2017年5月21日日曜日

復活節第6主日(世界広報の日)

私たちは、隣人を愛することで神につながることが出来ます。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日は「聖書と典礼」にも載っていますが、「世界広報の日」です。
今週のカトリック新聞は紙面の2ページを使って、「広報の日」の教皇様のメッセージが掲載されています。少しその一部を紹介してみます。
メッセージのタイトルは「畏れるな、わたしはあなたとともにいる」、イザヤの43章のことばになります。そしてポスターの中に短いメッセージが書かれています。
「他者に対して先入観を抱かずに、出会いの文化を育むことにより、確かな信頼をもって現実に目を向けられるよう助ける、建設的なコミュニケーションをわたしは皆さんに強くすすめる」と、教皇様のメッセージの真髄がここに見えてくるような気がします。
私たちの今の時代、広報は本当に様々な形で深く関わっています。テレビやラジオ、そしてインターネットは世界中の情報を即座に私たちの元に届けます。その情報が良くても悪くても飛び込んでくる、そういう時代を私たちは今生きています。しかし、様々な情報に接している現在、他者に対して先入観を抱かずに、情報を正しく理解し、判断しているでしょうか。とても難しい状況にあるような気がします。
友人と隣人との関係を振り返っても同じことが言えるのではないでしょうか。そんなことも考えさせられます。それでも教皇様のメッセージをとおして考えるとき、私たちが信頼をもって話し合いをするかどうかが大切になるということを教皇様は話しておられます。また、主に信頼して希望を持ち続け、そして人との対話、関係を築き上げなさい、ということを教皇様は話されています。希望を持てない、そいう時代であるかもしれませんが、諦めてはならない、ということだと思います。
主に信頼して希望を持って諦めることなく、私たちは正しいと思うこと、神様がすすめる愛を隣人との間でも築いていける、そのようなコミュニケーションを持ち続けることが大切なようです。
広報の日にあたって、私たち一人ひとりの使命に照らして、共にいてくださる主とともに、み国のために働く希望を見失うことのないように、その働きを担うことができるように祈りましょう。

さて、来週は「主の昇天」を迎えます。そして6月に入ると、約束した助け主、真理の霊がくだる「聖霊降臨」の祝日、「三位一体」の祝日と、祝日が続く6月を間近にしています。
今日のみ言葉ではそのことを少し思い起こさせるように、真理の霊である聖霊を派遣するという内容が語られています。聖霊の派遣、それは最後の晩餐の席上でも話されていることですけれど、主イエス・キリストは、「私がこの世を去った時には、助け主、弁護者をおくる」と聖霊について話されました。そして先週のみ言葉の中では、父と子が一体であること、今日は聖霊について語っていますが、三位一体についても触れられているような気がします。
父とイエス・キリストは一つである。そしてイエス・キリストによって、私たちは神と深くつながっている。イエス・キリストは天に昇られた後は聖霊を遣わし、聖霊とも私たちは深くつながって、父と子と聖霊の名によって、私たちの信仰は生かされているということでもあります。
先週のみ言葉を思い出してみましょう。「あなた方がわたしを知っているなら、わたしの父も知ることになる。」このような言葉が書かれていました。不安を覚えていた弟子たちでした。最後の晩餐でイエスはこの世からいなくなる、そんな話をされて弟子たちは信じ難い話として不安を抱えました。それでも弟子たちはイエスに応えていきたいという気持ちを表しました。イエスはそれに対して弟子たちに、助けてくださる聖霊を遣わすと話されていました。今日のお話はさらにそれにつながって、「わたしを愛することが、わたしの掟を守る」ということを表しながら、「その掟を守るものは、わたしを愛するものである」、イエス・キリストと深くつながれているものである、という言い方をしています。
イエスが言う掟は、すでにヨハネ13章でも話されています。「新しい掟をあなた方に与える。互いに愛し合いなさい」。どのような愛なのか、それは、「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」。あなたが考えている愛ではなく、わたしが愛したように、わたしがあなた方に示した愛をあなた方も生きなさい、ということを教えています。それは、イエスを愛する掟を守れば、それは神を愛することにもなります。
私たちはそのことを大切にしなければなりません。
神を愛することは出来ても、簡単に隣人を愛することは出来ないというのが私たちの現実だと思います。神様から赦され、神様に祈りを捧げ、神様を大切にして愛するということは言えても、同じように隣人・友人をそのような表現で表すことは簡単ではありません。信者の方々と話をすると、「どうしても赦せない人がいます」という話がよく出てきます。赦したつもりでいても、ふとわだかまりが湧き出してくることがあります。愛することの難しさ、赦すことの難しさが私たちにはあります。でもそうだとしても私たちは神に信頼して、聖霊の助けを祈りながら、愛することを生きていかなければ神様と一つにならないということだと思います。
先日、平日のミサの中でみ言葉を聞いた時に、私はドキッとしたことがあります。その日の福音書は「ふさわしい信仰があると認められた人が癒しを受ける」という内容でした。ふさわしい信仰を持って初めて恵みに与ることができるのだと考えたときに、私は自分の信仰について、「ふさわしい信仰」を生きているかどうか、ということにドキッとして、そのみ言葉を受け止めました。自分は「ふさわしい信仰」を自信を持って生きているということを断言できない自分に気付いていたからです。それは誰でも同じではないかと思います。

今日のみ言葉の最後は、「掟を守り、父を愛するものは、わたしを愛することとなり、それ故に、わたしもその人を愛し、わたし自身を現す」と述べています。
神の愛のすばらしさ、神の愛の喜びを知るならば、きっと神の愛の力は隣人を思いやる心となっていくはずだと思います。自分の力だけではまだそのような生き方は出来ないかもしれませんが、神に信頼して神の力をいただきながら、そのような愛を生きることが出来るように今日もまた祈り、イエス様のご聖体に近付きたいと思います。
私たちの信仰が真の喜びの信仰となるためにも、そしてさらに霊的に成長することができるように、私たちはこのミサの中で心から祈っていきたいと思います。』