御復活から40日が経ち、いよいよ天に昇られるという「主の昇天」を今日、私たちはお祝いします。
札幌はライラックの花が満開です。ライラックは「札幌市の木」に指定されています。
札幌の開拓期にアメリカ人女性 サラ・クララ・スミスさんが持ち込んだそうです。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日も雨上がりの中、狭くなった駐車場はどんな様子かなとミサの直前まで見ていましたら、駐車場を越えて司教館のライラックの花がやはり目に飛び込んできます。ピンクと白いライラックの花がもう満開で、もうそろそろピークを越えたかのように見えています。工事が始まり塀が出来ていますので、かつては緑の芝が目に飛び込んでいましたが、今は教会の前のケヤキの緑だけが目につくようになって、ライラックの花はまだ見えていますが、来年は見事に成長したライラックはどうなるだろうと、そんなことを考えながら最近は外を良く見回しています。皆さんも見納めの司教館の庭を良く眺めておいてほしいなと思います。
さて、今日は主の昇天の祝日を迎えております。復活したイエスは弟子たちに現れ、神の国について話しをしておられました。復活してから40日が経って、いよいよ天に昇られるという「主の昇天」を今日、私たちは祝います。主の復活を信じる私たちには、新しい希望が生まれました。でも、現実の生活の中では悩みや苦しみがたくさんあります。病気や人間関係においても途方にくれることがあります。そういう中で私たちは信仰を思いおこし、苦しみの十字架で死んだはずの復活の主イエスに出会うことによって、新しい朝を迎える日々が続きます。
新しい朝を迎えると今日もそうですが、雨があがって朝日が降り注ぎます。太陽が昇ります。暗闇が終わるように明るい希望の一日が始まります。闇が終わるように私たちも信仰において希望をしっかりと持つならば、たとえ現実の生活の中に苦しみがあったとしても、苦難に押しつぶされることはないと思います。
イエスと真に出会って復活を信じることによって、私たちは希望を持ち続けることができます。復活の主イエスは、受難と復活によってご自分の果たすべき使命を終えられて、その完成の姿を昇天というかたちで示されました。私たちに神の生命を与えるというその御業は、弟子たちに受け継がれ、そしてすべての時代の人々がその神の生命に与るように召されている、そのようにまた生きなさいと、イエスは弟子たちに最後の最後、話されています。
キリストの昇天は、福音記者それぞれが聖書で述べています。感覚的にも、視覚的にも私たちの経験をはるかに超える神秘がそこにありました。その昇天は誰もが想像さえ出来なかった事実でした。私たちは今、受け継いだ信仰において注意深くその神秘の深遠の意味を常に探求しなければと思います。教会の信仰宣言…ニケア・コンスタンチノープル信条においてもこの主の昇天の出来事が語られます。信仰宣言の言葉は天に昇って父の右の座についておられますとの表現になっています。聖書では黙示録でもイエスは王座についておられるという表現がなされています。実際、主の昇天に関する詳しい 箇所は今日私たちが聞いた第一朗読に書かれています。そして、その叙述は淡々としたものとして描かれています。
旧約の時代から預言者をとおしてそのことが暗示されていました。 神の権限につきものの雲が現れ 、その情景を説明するかのように、イエス様の昇天の時には二人の天使の声でキリストが天に昇られたということを説明します。イエスの復活を目の当たりにして信じていた弟子でした。そして、イエスとの最後の出会いは、イエスが指示されたとおりのガリラヤの山です。そのガリラヤで最後の出会いをして、弟子たちは派遣の言葉をいただきました。イエスは弟子たちに最後の指示をなされる時、権能を示され、「すべての人を弟子にしなさい。洗礼を授け私が命じた教えを守らせなさい。」と話します。さらに「私は世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる。」と約束してくださいました。マタイの福音28章は、その派遣の言葉、今日私たちが聴いた言葉で閉じようとしています。私は世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる。マタイの福音のイエスの最後の言葉として告げられたこの宣言、言葉。「いつもあなたがたとともにいる」という言葉は、実はマタイ福音書の1章の中でも表現されている言葉でした。状況は違いますが、いつもあなたがたとともにいるという言葉は、マタイ福音書の第1章の中にもすでに描かれたということは、福音の秘儀ということはそこに感じられます。どういう状況でそのとき語られていたでしょうか。皆さんは思いおこすことができるでしょうか。マタイ福音書の最初、第1章ですから、イエスがまだ産まれる前の出来事がそこに描かれています。マリア様が天使によって身ごもったというお知らせをとおした情景の中に、いつもあなたがたともにいるという言葉が示されていました。誕生を知らせる天使のお告げの場面です。その第一章の聖書の言葉はこのように表現されていました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルとよばれる。」皆さんも思いおこす言葉だと思います。その名はインマヌエルとよばれる。このインマヌエル、この言葉は神がわれわれとともにおられるという意味の説明が付けられているのです。イエスが産まれる前からそのイエスという人は、神の子は私たちを救うために御父から贈られこの世に誕生する人。そしてその方はわれわれとともにあるという言葉において、もうすでにマリア様のおなかに誕生したときに告げられていたということです。そのことを気付かされるだけでも、聖書の神秘が、深遠な意味がちりばめられていたということに驚きを感じられます。
でも、実際私たちの現実に目を向けると感動ばかりはしていられない状況が見えてきます。昔も今も私たちの現実の中にはいつも不完全なことが起こっています。それもまた驚きになります。今日の短い朗読の中でこ場に及んでも、弟子たちのなかに「疑う者がいた。」という 表現がありました。復活の主と出会って40日間過ごしていたにもかかわらず、そして最後の最後、イエスと出会い、主の昇天の姿を見送る弟子たちの中に「まだ疑う者がいた。」という表現が聖書でなされているということ。ここにも驚きを感じます
弟子たちであっても、復活の主と出会っていても、その主から直接声を聞き、教えを受けているにもかかわらず、まだ疑う者がいたという表現がなされている。私はそのことにもまた驚きを感じます。
でもよくよく考えてみると、イエスを見ても信じ切れない弟子の姿は、かたくなで変わろうとしない私自身の姿に重なってくる気がします。私はどこまで信じているだろうか。どこまで復活の信仰を持っているのだろうか。私もどこかで弟子たちと同じように疑う気持ちがまったく消えていない、そんな思いもいたします。それはきっと私たち自身の姿でもないでしょうか。口では信じます、悔い改めます、と言いながら生き方を改めること、努力をしない生ぬるい生き方、生活を続けているのが私たちではないでしょうか。でもそんないたらない私たち、かたくなな私にも主イエスは呼びかけます。呼びかけてくださっています。行きなさい、み言葉を伝えるために。復活の主を証しするために。いたらない弱い私たちにも主は呼びかけ、そして私たちと共にいてくださいます。弟子たちだけでなく私たちにも、これからずっと共にいてくださると約束してくださった主に信頼して、キリストと一致し、力強く歩むことが出来るように、今日もまた祈りを捧げましょう。
そして5月の聖母月、残りが少なくなりました。マリア様をとおして、この世に救い主を贈ってくださった御父に目を向けます。御父は、「いつもあなたがたとともにいる」というイエスに出会う恵みを、マリア様をとおして私たちに与えてくださってもいます。聖母月、マリア様にも感謝の祈りを心からする日々でもありたいと思います。』