今日から聖週間に入ります。
今日の受難の主日(枝の主日)では、主のエルサレム入城を記念する典礼が行われました。
棕櫚の枝を持った会衆がカテドラルホールに集まり、司祭と奉仕者を迎えました。
司祭は聖水で枝を持った会衆を祝福しました。
入城の福音(マタイ21・1-11)が朗読されました。
その後、枝で飾られた十字架を先頭に「ダビデの子」が歌われる中、司祭と奉仕者に続き、枝を手にした会衆が聖堂へと行列しました。
福音朗読では、「マタイによる主イエス・キリストの受難」が朗読されました。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『「十字架につけろ!十字架につけろ!」と何度も叫ばれ、罵られ、侮辱されて、イエスはどんな心境にいたっていたでしょうか。けっして心穏やかな状態ではなかったと私たちは思いますが、イエスはそういう声を聞いてきっと、この人たちが一人ひとり赦されますように、そう思うことに集中していたのかもしれないと、そんなことを今、朗読をしながら考えていました。
私であれば、けっして罵られて、侮辱されて、心穏やかにして、話しなんて出来るハズがないと思いながら、イエスはきっとそういう心境には至らず、こういう一人ひとりを、自分を罵った一人ひとりを救うために今、自分は十字架に上るんだ、そういう思いでいたのだろうか、んなことも考えながら朗読に入っていました。
受難の主日を迎えた今日、聖書にみるイエスの受難、その情景が今、マタイの福音で語られました。今日の朗読の前ではユダの裏切りがありました。弟子であるペトロの否認の様子も語られていました。イエスを十字架に追いやるものは人間の罪であるということが見えてきます。弟子である信仰を持つペトロでさえも罪によってイエスから離れようとする。そこには自分を守るという行為の中で、自分に執着し人を見つめ、思いあがったりする心が失われる瞬間、それが罪であり 過ちの始まりであるということが見えてきます。
第二朗読でパウロは 、へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまでは従順であったというように、イエスの姿には神である父への従順に徹底する姿が浮き彫りとされています。朗読ではピラトからの尋問 、イエスの死刑の判決、そして兵士からの侮辱、十字架に架けられる場面、そして最後にイエスの死という受難の経過と情景が 生々しく語られます。
イザヤの朗読に見るように、人々からの嘲りとつばをかける為に顔を隠そうともしない僕
神の子であるその僕イエスの姿が描かれました。このキリストの御父への完全なる従順は、この世の者が考える敗北ではなくて、むしろ勝利となって神の最高の栄光に繋がっていきました。それは私たち、そして人々の予想とはまったく逆に、キリストのこの死の瞬間から新しい栄光の時代が始まろうとしています。
今日の朗読の最後にローマの兵隊である百人隊長の言葉がありました。「本当にこの人は神の子であった。」数々の不思議な現象や出来事を見てきた人たちは、キリストが主であり、キリストが支配する新しい時代が始まったことを否定することはもうできませんでした。恐れを感じながらも、人々もまた「まことにこの人は神の子であった。」と心から告白するようになりました。
私たちは今、どんな信仰、どんな心境で今日のイエスの受難の物語を受け入れようとしていますでしょうか。かつてキリストは第一の者になりならば人に仕える者に、人の僕になるようにと諭されたことがありました。まさに、イエス自身がその教えを、私たちに今日示しています。惨めな姿、侮辱、屈辱は 哀れな姿そのものを表します。私たちにとっても黙想すると、それは耐え難い苦しみに重なっていきます。しかし、キリストはもっとも惨めな僕となり、それゆえに最高の勝利を得られることになりました。また、自分の教えが真理であったことを具体的に私たちにも示されたのです。
今日、私たちがミサの中で祈った公式祈願のひとつである集会祈願。もう一度ゆっくり祈りの言葉をとおして味わいたいと思います。私たちの祈りはこういった祈りを捧げています。「全能永遠の神よ。あなたは人類にへりくだりを教えるために救い主が人となり、十字架を担うようにおさだめになりました。わたしたちが主とともに苦しみを耐えることによって復活の喜びをともにすることができますように。」 苦しみを主といっしょになって耐えることによって、復活の喜びを私たちもともにすることが出来ますように。一週間後その復活の喜びを今、私たちは味わおうとしています。
でも、もうひとつ皆さんに考えて欲しい、受けとめて欲しいことがあります。聖週間に入ったからではなく、四旬節を迎えたからではなくて、私たちは日々の主日のミサの中でも、いつもイエスの十字架が再現されているということに、あまりにも無感動であったりしていませんか。私たちは復活祭の準備をするときにだけ、特別にイエスの十字架を考えるのではなくて、日曜日ごとに私たちはその十字架を記念しているはずです。時に私たちは、教会に入ってきて十字架を前にしても、冷たく恐ろしいくらいに無関心で祈りをしご聖体を拝領して、また教会を出て行っているような時もあるような気がします。
イエスを見ていても、イエスを知っていても無関心な私たちのために、イエスは亡くなられたのではないでしょうか。そのことこそ、私たちが今日、ミサをとおして真剣に祈るべき心であると思っています。
キリストの復活を祝う直前の主日の今日、イエスが私たちに求める心を黙想をしながら、主の祭壇の前に今日もまた一致して祈りたいと思います。』