にはもっと深い意味がそこにあるのかもしれませんが、私は単純に置き換えて山上の垂訓を受け止めようとします。地の塩、世の光を黙想するときも、そのような心が大切ではないでしょうか。
今日の第一朗読のイザヤの予言のみ言葉も、私たちの黙想を助けてくれます。
イザヤは「飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝きでて、真昼のようになる」とも話されています。
助けを必要としている人に私たちの地の塩の役割、光の役割をそっと差し出すことができる信仰者でありたいと思います。
聖人たちが、神の国の平和を願って命をささげた「真の平和」は、まだまだ私たちの世界には実現できていません。主が私たち一人一人に期待する地の塩、世の光となることができるように祈りましょう。』
先週の「山上の垂訓」から続く今日のみことば「地の塩、世の光」について黙想してみましょう。
今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『暦の上では昨日が立春でした。まだまだ寒い北海道ですが、言葉の響きから何となく春を感じるこの頃です。毎朝の7時のミサでも日の出が少しづつ早くなっていることに気付きます。
今日2月5日の日曜日、主日のミサを行っていますが、本来は「日本26聖人殉教者」の記念日となっています。主日であっても26聖人の信仰を心に留めながら、今日のミサを捧げることにいたしましょう。
この26聖人は、1862年6月8日に当時のピオ9世教皇によって列聖され、「日本26聖人殉教者」の記念日が誕生しています。26聖人は遡ること1597年2月5日に長崎の西坂の丘で、その命を神様のもとに捧げられています。皆さんも思い起こすと思われます。その26人の中で最年少は12歳のルドビコ少年でした。そして13歳と14歳の同じ年代のこどもが3名いたことはあまりにも有名な話です。日本人20名と共に6名の外国の司祭、修道士もおりました。
そして、もう一つ今日思い起こして欲しいことは、2日後の2月7日にユスト高山右近の列聖式が大阪で行われるということです。高山右近については三年前、その時はまだ列聖が決まっていませんでしたが、私が北一条教会に赴任した五月に京都から大塚司教様が来て講演をして下さいました。高山右近の列聖式にも心を合わせて共に祈りたいと思います。
さて今日の福音についても一緒に考えてみましょう。
先週の山上の説教に続いて、私たちに語られたイエスのみ言葉は、「あなたがたは地の塩・世の光である」。「塩」や「光」の役割・使命を改めて説明する必要はないと思います。すでに私たちは理解しています。でも、わたしがその塩である、その光であるという思いで、そのみ言葉を私たちはもう一度、味わってみなければならないと思います。
わたしが塩そのものであるとは?わたしが光そのものであるとは?どういうことになるのでしょうか?一人一人が地の塩であるということは、また、神からの恵みを賜り、個性を持った一人の人間としても考えることができます。わたしの価値を生かすことができるその地の塩である、他の人にはない優しさや、明るさ、力を持つ人間としても考えることができると思います。
わたしはそのような信仰を大切にしているでしょうか?塩の役目、役割を自分に当てはめて考え、その思いをもって、周りの人々と接しそして生活を実践していくなら、私たちの信仰から人々へ、イエスの生き方、イエスのみ言葉が伝わっていくような気がします。そのような努力をしながら、私たちは宣教ということにもっと深くつながっていけるような気がいたします。
イエスは今、現在、身に覚えのないことで傷つけられ、落胆しそうになり、悲しみにある人々を勇気づけてくださっています。我慢の限界にきそうな人に向って話されます。「あなた方が地の塩であり、世の光であることを考えなさい」。塩は塩味を付けることで効果があり役割を果たします。忍耐ができずに逃げ出して、塩味をつけられないものとなったら何の役にも立たなくなり、外に捨てられ、人に踏みつけられてしまうだけになってしまうかもしれません。
世の光も同じことが言えます。光に求められるのはただ照らすこと。くじけることなく灯のように、懸命に周りを照らすことが大切です。光は最後の最後に小さくなっても照らし続けてその命を終えていきます。光もまた周りの人に対して立派に見せるために輝いているのではありません。自分が受けた光を従順に照らすことで、人は神を褒め称えるというのが聖書の教えではないでしょうか。
私たちは地の塩、世の光について黙想していきます。キリストの教える心の貧しい人とは、心の清い人というのは、先週から語られていますけれども、イエスの教えに忠実であることはどんなことなのか?私は難しく考えずに、心の清い人というのは「おごる事無く、素直で謙虚な純粋な心」と単純に理解するようにしています。聖書の中にはもっと深い意味がそこにあるのかもしれませんが、私は単純に置き換えて山上の垂訓を受け止めようとします。地の塩、世の光を黙想するときも、そのような心が大切ではないでしょうか。
今日の第一朗読のイザヤの予言のみ言葉も、私たちの黙想を助けてくれます。
イザヤは「飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝きでて、真昼のようになる」とも話されています。
助けを必要としている人に私たちの地の塩の役割、光の役割をそっと差し出すことができる信仰者でありたいと思います。
聖人たちが、神の国の平和を願って命をささげた「真の平和」は、まだまだ私たちの世界には実現できていません。主が私たち一人一人に期待する地の塩、世の光となることができるように祈りましょう。』
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