復活祭の喜びから1週間が経ちました。
この日のミサは、司祭叙階10周年を迎えた協力司祭のミカエル森田健児神父様に司式いただきました。
ミサの最後に、叙階10周年の記念と日頃からの御礼を込めて花束と記念品をお贈りさせていただきました。
ミサの後、カテドラルホールで森田神父様を囲み、ささやかながらお祝いの茶話会を行いました。
茶話会では、皆さんから森田神父様へのインタビューがあり、神父様の素顔に迫りました。会場は終始、温かい笑顔に包まれました。
子供のころはスポーツ好きで、中学校時代には柔道部に所属。大学時代に再開して黒帯を取得したそうです。(皆さんから感嘆の声が)
岡山県倉敷市のお生まれ。今年で49歳になられます。大学をご卒業後、修道院へ、その後、室蘭のミッションスクールで3年間教師を務められ、その間、召命の意志を確認していたそうです。
札幌教区の神学生になり司祭叙階。叙階後は1年間フィリピンに行っておられました。北海道に来て19年目だそうです。
司祭になってからの10年間を振り返り、
「10歳の頃から司祭になりたかったので、その願いが叶い充実した10年間でした。最も印象深いのは、フィリピンで過ごした1年間です」とのことでした。
森田神父様、これからもどうかご健康に気を付けてご活躍ください。
この日の森田神父様のお説教をご紹介します。
『今日は「神のいつくしみの主日」ですが、私がフィリピンに行っていたときには、そこの教区の教会には全部(このマリア様の御像の前にある)神のいつくしみの御絵が飾っていました。引き延ばしビニールのような台座に拡大コピーをして、教会の祭壇にかけたりしてありました。デパートに行って午後3時になると合図があって、お祈りの時間ですよと、3時の祈りがあるのですが。とにかくフィリピンのみならず、外国ではとても盛んで、どこでもこの御絵が掲げられていたという印象を持っています。
紀元2000年に教皇ヨハネ。パウロ二世が列聖した「聖ファウチスチナ」にイエス様がいろいろないつくしみに関する啓示をなさったのですね。同じように2000年に復活節第2主日を「神ののいつくしみの主日」に定める。これも聖ファウチスチナへの啓示の中にあったということです。それで、今日、このように祝っていることになります。
フランシスコ教皇様もいつくしみについては聖年を1年間作ったり、特に神のいつくしみに集中する、それを見つめる、私たちもそのように、同じように生きる、そういうことを強力に推進されました。
今日の福音では、鍵をかけていたのにイエス様が入ってきたと書いてあります。イエスを殺したユダヤ人が弟子たちをも狙おうとしている。その恐怖の中ですべて、鍵をかけるのみです。そして、主はもういなくなった、私たちが大いなる希望を持って、この方だけに希望をもっていたのに、その主が取り去られた。その大きな混乱の中で、弟子たちは自分の心に鍵をかけていくのです。これは私たちにもあてはまると思います。いろいろな暴力を受けたり、恐怖を受けたり、あるいは私の何かを狙おうとしている人に対してどんどん鍵をかけていく。
世の中でいつくしみとか思いやりとか、親切がまん延していけば、私たちは心を開いている。
今も田舎ではありますように、家には鍵をかけないという、日本の自然な伝統があります。盗られない、盗みがないということでは日本は世界的に。昔の宣教者は驚いたのです。日本は盗みに関してはヨーロッパ以上に安全だと驚いたわけです。そういうものが無くなってくるんですね。どんどん鍵をかけていく。セキュリティが強くなっていく。
私たちの心も同じです。だんだん世の中が冷たくなってくると、自分を守ることで精一杯になってきてしまう。人を入れることとか、人の心に入る、人を助けようとすることさえだんだん難しくなてきている。助けようとしている相手も警戒している。自分の入ってこれないところに入って来て欲しくない。助けてもらったら結局あとで痛い目にあうとか。いろいろな辛い経験を重ねると、だんだん人と人との間がふさがるようになってしまいます。
そういう希望がない中で、イエス様が鍵のかかった家の中に入って来て「平和、シャローム」と言ったのは大きな意味があると思います。私たちが心を閉じがちですが、神に期待をかける、神に希望をかけたときに、キリストはちゃんと入ってきてくださる。 彼は私たちのことを心から愛し、同時にあなたたちのために私は命を捧げても良い。そういうお方ですから、そういう人は簡単人の心に入れるのですね。そういう心の鍵を開くものを、イエス様は私たちに見せてくださっていると思います。
また、トマスは疑い深いですね。みんなが見たと言っているのに、それは亡霊かもしれない。
亡霊だと復活とは言えない。指をそこに入れなければ分からない。多くの人たちが「そうだ。そうだ。」と。現代人もそう言うかもしれません。懐疑主義と言いますか、何でも信じていく時代とは変わってきていますね。契約書の隅々まで読んで騙されない。簡単に人を信じて良いかといえば、本当にそうではなくなりました。電話がかかってきて「オレオレ」と言って、「あー太郎かい。」と言うと違うわけですね。五郎だよと言って騙されるわけです。本当に思いやり深いお年寄りの心にまで電話がかかってくる。孫を助けようとする。善意が利用されて犯罪に繋がるそういう社会です。
イエス様は世の終わりについてこのように言われています。「不正がはびこるので愛が冷える。」まさにこのことです。不正がはびこるので愛が冷える。そういう中で私たちは右の頬を打たれたら左の頬を向ける。そういうふうにイエス様のせいにする。あるいは、キリストが本当に人のために苦しみを喜んで受けられたように、そういう気持ちがなければ本当に難しい世の中になってきました。ただ、トマスのような疑い深い人に対しても、イエス様が現れて「どうぞ触りなさい。」とおっしゃった中のことには、私たちは大きな救いを感じます。懐疑主義はいけないということではなくて、ともかくイエス様を触ってみよう。それから信じるものになりなさい。神についてはもっと信じて良い。神の恵みの約束。私たちに対するいつくしみについても、もっと信じて良い。たくさんの恵みを与えようとしている神様の気持ちについてはもっと信じても良い。そういう希望をもたらしてくれています。
イエス様は「平和」とおっしゃいました。同時に、私はあなたがたを遣わす。こういう状況にあってすべてが終わってしまった。すべてが暗くなっていく。そういう状況の中で「いや、私はあなたがたを遣わす。」復活なさって新しいものがこれから始まる、ということをおっしゃる。
ゆるしの秘跡の起源もここにあるのです。あなたがたが罪を赦せばその罪は赦される。主の祈りで唱えている「私たちが人を赦せば、自分の罪を赦してもらえる」とはちょっとニュアンスが違いますが。これは使徒たちに「赦しの権能」を与えたと解釈されています。
このようにキリストは死と復活によって、神のもとにある大きな私たちに対する宝の倉を開くべく。ですから私たちはこの当時の弟子たちのように、すべてが暗くなっていくと思えるときに、余計に大きく神に対して希望をもっていく。神はこういう時だからこそ、私たちに恵みが必要であることをよくよくご存知だと思います。罪人こそ私のいつくしみを受ける資格があると、ファウスティナのいつくしみの啓示の中に書いてあります。罪人こそ私のいつくしみを受ける資格がある。冷たい思いに苦しんできた人々、暴力に苦しんできた人々、そうやって道を外れていった人々、そういう人こそまず神のいつくしみを受けなければならない。そこから新たなものが始まる意味合いが含まれているのではと思います。
今日、復活節の第2主日。イエス様がすべてのこの固い鍵、氷の壁をとおって入って来てくださることや疑い深い私に対してもご自分の手を示してくださる。新たな希望の道を示してくださることを思いおこしながら、私たちも希望をもっていきたいと思います。』