2017年5月7日日曜日

復活節第4主日

今日は「世界召命祈願の日」です。
神は一人ひとりをそれぞれ異なる召命に招いておられます。
自分に対する神の望みを祈りつつ探していくことは大切な務めです。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『連休が終わっての日曜日を迎えて、また新しい一週間が始まります。
大型連休と言われていましたが良い思い出があったでしょうか。よい一日を過ごされたでしょうか。またよい出会いはあったでしょうか。
5月の「聖母月」を迎えましたが、この一週間を思い起こして喜びや出会いを感謝の気持ちで心からマリア様に捧げ、祈りとすることができれば素晴らしいことだと思います。そして、そんな祈りを捧げられたら、聖母月もまた素晴らしい月に変わっていくことだと思います。祈りは実に多様であり、願ったり、頼み事だけでなく、感謝の心で捧げることも大事なことではないでしょうか。

さて今日は、「世界召命祈願の日」です。この日は、1964年に教皇パウロ6世によって定められ、神は一人一人を固有の召命に招いておられるのだといわれました。ですから、神に活かされている私たちは、一人ひとりが自分に対する神の招きを識別していく必要があるようです。
ある人は社会の中で会社員、医師や看護師、教員でもあります。また、工場で働く人でもあり、また夫や母としてよい家庭を築くように、そして、ある人は神と人とに仕える司祭、修道者となるように招かれているようです。神の招きは、このように人それぞれ異なりますが、自分に対する神の望みを祈りつつ探していくことが大切です。
召命という言葉を聞くと、司祭、修道者のことが先ず頭に浮かびます。しかし、神は、全ての人が誠実に自分の生涯を過ごすことを望んでおられます。一人ひとりにその道があります。「世界召命祈願の日」の今日は特に司祭、修道者への招きのために祈るように招かれていますが、すべての人が神から招かれているという基本的なことを忘れないようにしたいものです。そのためにも、一人ひとりの心に語り掛ける神の声に耳を傾け、その声に従う勇気を祈り求めましょう。教皇様のメッセージの言葉には「全ての信徒は福音宣教者である」とあり、主のことばを聞くために、自分自身の囲いの中から出るようにと呼びかけています。

今日のみ言葉を黙想してみましょう。
よき牧者であるイエスは、羊のため、それは私たち信者のためと受け止められますが、その羊たちに自分のいのちを与える覚悟を牧者の条件として示しています。だからこそ、司祭も病気や年齢に関係なく、司祭職を全うすることに命をかける人が多いのだと思います。遠く自分の生まれた故郷を離れて日本に来られている宣教司祭は、まさに自分の家族や自分の生まれた国から離れても、なおその使命に命をかけているのです。
でも司祭も人間です。人間的な欲求もあります。その内なる欲求と闘いながらも牧者の心を第一に考えているのです。それがイエスの心であり、召命の道だと思います。
孤独や不安と向き合い、罪を繰り返す私たちであっても、なおイエスの憐みは、私たちへの愛となって十字架に向われたという事実に向き合う時、力が与えられ希望も生まれてくるのです。

「私は羊の門である」とイエスは言われます。私たちの救いの門は、ただ一つだけです。洗礼を受けて救いの門をくぐった私たちですが、囲いの中に入っただけで救いが保証されているわけではありません。囲いの中にも危険が常にあるのです。囲いの中にも強盗や盗人が入ってくるとイエスはたとえ話を使って話しています。教会の中にあっても、まだ私たちは救いの道を歩んでいるということではなく、救いの道を歩むためには常に真剣に神と向き合い神と繋がって神の声を聞いていかなければならないと思います。まさに私たち現代社会にに生きる人々の上には、どんな安全も保障されているわけではないということは、誰もが気付いています。そのような中で私たち一人ひとりの召し出しをどのように生きていこうとしているのか。
ペトロは第二朗読で召された理由を話しています。その理由はただひたすらキリストに倣うこと、そのキリストのみ跡に忠実に従うということでした。
今日の教会において召し出しの現状は厳しい状況にありますが、悲観に暮れてばかりではいられません。幸い、この教会では、喜んで侍者の奉仕を子供たちが務めてくださっています。
教会のための召命を他人事としてではなく、一緒に考えていくとことができたらと、つくづく考えさせられます。献堂100周年に「次の世代につなぐ」というテーマを掲げて私たちは歩んできました。そのテーマをつぶやくのでなく、心からの祈りとしていけますように。昨日は「召命の集い」を教区の主催で行っています。先週の日曜日にはそのことを皆さんにお知らせして、お祈りをお願いしていました。
10年に一人でも、一つの教会から一人の司祭を送り出すことができたなら、司祭の高齢化とはいえ、それほど大きな心配はないのではと思いますが、それも難しいのが現状です。。
そのようなことを考えると、比較的大きな教会は、10年、20年をかけて、一人の召し出しを実現していくということを真剣な思いで祈りを捧げ、教会に来られる子供たちを支えることが出来たなら、どんなに素晴らしいことになるかと、時々夢のようなことを考えます。子供たちは今、私たちの教会にとっても宝そのものだと思います。信者である私たちみんなが、その子供たちをわが子のように共に寄り添い、励まし、喜びをこの子供たち一人ひとりと分かち合うことができているだろうか。分かち合うことができなければ、私たちは本当の共同体、家族になっていないのではないか?そんなことも考えます。

よき牧者であるイエスの心に私たちもしっかりとつながって、囲いの中にあっても、また囲いの外に出たとしても、イエスの愛を私たちが示すことができるように、伝えることができますように。また、主の呼びかけにマリア様が応えたように、「はい、ここに私はおります」と、応える牧者の心につながる若者の召命のためにもお祈りを捧げましょう。』