2017年5月29日月曜日

5月28日(日)主の昇天

御復活から40日が経ち、いよいよ天に昇られるという「主の昇天」を今日、私たちはお祝いします。

札幌はライラックの花が満開です。ライラックは「札幌市の木」に指定されています。
札幌の開拓期にアメリカ人女性 サラ・クララ・スミスさんが持ち込んだそうです。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日も雨上がりの中、狭くなった駐車場はどんな様子かなとミサの直前まで見ていましたら、駐車場を越えて司教館のライラックの花がやはり目に飛び込んできます。ピンクと白いライラックの花がもう満開で、もうそろそろピークを越えたかのように見えています。工事が始まり塀が出来ていますので、かつては緑の芝が目に飛び込んでいましたが、今は教会の前のケヤキの緑だけが目につくようになって、ライラックの花はまだ見えていますが、来年は見事に成長したライラックはどうなるだろうと、そんなことを考えながら最近は外を良く見回しています。皆さんも見納めの司教館の庭を良く眺めておいてほしいなと思います。

 さて、今日は主の昇天の祝日を迎えております。復活したイエスは弟子たちに現れ、神の国について話しをしておられました。復活してから40日が経って、いよいよ天に昇られるという「主の昇天」を今日、私たちは祝います。主の復活を信じる私たちには、新しい希望が生まれました。でも、現実の生活の中では悩みや苦しみがたくさんあります。病気や人間関係においても途方にくれることがあります。そういう中で私たちは信仰を思いおこし、苦しみの十字架で死んだはずの復活の主イエスに出会うことによって、新しい朝を迎える日々が続きます。
新しい朝を迎えると今日もそうですが、雨があがって朝日が降り注ぎます。太陽が昇ります。暗闇が終わるように明るい希望の一日が始まります。闇が終わるように私たちも信仰において希望をしっかりと持つならば、たとえ現実の生活の中に苦しみがあったとしても、苦難に押しつぶされることはないと思います。
 イエスと真に出会って復活を信じることによって、私たちは希望を持ち続けることができます。復活の主イエスは、受難と復活によってご自分の果たすべき使命を終えられて、その完成の姿を昇天というかたちで示されました。私たちに神の生命を与えるというその御業は、弟子たちに受け継がれ、そしてすべての時代の人々がその神の生命に与るように召されている、そのようにまた生きなさいと、イエスは弟子たちに最後の最後、話されています。

 キリストの昇天は、福音記者それぞれが聖書で述べています。感覚的にも、視覚的にも私たちの経験をはるかに超える神秘がそこにありました。その昇天は誰もが想像さえ出来なかった事実でした。私たちは今、受け継いだ信仰において注意深くその神秘の深遠の意味を常に探求しなければと思います。教会の信仰宣言…ニケア・コンスタンチノープル信条においてもこの主の昇天の出来事が語られます。信仰宣言の言葉は天に昇って父の右の座についておられますとの表現になっています。聖書では黙示録でもイエスは王座についておられるという表現がなされています。実際、主の昇天に関する詳しい 箇所は今日私たちが聞いた第一朗読に書かれています。そして、その叙述は淡々としたものとして描かれています。

  旧約の時代から預言者をとおしてそのことが暗示されていました。 神の権限につきものの雲が現れ 、その情景を説明するかのように、イエス様の昇天の時には二人の天使の声でキリストが天に昇られたということを説明します。イエスの復活を目の当たりにして信じていた弟子でした。そして、イエスとの最後の出会いは、イエスが指示されたとおりのガリラヤの山です。そのガリラヤで最後の出会いをして、弟子たちは派遣の言葉をいただきました。イエスは弟子たちに最後の指示をなされる時、権能を示され、「すべての人を弟子にしなさい。洗礼を授け私が命じた教えを守らせなさい。」と話します。さらに「私は世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる。」と約束してくださいました。マタイの福音28章は、その派遣の言葉、今日私たちが聴いた言葉で閉じようとしています。私は世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる。マタイの福音のイエスの最後の言葉として告げられたこの宣言、言葉。「いつもあなたがたとともにいる」という言葉は、実はマタイ福音書の1章の中でも表現されている言葉でした。状況は違いますが、いつもあなたがたとともにいるという言葉は、マタイ福音書の第1章の中にもすでに描かれたということは、福音の秘儀ということはそこに感じられます。どういう状況でそのとき語られていたでしょうか。皆さんは思いおこすことができるでしょうか。マタイ福音書の最初、第1章ですから、イエスがまだ産まれる前の出来事がそこに描かれています。マリア様が天使によって身ごもったというお知らせをとおした情景の中に、いつもあなたがたともにいるという言葉が示されていました。誕生を知らせる天使のお告げの場面です。その第一章の聖書の言葉はこのように表現されていました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルとよばれる。」皆さんも思いおこす言葉だと思います。その名はインマヌエルとよばれる。このインマヌエル、この言葉は神がわれわれとともにおられるという意味の説明が付けられているのです。イエスが産まれる前からそのイエスという人は、神の子は私たちを救うために御父から贈られこの世に誕生する人。そしてその方はわれわれとともにあるという言葉において、もうすでにマリア様のおなかに誕生したときに告げられていたということです。そのことを気付かされるだけでも、聖書の神秘が、深遠な意味がちりばめられていたということに驚きを感じられます。

  でも、実際私たちの現実に目を向けると感動ばかりはしていられない状況が見えてきます。昔も今も私たちの現実の中にはいつも不完全なことが起こっています。それもまた驚きになります。今日の短い朗読の中でこ場に及んでも、弟子たちのなかに「疑う者がいた。」という 表現がありました。復活の主と出会って40日間過ごしていたにもかかわらず、そして最後の最後、イエスと出会い、主の昇天の姿を見送る弟子たちの中に「まだ疑う者がいた。」という表現が聖書でなされているということ。ここにも驚きを感じます
  弟子たちであっても、復活の主と出会っていても、その主から直接声を聞き、教えを受けているにもかかわらず、まだ疑う者がいたという表現がなされている。私はそのことにもまた驚きを感じます。

  でもよくよく考えてみると、イエスを見ても信じ切れない弟子の姿は、かたくなで変わろうとしない私自身の姿に重なってくる気がします。私はどこまで信じているだろうか。どこまで復活の信仰を持っているのだろうか。私もどこかで弟子たちと同じように疑う気持ちがまったく消えていない、そんな思いもいたします。それはきっと私たち自身の姿でもないでしょうか。口では信じます、悔い改めます、と言いながら生き方を改めること、努力をしない生ぬるい生き方、生活を続けているのが私たちではないでしょうか。でもそんないたらない私たち、かたくなな私にも主イエスは呼びかけます。呼びかけてくださっています。行きなさい、み言葉を伝えるために。復活の主を証しするために。いたらない弱い私たちにも主は呼びかけ、そして私たちと共にいてくださいます。弟子たちだけでなく私たちにも、これからずっと共にいてくださると約束してくださった主に信頼して、キリストと一致し、力強く歩むことが出来るように、今日もまた祈りを捧げましょう。

  そして5月の聖母月、残りが少なくなりました。マリア様をとおして、この世に救い主を贈ってくださった御父に目を向けます。御父は、「いつもあなたがたとともにいる」というイエスに出会う恵みを、マリア様をとおして私たちに与えてくださってもいます。聖母月、マリア様にも感謝の祈りを心からする日々でもありたいと思います。』

2017年5月21日日曜日

復活節第6主日(世界広報の日)

私たちは、隣人を愛することで神につながることが出来ます。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日は「聖書と典礼」にも載っていますが、「世界広報の日」です。
今週のカトリック新聞は紙面の2ページを使って、「広報の日」の教皇様のメッセージが掲載されています。少しその一部を紹介してみます。
メッセージのタイトルは「畏れるな、わたしはあなたとともにいる」、イザヤの43章のことばになります。そしてポスターの中に短いメッセージが書かれています。
「他者に対して先入観を抱かずに、出会いの文化を育むことにより、確かな信頼をもって現実に目を向けられるよう助ける、建設的なコミュニケーションをわたしは皆さんに強くすすめる」と、教皇様のメッセージの真髄がここに見えてくるような気がします。
私たちの今の時代、広報は本当に様々な形で深く関わっています。テレビやラジオ、そしてインターネットは世界中の情報を即座に私たちの元に届けます。その情報が良くても悪くても飛び込んでくる、そういう時代を私たちは今生きています。しかし、様々な情報に接している現在、他者に対して先入観を抱かずに、情報を正しく理解し、判断しているでしょうか。とても難しい状況にあるような気がします。
友人と隣人との関係を振り返っても同じことが言えるのではないでしょうか。そんなことも考えさせられます。それでも教皇様のメッセージをとおして考えるとき、私たちが信頼をもって話し合いをするかどうかが大切になるということを教皇様は話しておられます。また、主に信頼して希望を持ち続け、そして人との対話、関係を築き上げなさい、ということを教皇様は話されています。希望を持てない、そいう時代であるかもしれませんが、諦めてはならない、ということだと思います。
主に信頼して希望を持って諦めることなく、私たちは正しいと思うこと、神様がすすめる愛を隣人との間でも築いていける、そのようなコミュニケーションを持ち続けることが大切なようです。
広報の日にあたって、私たち一人ひとりの使命に照らして、共にいてくださる主とともに、み国のために働く希望を見失うことのないように、その働きを担うことができるように祈りましょう。

さて、来週は「主の昇天」を迎えます。そして6月に入ると、約束した助け主、真理の霊がくだる「聖霊降臨」の祝日、「三位一体」の祝日と、祝日が続く6月を間近にしています。
今日のみ言葉ではそのことを少し思い起こさせるように、真理の霊である聖霊を派遣するという内容が語られています。聖霊の派遣、それは最後の晩餐の席上でも話されていることですけれど、主イエス・キリストは、「私がこの世を去った時には、助け主、弁護者をおくる」と聖霊について話されました。そして先週のみ言葉の中では、父と子が一体であること、今日は聖霊について語っていますが、三位一体についても触れられているような気がします。
父とイエス・キリストは一つである。そしてイエス・キリストによって、私たちは神と深くつながっている。イエス・キリストは天に昇られた後は聖霊を遣わし、聖霊とも私たちは深くつながって、父と子と聖霊の名によって、私たちの信仰は生かされているということでもあります。
先週のみ言葉を思い出してみましょう。「あなた方がわたしを知っているなら、わたしの父も知ることになる。」このような言葉が書かれていました。不安を覚えていた弟子たちでした。最後の晩餐でイエスはこの世からいなくなる、そんな話をされて弟子たちは信じ難い話として不安を抱えました。それでも弟子たちはイエスに応えていきたいという気持ちを表しました。イエスはそれに対して弟子たちに、助けてくださる聖霊を遣わすと話されていました。今日のお話はさらにそれにつながって、「わたしを愛することが、わたしの掟を守る」ということを表しながら、「その掟を守るものは、わたしを愛するものである」、イエス・キリストと深くつながれているものである、という言い方をしています。
イエスが言う掟は、すでにヨハネ13章でも話されています。「新しい掟をあなた方に与える。互いに愛し合いなさい」。どのような愛なのか、それは、「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」。あなたが考えている愛ではなく、わたしが愛したように、わたしがあなた方に示した愛をあなた方も生きなさい、ということを教えています。それは、イエスを愛する掟を守れば、それは神を愛することにもなります。
私たちはそのことを大切にしなければなりません。
神を愛することは出来ても、簡単に隣人を愛することは出来ないというのが私たちの現実だと思います。神様から赦され、神様に祈りを捧げ、神様を大切にして愛するということは言えても、同じように隣人・友人をそのような表現で表すことは簡単ではありません。信者の方々と話をすると、「どうしても赦せない人がいます」という話がよく出てきます。赦したつもりでいても、ふとわだかまりが湧き出してくることがあります。愛することの難しさ、赦すことの難しさが私たちにはあります。でもそうだとしても私たちは神に信頼して、聖霊の助けを祈りながら、愛することを生きていかなければ神様と一つにならないということだと思います。
先日、平日のミサの中でみ言葉を聞いた時に、私はドキッとしたことがあります。その日の福音書は「ふさわしい信仰があると認められた人が癒しを受ける」という内容でした。ふさわしい信仰を持って初めて恵みに与ることができるのだと考えたときに、私は自分の信仰について、「ふさわしい信仰」を生きているかどうか、ということにドキッとして、そのみ言葉を受け止めました。自分は「ふさわしい信仰」を自信を持って生きているということを断言できない自分に気付いていたからです。それは誰でも同じではないかと思います。

今日のみ言葉の最後は、「掟を守り、父を愛するものは、わたしを愛することとなり、それ故に、わたしもその人を愛し、わたし自身を現す」と述べています。
神の愛のすばらしさ、神の愛の喜びを知るならば、きっと神の愛の力は隣人を思いやる心となっていくはずだと思います。自分の力だけではまだそのような生き方は出来ないかもしれませんが、神に信頼して神の力をいただきながら、そのような愛を生きることが出来るように今日もまた祈り、イエス様のご聖体に近付きたいと思います。
私たちの信仰が真の喜びの信仰となるためにも、そしてさらに霊的に成長することができるように、私たちはこのミサの中で心から祈っていきたいと思います。』

2017年5月11日木曜日

第20回 カテドラルコンサートのお知らせ

6月24日(土)午後3時から、カトリック北一条教会聖堂にて、
パイプオルガン設置10周年を記念して、第20回 カテドラルコンサートが行われます。
コペンハーゲンを活動拠点に活躍中で、当教会にも大変ゆかりの深い平中弓弦さんをお招きしてのオルガンリサイタルです。
是非、たくさんの方々のご来場をお待ちしています。

2017年5月7日日曜日

復活節第4主日

今日は「世界召命祈願の日」です。
神は一人ひとりをそれぞれ異なる召命に招いておられます。
自分に対する神の望みを祈りつつ探していくことは大切な務めです。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『連休が終わっての日曜日を迎えて、また新しい一週間が始まります。
大型連休と言われていましたが良い思い出があったでしょうか。よい一日を過ごされたでしょうか。またよい出会いはあったでしょうか。
5月の「聖母月」を迎えましたが、この一週間を思い起こして喜びや出会いを感謝の気持ちで心からマリア様に捧げ、祈りとすることができれば素晴らしいことだと思います。そして、そんな祈りを捧げられたら、聖母月もまた素晴らしい月に変わっていくことだと思います。祈りは実に多様であり、願ったり、頼み事だけでなく、感謝の心で捧げることも大事なことではないでしょうか。

さて今日は、「世界召命祈願の日」です。この日は、1964年に教皇パウロ6世によって定められ、神は一人一人を固有の召命に招いておられるのだといわれました。ですから、神に活かされている私たちは、一人ひとりが自分に対する神の招きを識別していく必要があるようです。
ある人は社会の中で会社員、医師や看護師、教員でもあります。また、工場で働く人でもあり、また夫や母としてよい家庭を築くように、そして、ある人は神と人とに仕える司祭、修道者となるように招かれているようです。神の招きは、このように人それぞれ異なりますが、自分に対する神の望みを祈りつつ探していくことが大切です。
召命という言葉を聞くと、司祭、修道者のことが先ず頭に浮かびます。しかし、神は、全ての人が誠実に自分の生涯を過ごすことを望んでおられます。一人ひとりにその道があります。「世界召命祈願の日」の今日は特に司祭、修道者への招きのために祈るように招かれていますが、すべての人が神から招かれているという基本的なことを忘れないようにしたいものです。そのためにも、一人ひとりの心に語り掛ける神の声に耳を傾け、その声に従う勇気を祈り求めましょう。教皇様のメッセージの言葉には「全ての信徒は福音宣教者である」とあり、主のことばを聞くために、自分自身の囲いの中から出るようにと呼びかけています。

今日のみ言葉を黙想してみましょう。
よき牧者であるイエスは、羊のため、それは私たち信者のためと受け止められますが、その羊たちに自分のいのちを与える覚悟を牧者の条件として示しています。だからこそ、司祭も病気や年齢に関係なく、司祭職を全うすることに命をかける人が多いのだと思います。遠く自分の生まれた故郷を離れて日本に来られている宣教司祭は、まさに自分の家族や自分の生まれた国から離れても、なおその使命に命をかけているのです。
でも司祭も人間です。人間的な欲求もあります。その内なる欲求と闘いながらも牧者の心を第一に考えているのです。それがイエスの心であり、召命の道だと思います。
孤独や不安と向き合い、罪を繰り返す私たちであっても、なおイエスの憐みは、私たちへの愛となって十字架に向われたという事実に向き合う時、力が与えられ希望も生まれてくるのです。

「私は羊の門である」とイエスは言われます。私たちの救いの門は、ただ一つだけです。洗礼を受けて救いの門をくぐった私たちですが、囲いの中に入っただけで救いが保証されているわけではありません。囲いの中にも危険が常にあるのです。囲いの中にも強盗や盗人が入ってくるとイエスはたとえ話を使って話しています。教会の中にあっても、まだ私たちは救いの道を歩んでいるということではなく、救いの道を歩むためには常に真剣に神と向き合い神と繋がって神の声を聞いていかなければならないと思います。まさに私たち現代社会にに生きる人々の上には、どんな安全も保障されているわけではないということは、誰もが気付いています。そのような中で私たち一人ひとりの召し出しをどのように生きていこうとしているのか。
ペトロは第二朗読で召された理由を話しています。その理由はただひたすらキリストに倣うこと、そのキリストのみ跡に忠実に従うということでした。
今日の教会において召し出しの現状は厳しい状況にありますが、悲観に暮れてばかりではいられません。幸い、この教会では、喜んで侍者の奉仕を子供たちが務めてくださっています。
教会のための召命を他人事としてではなく、一緒に考えていくとことができたらと、つくづく考えさせられます。献堂100周年に「次の世代につなぐ」というテーマを掲げて私たちは歩んできました。そのテーマをつぶやくのでなく、心からの祈りとしていけますように。昨日は「召命の集い」を教区の主催で行っています。先週の日曜日にはそのことを皆さんにお知らせして、お祈りをお願いしていました。
10年に一人でも、一つの教会から一人の司祭を送り出すことができたなら、司祭の高齢化とはいえ、それほど大きな心配はないのではと思いますが、それも難しいのが現状です。。
そのようなことを考えると、比較的大きな教会は、10年、20年をかけて、一人の召し出しを実現していくということを真剣な思いで祈りを捧げ、教会に来られる子供たちを支えることが出来たなら、どんなに素晴らしいことになるかと、時々夢のようなことを考えます。子供たちは今、私たちの教会にとっても宝そのものだと思います。信者である私たちみんなが、その子供たちをわが子のように共に寄り添い、励まし、喜びをこの子供たち一人ひとりと分かち合うことができているだろうか。分かち合うことができなければ、私たちは本当の共同体、家族になっていないのではないか?そんなことも考えます。

よき牧者であるイエスの心に私たちもしっかりとつながって、囲いの中にあっても、また囲いの外に出たとしても、イエスの愛を私たちが示すことができるように、伝えることができますように。また、主の呼びかけにマリア様が応えたように、「はい、ここに私はおります」と、応える牧者の心につながる若者の召命のためにもお祈りを捧げましょう。』