2017年4月13日木曜日

4月13日(木)聖木曜日 主の晩餐の夕べのミサ

聖木曜日の今夜、「最後の晩餐」を記念する「主の晩餐の夕べのミサ」が、勝谷司教様の主司式で行われました。



ミサの中で洗足式が行われ、司教様が12人の信徒の足を洗われました。



御ミサの最後に、聖体がカテドラルホールに設置した仮祭壇に安置されました。

この日の勝谷司教様のお説教をご紹介します。

『日本の教会は先々月(2月7日)、高山右近を福者として非常に大きな喜びに満たされました。高山右近は殉教者として扱われているのですが、最初は証聖者として神を証した聖なる生き方をとおした者として聖人になってもおかしくなかったわけです。その生き方は、私たちにとって信仰の模範となります。しかし、一方、同じ同時期を生きたであろう人たちの中で、その信仰を守り通すことが出来ず、棄教していった人たちもたくさんいるわけです。
  そして、それをテーマにしたのが遠藤周作の「沈黙」でした。そしてそれもまた、映画として公開され、非常に話題になりました。あの遠藤周作の「沈黙」,私も高校時代に読みました。非常に衝撃を受けましたが、すぐに、実はあの「弱さによる信仰」とは、その時の印象も含めて私にとって非常に大きなテーマとなっています。あの小説の主人公は神父ではなくて、キチジローであることを高校生でありながら確信していましたが、やがてその確信は正しかったと考えるようになっています。陰の主人公キチジローのあの弱さ。いくら信仰を守りたくても棄教してしまう。そして信仰を裏切り、仲間を裏切ってしまう。そういう弱い者であっても神に愛されるのだ。そういう究極の状態におけるテーマがあそこでは問いかけられていました。 

 しかし、今の教会、特に現教皇様は「いつくしみの特別聖年」を発布して、教会がこの裁き、あるべき姿を追究する信徒の群れではなくて、私たちはこの弱さを帯びた様々の苦しみを持った生きている存在である。その苦しみを皆で共感し、裁きではなくて慈しみを求める、そういう教会であって欲しいということを述べておられます。そして、そこにあるのは正しい生き方を追究することが出来ず、結局教会を離れてしまったり、つまづいて罪のうちに立ち上がることが出来ずにいる人たちに対してこそ、慈しみを示すのが神である。教会は長い間、そのような人たちに対して、裁きの態度しか向けていなかった。赦しという言葉は教会の中から忘れ去られていたようのことであったと、その書簡の中でおっしゃっています。そして今こそ、私たちに必要なものは、神の慈しみを示すことだと。

  先ほどの福音書の中で読まれたように、説教のあとで「洗足式」が行われます。互いの足を洗い合うということはどういう意味であるのか。互いに仕え合うということもそうですが、何よりも互いの過ちを赦し合う共同体になりなさい、という意味だと私は考えています。
 私たちは完全な者の集まりである共同体ではなく、罪を犯すようなものを持った者としての共同体です。            
  ミサの意味は、つまりこの聖体祭儀、今日祝われるであろうこの聖体祭儀の制定でもありますが、この聖体祭儀の意味は何よりも第一義的なものは「一致」です。しかし、それは私たちの力によって成し遂げられる一致ではありません。今日の、第二朗読のコリントの手紙は前提に何が書かれているかというと、教会の中の仲間割れです。仲間割れ、分派などがあるはずなのに、それを無視して聖体祭儀が行われている。パウロはそれに心を痛め、戒めるかたちで手紙で書き送っているわけです。私たちは罪を犯す弱い者を排除する。そういうミサを祝っているのだとすれば、それはキリストが命をかけて証しした神のみ心を表すものではありません。キリストは正しい者のために十字架上で命を捧げれたのではありません。私たちの弱さと罪深さを負って十字架に架けられたのです。
  私たちの弱さは何であるか。それが意味するものはただ単に罪のうちに悩み苦しむものという意味ばかりだけではありません。

  私たちは悔い改めて、罪にうちひしがれて膝をかがめて訪れる人に対しては、たしかに慈しみを示すことが出来るかもしれません。しかし、人を人とも思わず、傲慢さをみせる人が目の前に現れたら、その人を赦してその人を受け入れることができるでしょうか。福音書を見るならば、ルカ福音書に出てくるザアカイという人は背が低かったと書かれていますが、そういうような存在であったはずです。権力をかさに人々を苦しめる。しかし、イエス様はそのザアカイに対しても慈しみを示されました。あした 

  イエス様は謙遜に自分の弱さを自分に委ねようとする人ではなくて、むしろ自分を十字架に架け、そして十字架に架けられている姿を、あざ笑いながら見ているそういう人たちに対して赦しの言葉を述べて命を捧げられたのです。
 わたしたちは一致するように求められているときに、特にミサにおいてですね。それと反するように心の動きがある時にどういう態度をとっているでしょうか。「主よ私の罪深さを赦してください。」日本語のミサの式文では、それは表れていないのですが、ラテン語やほかの言語では聖体拝領の前には「主よ、わたしはあなたをお迎えするには相応しくない存在です」と
告白がなされます。つまり、自分はけっして胸をはってご聖体、イエス様を受け入れられるような存在ではない。むしろ様々な罪を抱えている存在である。そのようなことを告白して聖体に向かうわけです。随分前の話ですが、この聖体を受けるにあたって、朝、ミサに行く前に激しい夫婦喧嘩をして、腹が立って、腹が立ってしようがない。このような怒り狂った精神状態で聖体など受けられないと言って、一人家に帰ってふて寝していた。と、分かち合いで聞いた覚えがあります。
  私たちは良く勘違いするのですが、どれほど激しい憎しみであれ、許し難い怒りであれ、それが感情であるならば、感情に対して私たちは自由はないので、感情自体では善も悪もありません。しかし、その感情に基づいてどういう態度をとるのかというところに、私たちの善悪が表れてくるのです。ですから怒りの感情を持つとか、憎しみの感情を持つということが罪にあたるわけではないのです。ですからどんな激しい怒りや憎しみにかられていたとしても、それが今の自分の現実であるとするならば、まさに相応しくない心の状態を自分の力ではどうしようも出来ない。そのおもいで、その自分を主に捧げて聖体に近づくことはむしろ相応しいことです。自分にはどうしようもない罪を持っているからこそ聖体が必要なわけです。

 神が与えられようとしている恵み、私たちのちっぽけな怒りや憎しみで消されてしまうようなものではありません。それらをはるかに超える大きな慈しみの世界に私たちを招き入れるものです。ですから受け入れがたいこと…何であいつがこのミサに来ているんだという。これは私自身の体験ですが、いっしょに聖体を受けたくないと言ってミサをサボっていたことがありました。考えてみるとその気持ちはどうにもならないのです。むしろ受け入れがたい苛立ちや怒り、憎しみというものを自分の力ではどうにもなりません、これが私ですと言って、ご聖体に近づいたときに、不思議とその感情が癒されたという体験をしたことがあります。
 そしてそのとき気付いたのは、相手を受け入れることが出来ない、赦すことが出来ない自分も、そして自分が嫌っている相手に対しても、等しく主はご自身のすべてを与え尽くそうとされる、ご聖体によってご自身を与えようとしている。
  つまり私たちは自分の力では受け入れることが出来ない、赦すことが出来ない、そういう中途半端な弱い存在ですが、それを超えて神は私たちを信仰によってひとつに結び合わせてくださる。私たちに必要なことはこの自分の弱さ、激しい憎しみや怒りを弱さとたとえると、それも私たちの弱さの現実です。しかし、そういう弱さを抱えた私たちが今ここに集められ、互いに足を洗い合うように求められているわけです。

 多くの場合私たちは罪に苦しむときに、大体ほとんどの人はその状態から陥っているときに、どうしたらよいか分からないというのではなく、何をすべきか分かっているのがほとんどです。ですからその過ちを指摘され直すように言われると逆に腹が立つんです。そんなこと言われなくても分かっていると。しかし、分かっていても出来ないところに私たちの弱さの現実があるのです。この堂々巡りに陥っているときに必要なことは、その過ちを指摘すること、指摘されることではなくて、むしろその苦しみに共感してくれる人の存在です。キリストが示したのは、このように過ちを指摘し裁くことではなく、その過ちの中で苦しみ、それを乗り越えることができず、もがき苦しんでいる人に  限りない慈しみを示されたのです。

  今の教皇様は長い間教会が忘れていたそのことを思い起こさせようと、繰り返し繰り返し強調されています。さきほども言ったように「いつくしみの特別聖年」のテーマはまさにそれでしたし、つい最近出版された『使徒的書簡 あわれみあるかたとあわれな女』。あの姦淫の現場で捕らえられた女に対して示されたイエスの態度。ファリサイ派の人たちは、かれらの正義に基づいて裁きを行うように求めます。その裁きとは何かと言うと彼女を死刑に処せということです。それに対して何の申し開きのすることの出来ない、その現場を押さえられた女に対して、主は沈黙で彼らに対処するのです。そして、最後すべての人が去っていった後に「私もあなたを裁かない。」罪に定めない、これがイエス様が示した慈しみです。その物語から始まってこの使徒的書簡はテーマを述べられています。この教皇様の書簡を是非、手にとって読んでいただきたいと思います。
 私たちのこの共同体がこのイエス様の示した神の憐れみと慈しみの心に満ちたものになるように心から願っています。』