ご聖体をいただき、わたしたちと共同体はキリストとひとつになります。
今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『聖霊降臨の祝日が終わってから、教会の典礼は「年間の季節」に入りましたが、先週の「三位一体」、そして今日の「キリストの聖体」と祝日が続きます。
聖体は、キリスト教の信仰に欠かすことのできない秘跡であり、ミサに深くつながっています。聖体はミサそのものであるとも言えるような気がします。
私たちが現代、一般的に「ミサ」と言っていることばは、様々な変遷を辿って今日に至っています。もともとは、キリストが亡くなった直後ではイエスの教えや聖書のことばを中心とした「みことばの祭儀」が祈りとしてありました。そしてさらに、最後の晩餐を記念し、イエスとともに食卓をかこむ「感謝の祭儀」であったといわれます。
今日では聖書を中心にした「みことばの祭儀」と、祭壇を中心として最後の晩餐を記念する「感謝の祭儀」が一つになって、一般にミサと言われるようになっています。教会のいのちの源泉であるその典礼をかつて「エウカリスチア」と呼んでいた時代があります。エウカリスチアは聖体祭儀とも言い、聖体を表すことばとして使われていた時代もあります。
教会のカテキズムによると、聖体の秘跡の説明をエウカリスチアである「聖体」によって共同体とともに、洗礼を受けた者はキリストの奉献にあずかることになるとも説明しています。聖体と切り離すことのできない「ミサ」は、かつてはイスラエルの信仰の民にとって忘れることのできない旧約時代の「過ぎ越しの食事」を記念する重要な儀式でした。私たちは聖週間に入ると出エジプト記の聖書朗読をとおして、この過越しの出来事を記憶します。もちろん、今日でもユダヤ教では守るべき大切な儀式として定められているのが過ぎ越しの祭りです。最後の晩餐において制定された十字架の犠牲と復活の記念祭儀にかたどるこのミサは、キリスト者にとってまず何よりも大切にされなければならない信仰上の儀式です。
そこには神のいつくしみ、一致のしるし、愛のきずなを表すキリストを食する宴があります。祭壇を中心とする最後の晩餐のかたどりである食事の席(宴)は、様々な意味を表しています。今日まさに、この宴である主の食卓(祭壇)を中心にして、私たちは賛美と感謝の祈りを捧げ、一つになって祈ります。そして主の祭壇の前でキリストのからだである聖体を受け取ることになります。
今日の三つの朗読も共通したテーマが語られていました。神からの恵みであるパンがテーマになっています。キリストのからだである聖体をいただく私たちにとって、一つのパン、一つのからだについて、考えさせられると思います。
日曜日に教会に来てミサにあずかる皆さん、聖体を受ける私たちですが、時には様々なことを考えさせられることがあります。信者の皆さんにとっては、個別には様々な事情があるにせよ、時には聖体拝領さえしていたら、それでキリスト者としての義務を果たしているかのような、そういう人も見られないわけではありません。私たちにとって教会とは、共同体とは、聖体とはどんなものであるのか、ということをもっと深く私たちは理解をしていかなければと思います。そのような信仰を私たちは生きなければと思います。
聖体をエウカリスチアとも感謝の祭儀ともいうという話をしましたが、キリストの奉献にあずかることの意識も大切にしたいと思います。「キリストの奉献」というと難しい表現になりますが、教会に集まることは、共同体としての交わりを大切にするということとも同じ意味合いだと思います。
キリストとひとつになる聖体を私たちはいただこうとしています。聖書のお話のなかにもありました。キリストのからだにつながれたブドウの枝が私たち一人ひとりである。キリストに、その幹につながらなければ私たちは生きていけない、一つになることはできない。キリストのからだにつながれた共同体として、一致を不十分なままにしておいてはならない、ということだと思います。
今日のみ言葉にもありました。「このパンを食べるものは永遠に生きる」「わたしを食べるものは、終わりの日に復活させる」私たちにそう約束してくださったイエス・キリストに信頼して、祭壇の前に近付いていきましょう。キリストの御体である聖体に感謝し、口で拝領し、心や身体でもキリストのみ旨を表して、大切に自分の信仰を生きることができるようにキリストの聖体の祝日にあたって、私たちは今日新たにその聖体であるキリストに養われ一致して、教会共同体の一員としての役割を果たしていきたいと思います。』