勝谷司教様、地主司教様、後藤神父様の共同司式によりミサが執り行われました。
会衆は聖堂に隣接するカテドラルホールに集まり、「火の祝福」と「ろうそくの祝福」が行われ、新しい火が復活のろうそくに点されました。
ろうそくの祝福
復活のろうそくを手にした司祭が「キリストの光」と唱えながら、行列は聖堂へと進みました。
聖堂がロウソクの火にほのかに包まれる中、復活賛歌が歌われました。
洗礼式と堅信式
この日、16名の方々が洗礼・堅信を受けました。
神に従うという洗礼の約束を新たにした後、司教が祝福された水を会衆にふりかけました。
受洗、堅信された方に、後藤神父様から記念品が手渡されました。
おめでとうございました!
最後に、この日の勝谷司教様のお説教をご紹介ます。
『皆さんもご存知のとおり、北朝鮮を取り巻く情勢が非常に緊迫したものになっています。非常に懸念されるのは、テレビなどを見ていると、それを聞いていればいるほど現実味が薄れてゆき、何かゲーム感覚で話されているような錯覚に陥ってしまいます。しかし、ひとたびことがおこれば必ずそこで人の命が犠牲になり、人の営みが破壊されていく、その悲劇がもたらすのは目に見えています。
神様は私たちに英知を与え、どんな困難な状況にあっても 、この戦争を回避し平和をみいだすそのような術を、その力を私たちに与えてくださっているはずです。今、この困難なときにあっても平和な道を選択し何とか解決するように、皆さんに祈っていただきたいと思います。
フランシスコ教皇は、回勅「福音のよろこび」の中で、時間は空間に勝るという少しわらりずらい哲学的な表現をなさいました。それは空間というのは、同じ時間軸の中で、空間的な世界の中で、そこで問題の解決をしようとするならば、それは一気にすべてを解決することは難しいのです。しかし、時間の流れの中においてそれを見ていくならば、必ずその中で何か解決していく、すなわち方向性を見いだし、時間の重ねの中で私たちは問題の解決をしていくことができる。そういうことを言っておられます。
確かにこの行き詰まった絶望的な状況の中で、この状態を解決するには武力行使をしかないと考えている人もいるかもしれません。しかし、私たちは神から与えられた英知をもって、神の時間軸の中で物事がほんとうに平和理に解決していくことを求、そのために切なる祈りを捧げて欲しいと思います。
前もお話しましたが、世界の現実もなかなか思うようにならない厳しい現実に直面しています。それと同じように、私たちも個人の生活の中で、どうにもならないような厳しい現実に直面にさせられるときもあります。そのとき、私たちのとる態度は様々です。理解しがたい現実に遭遇してそこから逃げることなく、現実を受け入れることによって、その苦しみにどういう意味を与えるのか、そこに信仰者とそうでない人の違いが表れてきます。多くの場合、厳しい現実は、私たちにとって選択の余地なく襲いかかってきます。その現実を前にして、私たちはただ受け入れるしかない存在なのでしょうか、言い換えるならば、私たちの人生はそのような偶然に左右されるものなのでしょうか。
確かに自分で選びようのな現実があります。何故と問うことのできないほどの苦悩に襲われるこおもあります。与えられた状況に私たちは何の落ち度もない、何の責任も無いこともあるでしょう。そして、苦しい現実を誰かのせいにしたくなることもあるでしょう。しかし、与えられた環境に責任はなくても、そこでどう生きるかは私たちの自由に委ねられており、その選び取った生き方には、私たちに責任があるのです。
私はあえて、そのことを「召命」と呼びたいと思います。すなわち、神が私にそこで生きるように召しておられる。そこで生きるよう神が望んでおられるなら、それは召命であり、同時に必要な助けも必ず神は与えてくださるに違いない。たとえ今の苦しみに意味を見いだすことが出来なくても、選びようのない現実であったとしても、むしろそれは選びようのない現実であるからこそ、神が私をそこに召しておられるのだ。だから必ず今の私には理解出来ない、知られざる意味があるに違いない。そういう確信を私たちは信仰の目をとおして持つことができます。
そして、そのことをはっりと私たちに保証するものが、この「主の復活」です。限られた今という時間で見えないものも、永遠の時間軸の中において見るならば、永遠の時間の中にある「復活の主」が私の人生を知り愛し招いておられるのです。そして、その主が言われます。「恐れるな。私は既に世に打ち勝った。」
私たちは復活の信仰によって、初めて苦しみを積極的に選び取り、捧げる事が出来るようになります。この確信に基づいて私たちは、たとえ厳しい現実であってもそこに生きることを選びとることができるのです。偶然でもなく、仕方なくでもなく。そこに神の招きを見て、その生き方を選び取るとき人生の意味は変わってきます。
人生が偶然によって左右されるのではなく、はっきりとした愛の招きがあり、その愛に守られ支えられて今の自分があるのだ。そう悟ったとき、厳しい現実を前にしてどれほど自分の無力を感じても、それに直面し乗り越えていく力を私たちは得ることができるのです。
今日の福音書にある空の墓のメッセージ。それは次のようなものでした。あの方は死者の中から復活された。そして、あなた方より先にガリラヤに行かれる。ガリラヤとは弟子たちの生活の場でした。復活の主は遠くにいて私たちを招いておられるのではなく、まさに多くの困難と苦しみの現実生活において、私たちとともにあり、そこに生きる力と希望を与えてくださっているのです。私たちが召されているのはまさに今、置かれているこの生活の場であり、そこにおいて私たちは必ず生きる意味を、神が与えてくださっている意味を信じて困難に取り組んでいくことができます。
今日、非常に嬉しいことに洗礼を受ける方が14名、堅信を受ける方が2名おられますが、先日、教勢がどんどん落ちる話しをしたばかりの中で、非常にうれしいことだと思います。私たちの中に明るい兆しとして、ともに神の愛に生きる兄弟(姉妹)を歓迎したいと思います。
そして私たちがひとつになって、この社会の中にあって神の証しとなるその力をますますいっしょになって作り上げることができるよう期待しています。』