「敵を愛しなさい。敵のために祈りなさい」というイエスの教えは、私たちが神の子としての生きる道を示しています。
後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日から札幌で始まる冬季アジア大会の関係者の方も教会に見えられています。ようこそいらっしゃいました、歓迎いたします。良い思い出となりますようお祈りいたします。
春を感じる水滴が屋根から滴り落ちるのを窓からいつも覗いています。水浸しの足元が気になって、寒さが戻ると滑るような気がして、転ばないように気を遣っています。
天気予報の中で「光の春」の訪れ、という言葉で解説がありました。「光の春」、まさに響きのよい言葉として受け止めています。み言葉のメッセージも私たちの心に新しい光、暖かな光を届けて春を告げているようですが、私たちは今日のみ言葉をどのように受け止めているでしょうか?
今日は、先週の「わたしが来たのは、律法や予言者の教えを廃止するためではなく、完成・成就するために来たのである。」という教えに引き続いて話されるイエスのみ言葉です。「目には目を、歯には歯を」という旧約の同害復讐法の教えを取り上げながらも、旧約の教えに留まるのではなく、それを否定して「敵を愛する」ことを弟子たちに語られたイエスです。同害復讐法は日本の思想にもあって、「仇を討つ」こととして許されていた時代があり、そのような物語は美化され、涙を誘い感動を呼ぶ映画にもなっています。今はそういうことではなくて、憎しみの連続をつくってはならないということで、そのようなことが起こらないように、相手を許すことが大切にされる時代になってきています。憎しみの連鎖は、終わりなき戦いが延々と続くということでもあり、それは決して平和につながるものではないということも私たちは心の底から知っています。でもそう思いながらも、もし家族の一人が何の罪もなく誰かに殺されたとしたら、きっと家族の人にとっては憎しみの感情を抑えることは至難の業ではないかと思います。そのような人間の感情を知りながらも、イエスは旧約の教えに留まる事なく、敵を愛すること、敵を許すことを弟子たちに教えています。
イエスの教えは「悪人には逆らうな」。悪人を戒めたり、懲らしめたり、そのような思いを私たちは誰しも抱えるかもしれませんが、そのような当たり前の考えを覆すように「敵を愛しなさい」と私たちにも話されます。
そんなイエスの教えは、私たちにとっても、ましてや当時の人々にとっては、驚きの話でした。今までそんな教えはありませんでした。聖書のとおり、古い慣習や伝統のとおり、それを守ることが掟を守ることであり、その掟を生きることが天の国へ入ることの要件でもあったと考えられていたからです。
ですから、山上の説教でも人々はイエスの話を聞いたとき驚いたのです。「心の貧しい人は幸いである。」「心の清い人は幸いである。」と逆説的な教えを話されたように、今日の福音でも敵を憎むのが当たり前とする考えから、「敵を愛しなさい。敵のために祈りなさい」とイエスは話されます。他人に損害を与えるよりは、自分が悲しみ損をすることを善しとする隣人愛、愛することと同時に祈ることもイエスは強調しています。
これは救いの時代に生きる私たちが、悪の力から救われ、神の子、天の父の子となるために、どのようにイエスとともに生きるかということを、話しているということでもあります。昔の教えのように「隣人を愛し、敵を憎む」のであれば、神の子でなくて誰でもしていること。当時悪人、罪人と言われていた徴税人でさえもしていることで特別なことではない。異邦人でさえもしていることだとイエスは話されます。
人々はイエスのそのような教えに驚きながらも、人間として考えたならば、その方がどれだけ素晴らしいことかということに気付かされています。イエスは言います「あなた方は神の子である。神に愛され神から招かれている一人一人なのだから、そのように生きなさい」と話すのです。「天の父のように神の子に相応しく、あなた方も完全な者となるように」と話されます。
2週間前、「あなた方が地の塩であり、世の光であることを考えなさい」と言われたときと同じように、イエスが世の光であるように「あなた方は、すでに世の光である」ということも話されました。私たちが何度も聞くその聖書の言葉に、「私は世の光なのか?地の塩なのか?とてもなれません・・・」と言い続けているそのような心に私たちは気付かされます。でもイエスは私たちに「神の子として生きるのであれば、そうありなさい」と話されているのだと思います。
このイエスの言葉を心に留めるときに、私たちはどう自分の生き方を変えていかなければならないのでしょうか?
いま私たちの心の中には、偏った愛、自分に都合の良い愛、自分の好きな人にだけ向けようとする愛を、優先するような心を抱えていると思います。でもイエスはその心を変えていくことが、神の子の道を生きることだと話しています。神の子とされ洗礼の恵みを受けて生きている私たちは、そのイエスのことばに従い、それを守ることが出来るように恵みを求めなければなりません。もしつまずいたならば、素直に赦しを願い、また新しい心で立ち上がることを続けなければならないと思います。そこに神の子の恵みが降り注いでくると思います。
先週から続いているこのイエスのみ言葉と教えから黙想していくと、律法学者やファリサイ派の人々へ向けられた「義に勝っていなければ、あなた方は決して天の国に入ることは出来ない」というイエスのみ言葉につながります。天の国。今、元気で健康な日々を送っている人は、あまり意識は持たないかもしれませんが、やがて弱り果て死を意識した時には、誰もが天の国に入ることを必死に願うと思います。私たちは健康な時、病気の時に関わらず、天の国を求め続けなければいけないはずです。
神を愛すると言いながら、私たちが日々生きている家族や隣人への愛はどうでしょうか?私たちが実行している愛はどんな愛でしょうか?
もう一度振り返りながら、「あなた方も聞いているとおり」と繰り返されたイエスのことば、私に告げられたこのみ言葉をもう一度心に留めて、歩み始めたいと思います。
イエスの心を生きる愛とはどういうことなのか?私たちはもう教えられなくてもイエスの愛を知っています。キリスト者としての理想に近付くことができるように努力していきたいと思います。つまづいても転んでも、イエスはいつも私たちに手を差し伸べて起き上がらせてくれることを、もう一度深く信頼して歩みを続けたいと思います。』