2017年9月25日月曜日

年間第25主日 「ぶどう園の労働者」のたとえ

この日の主日ミサでは、マタイ福音書 第20章「ぶどう園の労働者」のたとえが朗読されました。

御ミサの後、7月に行われた「小田神父講演会の第一講話」のDVD視聴会が行われました。午後1時からは、札幌地区合同墓参が行われました。
先日の発生したメキシコ地震の緊急募金の呼びかけがありました。

この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『(説教の冒頭に後藤神父様は、先週開催された教区司祭黙想会の様子についてお話しされました。)
 それでは、今日、私たちに与えられた聖書のみ言葉を深めて参りましょう。
 ぶどう園で働く人たちの姿が思い描かれるみ言葉をさきほど聴きました。熱い日照りの中であれば、熱さに耐え、汗にまみれての労働はあたり前の時代だったと思います。そして、労働には相応しい報酬が当然あってしかるべきと私たちは考えています。ましてや朝から晩まで、自分に課せられた仕事をやり遂げて、その責任を果たしたとしたら、その報いを期待するのはだれもが当然考えることでしょう。でも、今日の聖書の話しは、そういう私たちの思い考えから少し違った展開をしています。聖書では夜明けから始まって働く人、そして修道院の日課にもあったように9時、12時、15時とそれぞれ3時間ごと区切られて語られています。そう計算すると最初の人は朝の6時から夕方6時まで12時間働いたことになる。そうすると夕方5時に来て働いた人は1時間しか働かなかったことが明らかになってます。12時間働いた人と、1時間しか働かなかった人の報酬が同じである。そこに気がつくと、私たちでも何となく、納得出来ない、エーッそれは許されるんですか、と私たちは現代的考えで思ってしまいます。不公平です。そんなふうに考えてしまいます。
 私たちの現代の社会でも正規雇用の職員とパート職員の働きと賃金の問題が良く新聞にも出て来ます。同じような仕事をしたときに、どうして大きな賃金の違いがあるのですか、と良く問題になっています。仕事の内容が違ったりすれば、ある意味で受け入れざるを得ないのでしょうが。仕事をやると言うことは いかにやり遂げ、その実行と責任が問われることですが、時には能力も判断されるひとつにあるような気がします。どんなにしても私たちは聖書の神の恵みの世界と、私たち人間的考え方とは随分違うことがはっきりと見いだせる、今日の聖書のたとえ話です。
  どこかで何となく不公平感がどうしても自分の心から消えない人について話をしてみます。私たちは永遠の救いを願って信仰も大切に生きています。教会のために、苦労して犠牲を捧げてがんばっておられる方はたくさんいます。しかし、人生の最後の最後に回心して洗礼を受けて亡くなられる話しを聞くときに、良かったですねと喜ばれる方もおられます。が、そんなことも許されるのですかという思いで話される方も少なくありません。○○泥棒と良く言います。それは最後の最後、洗礼の恵みを受けて亡くなられる方のことをいう言葉ですが、私たちの思いを代表している言葉のように思います。そんなことを考えると、若いときから洗礼の恵みを受けて一生懸命教会のために働いて来た人と、最後の最後、洗礼を受けて亡くなった方の神の恵みを考えると、今日の聖書の話しに少し繋がってくるような気がします。

 人生の長きにわたり信仰生活を送り、喜びや苦しみも主とともにあった。幼児洗礼の人はその恵みの特権にずっと与ってきたことを忘れてしまって、不平不満を言ってしまうようなことがあるような気がするのです。小さいときから信仰の恵みをいただいて、主と共にたくさんの恵みをいただいてきた人生がある。信仰の道があった。でも1時間しか働かない人に同じような神さまの恵みが注がれているとすれば、自分と比較して何となく不公平だなという思いがよぎってしまう。神の恵みは誰にもあると、そういうふうに考えると素晴らしいと思いながら、素直に喜べない瞬間が心の中に生じてしまう。神様の恵みは私たちが思う恵みとは違うということを私たちはもう一度、認識しておく必要があるのです。神様の恵みは遅れて来た人にも同じように与えられるんだ。神様の恵みはどんな人にも救いの恵みとして、常に招かれているものなんだ。私たちはやはりそのことを、ずっと心の奥に留めておかなければならないと思います。そのことを忘れてしまうと、遅れて来た人はそれに相応しい恵みで良いのではないかとか、もう少し私よりも少なくて良いはずですとか、そんな思いが心の中に芽生えてくるということではないでしょうか。
  神の憐れみに触れ一致する喜びを見て不公平を感じたり、その人たちに対する妬みの心も 今日の聖書の最後で触れらています。たとえ話の深い意味がここにあったようです。神様の憐れみと恵みは、私たちが主張する権利や利益中心の思いとは違うところにあるということ。妬む心はもしかすると「放蕩息子」のたとえ(ルカ福音書15章11~30節)にあったあのお兄さんの心に近いものが考えられないでしょうか。放蕩息子の話しを思い浮かべてください。放蕩息子と比べるとお兄さんは正義感も強くて、真面目で終日はずっとお父さんに仕えて働いていた人です。自分はこんなに長く真面目に働いていたのに一頭の小羊さえ貰えなかった。だけれども、遊びぼうけて財産を使い果たして、惨めな姿で帰ってきた弟のために、お父さんは喜んで迎え入れて子牛を準備した。そして、盛大な宴会までした。お兄さんは自分がそういう報いを受けたことがないという思いになって弟を妬みました。その宴会にも出席することを拒みました。私たちの難しい状態をパウロも今日の第二朗読で話しています。「恵みの世界と肉に留まるこの世の世界で板挟みになってしまう。」パウロは告白しています。わたしたちも神の恵みの大きさに感謝しているのですが、この世に捕らわれたときには、どうも妬みの心が起こってしまう。それが不平、不満につながってしまう。第一朗読のイザヤ書の言葉です。「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり」と、神の思いを伝えています。

 慈しみ深い神はすべての人を例外なく限りなく救いの喜びに招き続けてくださっている方だということ。考えてみてください。わたしたちも度々失敗を犯しています。わたしたち自身もつまずき遅れてしまうことが何度も何度もあります。でも神様は遅れてきた私たちであっても。最初の人と同じように愛してくださっている神であるということに、私たちはもっともっと気付かなければなりません。どんな人をも救いに招かれる神。不公平のない神。その神を私たちが信じている神であること。そのことが私たちの大きな喜びのはずです。そのことを今日、改めて福音をとおして、気づかさせてくださったと思います。
 国際ディ、そして世界難民移住移動者の日、さらに今日は市内の合同墓参の日です。たくさんの意向が今日のミサの中に入っていきます。神の愛に感謝しながら、私たちの心を主の祭壇に捧げる事にいたしましょう。』

2017年9月18日月曜日

年間第24主日 「敬老の日の祈りと祝福」

今日のみことばで、イエスは私たちに赦しについて教えます。

ミサの中で、「敬老の日」を迎える先輩の方々へ祈りを捧げ、後藤神父様から祝福がありました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『今日のみ言葉は、罪と赦しがテーマとして語られます。
第一朗読(シラ書)では、「隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、願い求めるとき、お前の罪は赦される。」と、罪と赦しについては、旧約時代から信仰に生きるものにとっては、大きなテーマということになると思います。
今日、イエスのみ言葉で「七の七十倍までも赦しなさい」と語られます。いかに赦すことが大切なのかということが、この数字からも理解できるかと思います。赦しの根源には、「憐れに思う」心があります。赦す心は、憐みの心に深く結びついています。聖書の中で説明されるその意味は、人間のはらわたから、内臓に由来して溢れてくる憐み、同情である赦しでなければならない、ということです。ですから口先だけ、言葉だけの赦しでは足りないということです。私たちも本当に心の底から人を思い、心を動かされて赦すという心にまで至らなければ、本当に赦すことにはならないのだと聖書では語られます。それは広い心を持って人を赦すという「七の七十倍」というとてつもない数字に深く結びついているということでもあると思います。頭や言葉では、私たちは十分にそのことを理解しているつもりですけれど、人の過ちを赦すどころか、時には非難し続けている自分がいます。復讐心を燃やし続けるような心が続いてしまうこともよくあるような気がします。聖書の中では、度々イエスの赦しの場面が語られますし、イエスの人を大切にするという教えの中でも赦しがあるということが語られています。

「敵を愛し、迫害する者の為に祈りなさい。」「右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出しなさい。」たとえ敵であっても復讐してはいけませんと教えられます。まさに今、北朝鮮の問題は世界中で考えなければならないことです。世界中の人たちが忍耐を強いられています。
信仰から考える赦しと、今の時代の直面する問題とどう繋がっていかなければならないかということも、私たちにとって大きなテーマになるような気がします。
神様は、善人にはもちろん、悪人でさえも受け入れ愛してくださる方。そのことを私たちはとてもうれしく思いますし、そこに慰めを見出します。そして、そこに救いもあるような気がします。神様がそうあるように、私たちも自分に害を与えた悪人にさえも慈しみの心を持って、「七の七十倍」まで広い心で赦し、そして受入れなさい。まさに私たちが主の祈りで唱える「私たちの罪をおゆるしください。私たちも人を赦します。」という言葉を実践できるようにならないといけないと思います。
私たちは今日もまたミサの前で、回心の祈り、悔い改めの祈りを唱えてミサに入っています。その悔い改めの祈りの中には、「私は、思い、言葉、行い、怠りによって、たびたび罪を 犯しました。」と祈ります。皆さんはこの祈りを唱えたとき、どんな思いを持って、罪を赦してください、と祈りましたか?どんな言葉で罪を犯し、「どうか主よ赦してください。私はこのミサの中で御子であるイエス・キリストのからだをいただこうとしています。どうかふさわしい心でいただくことが出来ますように。どうか私の言葉による過ちを赦してください。」と、ふさわしく準備する祈りを捧げたでしょうか。どんな「行い」や「怠り」があって悔い改めようとしたでしょうか。そのようなことを具体的に考えると、きっと一日だけでも沢山の過ち、反省が起こってくるような気がします。
隣人や罪に対して、寛大な心で人と接しているだろうか、そんなことを考えなければと思います。
「七の七十倍」という数字に、私は驚いて今日の日を迎えました。私自身の個人的なことになりますが、「七の七十倍」という数字が、私に言われているような気がしています。9月7日に、私は誕生日を迎え古希で70歳を迎えました。偶然ですが、「7日に70歳を迎えた」ということに驚いています。今日の聖書のみ言葉は、私に語られていたのではないかと。私も7の70倍をゆうに超すほどの過ちを繰り返しながら70歳を迎え、赦しを願いながら歩み続ける人生が先に見えています。

今日の聖書のみ言葉(マタイ18章21~「1万タラントンの赦し」)では、莫大な借金を王の憐みによってゆるされた家来が、自分にわずかな借金のある仲間をゆるさなかったという内容でした。このたとえ話の家来は、どこか私たちに似ているのかもしれません。自分の罪には寛大でも、人の小さな罪に対しては、なかなか赦すことも、自分の心から消し去ることができない。それが私たちなのかもしれません。それだけに「赦す」ということをもう一度、心に留めなければと思います。

過去を水に流すこと、負債を帳消しにすること、赦しは愛の行為であり、憐みであり、そして恵みでもあるということ。赦しは、相手が何をしたかに関わらず、相手に対してされたことを心に留めないという決意が求められるということ。私たちの信仰生活の中で、愛と赦しは大切なテーマです。

さて、今日はもう一つ皆さんにお願いし、一緒に祈らなければならない日が来ました。明日は国民の祝日でもある「敬老の日」ですが、今日教会ではこのミサの中で、この敬老の日を迎えた先輩である人々と共に、祈りを捧げたいと思います。
生きると言うことは老いていくということでもありますが、老いるということをマイナスのイメージで考えてしまいがちです。神の恵みとして長寿を感謝し、いっそう元気に生きられることを願い、家族や子供達のために祈りを捧げることを喜んで受入れられたらと思います。教会を支え、私たちのために労苦を惜しんで働かれた長寿を迎えている人々を敬い、感謝して祈りましょう。』

2017年9月10日日曜日

年間第23主日  ー チャリティバザー「かてどらる祭」ー

今日は、北一条教会のチャリティバザー「かてどらる祭」の日でした。
好天にも恵まれ、大勢の皆さんがご来場しました。


この日の主日ミサは10時から、英語ミサと合同で行われ、勝谷司教様が司式されました。


勝谷司教様のお説教をご紹介します。

『(司教様は、まず英語でお話しをされ、その後、時間的なこともあり要約のみ日本語で説教されました。)
 私たち日本人は、面と向かって人にアドバイスを与えることは苦手でないかと思います。特に相手が神父、司教であるとなおさらのことだと思います。どちらかというと、直接その人のことを何か言うよりも、陰でみんなで何かを言って、その人の耳に入るのは回り回って、「こんなことを言ってる人がいるよ。」というような噂で耳に入ることが多いのです。これがいつのまにか、私たちの共同体を支配する妖怪のようなものになってしまうことは多々あります。ただ、どうでも良い小さな欠点をあげへつらって、みんなでとりたててどうこう言うのも必要無いことですが、重要なことに関しては、私たちはきちっとそれに直面する必要があるわけです。

  今日の福音書や朗読聖書の流れを見ると、過ちを犯した人を正す義務があるというふうに受けとめてしまいがちですが、果たしてそうでしょうか。私たちはおうおうに、間違っている人を見ると、集団でその人をやり玉にあげて対処してしまう傾向があります。しかし、多くの場合、その人は私たちの教会共同体を去ってしまう結果をもたらしてしまいます。ただ単に、複数の人数でその人を追い詰めることが求められているのではありません。むしろ、私たちが過ちを正すというときに、その人の救いのために何が出来るのかという観点で考えなければなりません。そう言った意味で今日の箇所は、過ちを犯した人をただ直す、忠告せよという意味ではなくて、むしろその人が私たちの共同体にとってかけがえのないメンバーであり、私たちと同じく救われることが大切です。
 ですから私たちの救いのために、私たちの共同体のために、今キリストが何を望んでいるのか、ということを識別するために、祈る必要があります。そして、それは共同体の祈りです。二人三人が共に祈るとき、私はその中にいると言うのはそのような意味です。
 共同体的な識別のセンスを私たちが持って、私たちが一人ひとりの救い対して責任を負っているのだと。そういう観点から私たちは互いに愛を持って忠告し合おうと、今日の福音は求めているのだと思います。』

御ミサの後、11時からチャリティバザーが始まりました。
オープニングは聖堂玄関前で、聖園幼稚園の子供たちの合唱と、司教様のギター弾き語りが披露されました。



やわらかい秋の日差しがそそぐ中、談笑の輪が拡がっていました。




2017年9月3日日曜日

9月3日(日)年間第22主日 「札幌地区使徒職大会」

9月3日(日)午前9:30から、札幌地区使徒職大会が藤学園講堂で行われました。


昨年12月から今年の4月にかけて受洗された80数名の方々が一人一人紹介されました。

レンゾ・デ・ルカ神父(イエズス会日本管区長)の講演「福者ユスト高山右近の霊性に学ぶ」が行われました。


この日の勝谷司教様のお説教をご紹介します。


『昨年、私たちは教区100周年の年を閉じる式典を行いました。多くの未来に向けた提言がなされ、それに基づいて様々な取組が各地区地でなされていることを嬉しく思っています。昨年の提言では、司祭が減少し信徒も含めて高齢化する中で、建物としても、そして共同体としても、いかに教会を維持・発展していくことができるか、そういうことについての新しい発想や提言がなされました。引き続き、各地区で様々な努力をなされていることを嬉しく思っております。
  しかしながら、私たちの取組のスピードをはるかに超えた速さで現実も動いております。道北地区や北見地区、そして帯広地区では司祭が一人しかいません。函館地区でも多くの教会や施設、修道会を抱えながら、高齢の司祭を含む二人の司祭しか司牧に携わっていません。今までは考えられなかったことですが、道内各地の観想黙想会=トラピスチヌ修道会やカルメル修道会=でもミサが出来なくなっているのです。
  一方、札幌地区でいえば、司祭の減少は深刻な問題ですが、司祭の休暇や出張を除けば、地区内教会ではほとんどの信者が、毎週、主日のミサに与ることが出来る現状です。つまり、札幌地区内では、主日の司祭の数が足りているのです。確かに各教会に一人以上の司祭がいた時代と比べると大変な現象です。十分な司牧活動は昔のようには出来なくなっています。ミサに与ることが出来ると言っても、司祭が兼務している複数教会で、交互に主日ミサを行っているところが多くなっています。それでも現状を他の地区と比べると、大変恵まれていると言わざるを得ません。札幌地区の皆さんには、このことを理解していただき、今後近い将来、他地区との格差をなくすために、司祭の再配置を考える時に、協力してくださるようお願いいたします。

   また、青少年活動についていえば、昨年の報告では、新しい流れとしてミッションスクールを通しての活動がありました。夏冬2回行われているフィリピンボランティアとエクスポージャは相変わらずの人気ですが、参加者のほとんどがミッションスクールの生徒です。しかし、函館では、このミッションスクールの生徒を通して「地区高校生会」が作られ、小教区で活動をしています。旭川地区や北見地区でもこの函館地区の取組に習って、「函館モデル」としてミッションスクールと小教区教会との連携の取組を始めようとしています。
 札幌地区にはどこよりも多くの、そして規模の大きいミッションスクールがあります。青少年委員会の企画に多くの参加者がいても、その活動が小教区の活性化に繋がっていない現状を見るならば、ミッションスクールと地区教会との連携の可能性を是非模索していただきたいと切に願います。
  小教区を通しての青少年活動はかなり深刻です。先ほども加藤(神父)札幌地区長の話しにもありましたように、わたしの記憶するかぎりでは初めてのことだと思います。今年の高校生の夏季キャンプの申込みが一人もいなかったために企画が中止になりました。このままだと細々と続いている「春の錬成会」も開催できるかどうか危惧されます。
  とはいえ、明るい兆しもあります。今月16日から支笏湖で、全国の青年が集まる「ネットワーク・ミーティング」が開かれます。年に2回、全国か100名以上の青年が集まるイベントです。今回は札幌の青年たちが準備し開催します。この青年たちは、地区の小教区を基盤として動いていないので、教会内では目にぬきにくいのですが、熱心に活動をしています。この全国から集まる「ネットワーク・ミーティング」の運動体自体、教会の組織的な繋がりではなく、ネットワーク的な繋がりで集まるグループ、全国の若者たちです。彼らの中には、先日行われた「アジアユースディ」、「ワールド・ユースディに参加して、世界的な繋がりを持ち、この集まりを通してそれを共有しあっています。このような活動をどのようにして応援出来るのか、していけるのか。そして、それを教会の活性化にどう繋げるのか、私たちの意識しだいだと思っています。
 バチカンで行われる次回の世界代表司教会議(シノドス)のテーマは「若者・信仰・召命の識別」です。私が代表として参加することになっていますが、青年を育てることなくして、未来の教会はないという、この世界共通の危機感、これに真剣に対応していこうと今、世界の教会全体が取組を始めています。今までの常識と視点を転換して、求められる青少年支援の在り方も、是非、私たちは考えていかなければならないと思います。今日の午後、青年活動の報告もありますので、彼らと共に考えていただきたいと思います。

  今現在、私たちが思い描くことの出来る未来図は、悲観的な材料ばかりであることは確かです。今日の福音書のペトロの言葉のように「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と、言いたくなるような現状です。これに対してキリストは「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と、叱咤されます。人間のことを考え、私たちが変わろうとする努力を放棄して、現状を嘆いているところからは何も生まれません。「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」(マタイ14:16)これは空腹の5千人を前にして打つ手をなくした弟子たちに対して、キリストが発した命令です。人のことを思うとき、不可能に思えることも、神のことを思って働くとき私たちの無力さを通して、神が働かれることを私たちは確信しています。
 そのために必要なことは、出来ないと思える心にこそ呼びかけられている主の招きに信頼して、私たちを賭けることです。まず、私たち一人ひとりが変わる必要があるのです。「自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい。」そういう今日の言葉をよく考えてください。私たちは十字架の意味を、私たちの意図とは関係なく負わされる苦難や重荷として、受け身に捉え理解しがちです。しかしキリストは、「十字架を負わされる」とは言っていません。「自分で負え」と、言っておられるのです。自分で選び取って、自分の意志で負えと言うのです。

 キリストが担った十字架は、私たちへの愛のために、ご自分の命を捧げることを自ら敢えて選び取ったものです。「自分の十字架を負え」と言う意味は、あなたを愛する誰かのために、あるいは大切な何かのために、自分を捨て自分を捧げるという意味と解釈することができます。 望ましくない現状を嘆くのではなく、そこに示される希望の光を輝かさせるために、私たちを変えていくことが求められています。
 第二朗読のパウロの言葉です。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるかを、わきまえるようになりなさい。」』

第21回 カテドラルコンサートのご案内

第21回 カテドラルコンサート 「トランペットとオルガンの響き」

大事なお知らせ:開演時間が午後3時00分から、下記の時間に変更になりました。お間違えのないようご注意ください。

2017年10月14日(土) 午後4時30分開演(開場午後4時00分)
カトリック北一条教会 聖堂で行われます。

当教会オルガニスト 大野敦子さんと、札響のトランペット奏者 前川和弘さんのジョイントコンサートになります。秋にふさわしい しっとりとした演奏をお楽しみください。