2017年2月5日日曜日

年間第5主日 「地の塩、世の光」

今日2月5日は「日本26聖人殉教者」の記念日です。
先週の「山上の垂訓」から続く今日のみことば「地の塩、世の光」について黙想してみましょう。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『暦の上では昨日が立春でした。まだまだ寒い北海道ですが、言葉の響きから何となく春を感じるこの頃です。毎朝の7時のミサでも日の出が少しづつ早くなっていることに気付きます。
今日2月5日の日曜日、主日のミサを行っていますが、本来は「日本26聖人殉教者」の記念日となっています。主日であっても26聖人の信仰を心に留めながら、今日のミサを捧げることにいたしましょう。
この26聖人は、1862年6月8日に当時のピオ9世教皇によって列聖され、「日本26聖人殉教者」の記念日が誕生しています。26聖人は遡ること1597年2月5日に長崎の西坂の丘で、その命を神様のもとに捧げられています。皆さんも思い起こすと思われます。その26人の中で最年少は12歳のルドビコ少年でした。そして13歳と14歳の同じ年代のこどもが3名いたことはあまりにも有名な話です。日本人20名と共に6名の外国の司祭、修道士もおりました。

そして、もう一つ今日思い起こして欲しいことは、2日後の2月7日にユスト高山右近の列聖式が大阪で行われるということです。高山右近については三年前、その時はまだ列聖が決まっていませんでしたが、私が北一条教会に赴任した五月に京都から大塚司教様が来て講演をして下さいました。高山右近の列聖式にも心を合わせて共に祈りたいと思います。

さて今日の福音についても一緒に考えてみましょう。
先週の山上の説教に続いて、私たちに語られたイエスのみ言葉は、「あなたがたは地の塩・世の光である」。「塩」や「光」の役割・使命を改めて説明する必要はないと思います。すでに私たちは理解しています。でも、わたしがその塩である、その光であるという思いで、そのみ言葉を私たちはもう一度、味わってみなければならないと思います。
わたしが塩そのものであるとは?わたしが光そのものであるとは?どういうことになるのでしょうか?一人一人が地の塩であるということは、また、神からの恵みを賜り、個性を持った一人の人間としても考えることができます。わたしの価値を生かすことができるその地の塩である、他の人にはない優しさや、明るさ、力を持つ人間としても考えることができると思います。
わたしはそのような信仰を大切にしているでしょうか?塩の役目、役割を自分に当てはめて考え、その思いをもって、周りの人々と接しそして生活を実践していくなら、私たちの信仰から人々へ、イエスの生き方、イエスのみ言葉が伝わっていくような気がします。そのような努力をしながら、私たちは宣教ということにもっと深くつながっていけるような気がいたします。
イエスは今、現在、身に覚えのないことで傷つけられ、落胆しそうになり、悲しみにある人々を勇気づけてくださっています。我慢の限界にきそうな人に向って話されます。「あなた方が地の塩であり、世の光であることを考えなさい」。塩は塩味を付けることで効果があり役割を果たします。忍耐ができずに逃げ出して、塩味をつけられないものとなったら何の役にも立たなくなり、外に捨てられ、人に踏みつけられてしまうだけになってしまうかもしれません。
世の光も同じことが言えます。光に求められるのはただ照らすこと。くじけることなく灯のように、懸命に周りを照らすことが大切です。光は最後の最後に小さくなっても照らし続けてその命を終えていきます。光もまた周りの人に対して立派に見せるために輝いているのではありません。自分が受けた光を従順に照らすことで、人は神を褒め称えるというのが聖書の教えではないでしょうか。
私たちは地の塩、世の光について黙想していきます。キリストの教える心の貧しい人とは、心の清い人というのは、先週から語られていますけれども、イエスの教えに忠実であることはどんなことなのか?私は難しく考えずに、心の清い人というのは「おごる事無く、素直で謙虚な純粋な心」と単純に理解するようにしています。聖書の中にはもっと深い意味がそこにあるのかもしれませんが、私は単純に置き換えて山上の垂訓を受け止めようとします。地の塩、世の光を黙想するときも、そのような心が大切ではないでしょうか。
今日の第一朗読のイザヤの予言のみ言葉も、私たちの黙想を助けてくれます。
イザヤは「飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝きでて、真昼のようになる」とも話されています。
助けを必要としている人に私たちの地の塩の役割、光の役割をそっと差し出すことができる信仰者でありたいと思います。

聖人たちが、神の国の平和を願って命をささげた「真の平和」は、まだまだ私たちの世界には実現できていません。主が私たち一人一人に期待する地の塩、世の光となることができるように祈りましょう。』