2017年2月12日日曜日

年間第6主日

今週の2月7日(火)大阪城ホールで、ユスト高山右近の列福式が行われ、約1万人が集まったそうです。列福式の様子はインターネットの動画サイトで生中継され、当教会のカテドラルホールでも放映されました。入祭の歌「いつくしみ深い御父のように」が荘厳に流れる中、札幌教区の簑島神学生が侍者として香炉を持って入場する姿も写っていましたね。



今日の主日ミサの福音では、イエスが厳しい言葉でキリスト者の"義"について語られました。私たちは、イエスの語られた義について黙想したいと思います。

後藤神父様のお説教をご紹介したいと思います。


『皆さんはこの1週間をどのように過ごされたでしょうか。先週火曜日は高山右近の列福式が大阪で行われ、インターネットをとおしてその儀式を観ることができました。私たちの教会では大きなテレビの画面を観て、集まって来た人たちと一緒に列福式の様子を観ました。日本にもう一人の聖人(福者)が誕生しました。

  今日、私たちに語られたみ言葉で「律法」とういう言葉が出てきました。その言葉を私たちはどのように考え、イメージするでしょうか。私たちにとって「律法」とはどんなものでしょうか。今日のみ言葉で「あなたがたも聞いているとおり」と、3回もイエスは繰り返し話します。それは私たちが知っているということを前提にして、イエスは律法の規定や掟について話されます。「あなたがたも聞いているとおり」というのは、私たちが知っている正しい生き方、法による規定、倫理や道徳。それは善悪に繋がるでしょう。また、様々な習慣、そして信仰からくる教えなど。良い規則、規律や掟などは数限りなくあることを言われます。そのことをあなたがたも聞いているでしょうと、イエスは私たちに問いかけます。
  しかし、私たちが知っているそうした掟やその全容、良い行いをみんながそうしているかといえば、必ずしもそういうことではないのです。やらなければならないと知ってはいても、それを行動に移すかどうかは一人ひとり、様々な状況におかれます。正しいこととして優先させて、何が何でもやらなければならない。覚悟してやるときもあれば、それは仕方がないと諦めやそんな気持ちでやっている時もあるかもしれません。やらないとき、やれないときもあります。そして、それを許してしまう自分もあるような気がします。でもイエスは言います。「小さな掟をひとつでも破ることは、天の国で最も小さな者である。しかし、小さな掟を守る者は天の国で最も偉大である。」。こう、私たちに話されます。小さな掟をひとつでも破ることは小さな者。小さな掟を守る者は偉大な者。こういうイエスの教えを私たちは、これまでに何度何度も繰り返し聞いていますけれど、小さな掟も守れないのが私たちのようです。だとすれば天の国では最も小さな者になってしまう。もしかするとそれによって、天の国に入ってしまうことになるかもしれません。知っていること、理解していることを行動に移すことはどんなに難しいことかと、このことからも分かります 
 一方、信仰の世界の律法は、本来モーセが神から授かった「十戒」に由来するということも考えることが出来るようです。「十戒」で具体的に十の掟がイスラエルの民に授けられました。それは神が宗教生活の中心となる基準として人間に授け、そして教えるものでした。基本的なものだっと思います。その旧約の古い律法を、イエスは新約の新しい律法として完成させたと、今日のみ言葉では語っています。古い律法、新しい律法というものがあるんだなと、こういうところからも分かります。

   一方にはもうひとつ、律法には「自然の律法」と呼ばれるものも教会の思想の中に示されます。旧約の律法は旧約時代の律法として理解出来ますし、新約の律法はイエスが来られてから新しく教えられた律法、掟として理解することも出来ます。でも、「自然の律法」というのは皆さんは聞いたことがないと思います。
 「自然の律法」はどういうことでしょうか。教会の思想から考えていくと、旧約や新約の民とはかけ離れた異邦人や様々な国の人がいます。キリスト教、ユダヤ教徒でない人々がいます。でもそうした人々の心の中にも、律法の要求するところを心の中に保って、正しいこと、義を行っている。それをパウロは「自然の律法」という表現をとってローマ書で書かれているのです。ですから通常、私たちがキリスト者として、イスラムの民の関わりを持つ者として、信仰者として、旧約の律法、新約の律法は理解できることですが、それを超えたところで「自然の律法」もあるのだということのようです。民族の中に、国の中に、そして社会の中には様々な掟や決まり事が生まれていきます。神の「み心」に適ったものもあれば、ときにはそれからかけ離れたものも決まり事して、それぞれの社会、グループに存在します。
  私たちは生活の中で常にそうした正しいこと正しくないことの基準を学んで、理解しながらそれを選択して生きているのが現実です。小さなことで他の人に知られたくない。知られることのないことであれば、自分の選んだ選択が人にはあまり奨められないことでも、まぁいいか、しょうがないか、そんな気持ちになって安易に行動することもないわけではありません。そこには、外見的に悪いことをしなければ大丈夫という考え方が潜んでいるかもしれません。

  イエスの今日のみ言葉は、私たちのそのような心の奥深くを突いてくる話しのように、私は考えています。私たちの安易な考え方に挑戦してくるイエスのみ言葉だと私には思えます。小さな掟をないがしろにしてしまう私たち。そうであってはならないというのが、今日のイエスの話しになるような気がします。私たちの行為には時には衝動的と思われるような、日頃、心の中で積み重ねていたものが外に現れる場合があるようです。大きな過ちとなる前に隣人を傷つけたり、おとしめたり。また、自分のわがままで人をおしのけたり、人を批判したり、軽蔑したりする心の内なる動きがあるようです。そうした心の積み重ねが、時には自分では抑えることの出来ない大きな罪を吹き出させるとも言えないでしょうか。イエスは「私は言っておく」という表現をとって私たちに語ります。殺人という大きな罪、罪名よりその行為の根本にある人間の欲望を指摘しています。イエスは新しい掟として、心の内からすべてを清めようとしています。本能的な欲望に真正面から私たちが向かっていくことを求めています。いい加減にしてはならない。きちんと良く見つめて、それに対処していかなければならない。それは簡単に実行できることではありませんが、私たちを大切に思い、一人ひとりを天の国に招くためにイエスはそのことを私たちに話されます。私たちの救いのために、私たちが天の国に招かれるために。外面や体裁だけをいつも作ろうとしたら、いつまでも自分は変わらない。だからこう言います。「右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。からだの一部が無くなっても、全身が地獄に投げ込まれないほうがましである。」イエスの教えは厳しいです。私たちの心の中の動きの、冷たく暗い動きと戦いながら、心をこめて誠実な愛を自分の心に投げかけていく努力をすることが大切である。そうイエスは私たちに語りかけます。心を清めるということは、自分の方正との戦いでありますから難しいのは当然です。そして、自分の心の中に平和が訪れるためには、そうした積み重ねが大切だということでもあります。ましてや社会や世界に平和が訪れるためには、一人ひとりの内なる戦い、積み重ねと努力によって生まれてくるのではないでしょうか。平和というものはそんなに簡単に築かれるものではありません。私たち一人ひとりの小さな努力の積み重ねによって作られていくものだと思います。私たちの未来の生と死は私たち一人ひとりの自分への真実な挑戦、戦いにかかっていると思います。

 ユスト高山右近が2月7日に列福されました。高山右近の生き方、その人柄を私たちは様々なパンフレットをとおして少しは理解しています。生涯をかけて神を信じ、祈りと慈しみと正義に自分の地位と名誉、すべてを捨てたそういう高山右近の生き方、信仰が列福に向かっていったということだと思います。祈りと慈しみと正義を生きた高山右近。信仰を生きる日々の中で正しいこと、正義に背くことをはっきりと知っている私たちです。でも、それは出来る出来ないで終わってしまうことがないように。今日は私たちもまた、主の祭壇の前で祈りたいと思います。イエスの呼びかけとして、しっかりと受けとめて、正しいこと正しくないことを理解し、そして自らの行動に正しい道が繋がっていくように。そして勇気と力を頂いて、新しい一歩を歩み出すことが出来ますように。今日も私たちは、こころをひとつにして、主の食卓にあずかり、新しい自分に変えられるように祈りたいと思います。』



さて、主日ミサの後、教会の”雪割”を行いました。今年の冬は例年よりも積雪量が多く、結構大変でしたが、ボーイスカウトの皆さんや屈強な外国人信徒も協力し、窓を塞いでいた雪や、屋根に積み重なった固い氷もきれいに片付きました。皆さん本当にお疲れさまでした!







雪割終了後は、B地区の皆さんが心を込めてご用意いただいた豚汁、そして、J.Jが差し入れして下さったカレースープと焼き魚で、お腹も満たされ疲れも癒されました。感謝!