2017年4月30日日曜日

復活節第3主日

今日のみ言葉は、エマオへ向かう二人の弟子たちが、復活したイエスとは気付かずに道中を共にするお話です。
私たちの心の眼は、ともにいてくださる主の姿が見えるように開かれているでしょうか。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『復活祭をお祝いしてから二週間が過ぎました。今日のみ言葉は「復活」の出来事を伝えるエマオの二人の弟子たちの旅の途中での話です。今日語られた聖書の舞台はまだ復活後3日目にあたる日のお話です。
私たちは既に復活祭を祝ってから2週間を過ごしていますが、私たちの心は今どこに向っているのでしょうか。私たちはまだ復活祭の喜びを心に留めて、話し合ったり思い巡らせたりしているでしょうか。それとも、復活祭は忙しかったとか、ようやく落ち着いたとか、そのような言葉を交わしながら、復活祭の喜びはもう過去の出来事になってしまっているのではないでしょうか。
今日のみ言葉を聞きながら、気付くことの大切さ、そして聖書でイエスが言われていた「目覚めていなさい」という言葉の大切さを改めて考えています。

エマオの旅人の記事は短い伝承としてマルコ福音書でも述べられています。当時の弟子たちにとって、そして今日の主人公であるエマオの弟子たちにとっても、復活ということはあまりにも驚きであり、そして半信半疑でもあったかのような記述がなされています。この二人の弟子は、復活したイエスに出会って長い間、話をし続けていたにも関わらず、その時はまだイエスであることに気付けないでいました。目が遮られていたと聖書は記しています。気付くためには、私たちの心の眼も、寝ぼけ眼、ぼやけていては気付けないのだと考えさせられてしまいます。心の眼も開いていなければ、イエスが近付いて来ても、また一緒に歩いているイエスの姿さえも、私たちには見えないのかもしれません。そのように気付くことの大切さ、目覚めていることの大切さということを考えさせられます。
今日のこのエマオのお話の中では、目が開かれるまでの息詰まるような物語が展開しているとも言えます。
二人の弟子は、道連れとなったイエスが復活の噂を知らないとみるや、無知を小ばかにしたようなふるまい、そして得意げになって復活の噂をイエスに話しています。そこには二人の期待と失望がいかに大きかったかということも見えてきます。イエスは希望を見失ったかのような暗く沈んだ二人の弟子たちに改めて聖書のお話をされています。
「あなた方は聖書をどのように聞いてきたのか。どのように学んでいるのか。メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」旧約聖書から予言者たちが何度も繰り返してメシアについて話していたことを思いださせるように説明されます。そして、聖書で語られていた、メシアの復活は、過去の出来事に終わるのではなく未来に向かっているのではなかったか、ということを話しました。

知識だけではなく、聖書を通して信仰を持って復活の主と出会うことが何よりも必要になっているようです。二人の弟子は長いこと論じ合って夕方の時刻を迎えます。彼らはイエスを引き留めて夕食を共にしました。そして、その食卓を前にした時、彼らはきっと祈ったでしょう。祈りが終わって、パンを取り、パンを割いたとき、二人の眼は開かれました。新約聖書の中でイエスは弟子たちに「主の祈り」を教えていますが、旧約の時代から同じような祈りを捧げていたのだと思います。
「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」と、イエスが教える以前から伝統的な祈りはあったのではないかと思われます。そして主の食卓を囲んだ。
これまでイエスが道連れとなってから、イエスと議論をしていましたが、二人の弟子の正面にイエスは立つことなく道連れとなって歩いていました。そして自分からは自分の正体を証しようとはされませんでした。
私はそのことを黙想するとき、今私たちが生きる信仰生活の中においても、同じことがあるのではないかと思います。私たちの信仰生活の中でも、イエスが共にいてくださったとしても、決してイエスは私たちの前に立つのではなくて、私たちの横に後ろに付き添うようにして一緒に歩いてくださっているのはないかと思います。そのような時私たちは、神様は何も応えてくれない、イエスは何も私たちに言葉を掛けてくれない、という思いになってしまうことがよくあります。でもきっとイエスは、何も語らずとも私たちの傍に道連れとなって歩いているような気がきます。
私たちの信仰の日々においても、きっと同じようなことがあるかもしれない、そう思いながら、エマオの二人の弟子たちが「一緒にお泊りください」と切なる願いをもって、イエスに申し出たこと、それは「心が燃えていた」ことでもあったようです。私たちにもそのような想い、心が必要なのではないでしょうか。
私たちと共にいて下さるイエス、私たちと一緒にいて下さる、一緒に食卓について下さる、そのような思いで私たちが信仰を生きるとき、きっともっと深く、主であるイエスと復活のイエスと出会うことができるような気がします。私たちはどこまで一緒にいてくださいと願っているでしょうか。きっと生温い心や冷え切った心では、イエスに気付けないような気がします。
それはまた自分の考えに拘り過ぎ、自分の主権をイエスに譲ること無く、自分の傲慢さを守っているなら、きっとイエスの姿は見えてこないのではないかと思います。イエスの前に自分の持っている全てを譲って、謙虚になって、初めて復活の主を見ることができるような気がします。

復活祭が終わり、時間は過ぎていきます。イエスに向う切なる心の願いは、私たちの心の中から消えることがないように願いたいと思います。
私たちの捧げるパンが、イエスの御身体となり、祭壇上でパンが割かれ、私たち自身の心に寄り添うように、私たちはイエスの御身体を今日もまた頂こうとしています。
今日も心から賛美と感謝を捧げて、ミサの中で一つになって祈りたいと思います。』