今日の福音では、イエスがファリサイ派の人々へ、神の愛、人への愛を教える場面が語られました。
今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『「ロザリオの月」と呼ばれる10月も最後の日曜日を迎えています。神のいつくしみの手の中でこの大自然の景色も秋の色に衣替えをしている真っ最中だと思います。厳しくなる寒さには身体がまだ慣れずに、外へ出るときは着るものにも気を遣っています。
毎朝、目覚めた時に眺めている教会の屋根の上には、この頃は毎日のように枯れ葉が固まって、風に飛ばされないようにしがみついているように見える場所もありますが、皆さんの住まいの周辺は、どんな秋に包まれているでしょうか?
さて、今週の福音は、先週に引き続く箇所が朗読されましたが、皆さんは覚えていますか?「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というお話がありました。イエスの回答でサドカイ派の人々が納税問題の質問で失敗したかのようなお話になっています。今度はファリサイ派の人々も一緒に集まって、またイエスに質問するという、そのような内容の福音でした。
今日の福音の中では、聖書で最も大切な掟は何なのか?という質問がされています。「主を愛しなさい」という愛の掟。私たちはどのように聞いたでしょうか?まさに、そうでなければならないと心に留めたことと思いますが、先週からイエスに対立するグループの名前が次から次に出てきています。思い起こしてみますと、”納税問題””復活について””掟について”と聖書は日曜日ごとに語ってきますけれど、そのような質問をする人々は、ファリサイ派、ヘロデ派、サドカイ派、律法学者たち、と様々なグループが登場してきます。そもそも同じユダヤの信仰を持つグループではありますけれど、相容れない主張を持ってるグループのようです。しかし、それぞれ主張を異にしていても、イエスを罠にかけ、陥れるためならば、自分たちの派閥を超えて協力をするというのは、つい先日行われた総選挙の政治の世界と同じようなことが、2000年前の宗教の世界でも行われていたように私は考えてしまいます。
「愛の掟」に関する質問に対してイエスは、第一の掟として「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」と答えました。これはユダヤ教の熱心な信仰を生きている人々にとっては、誰もがしっかりと心に留めている聖書のことば、神の教えでもありました。ですから反論の余地のない答えをイエスは話されたということで、誰もがそれは何よりも大切なことと思っていることを聖書からしっかりと根拠を示して語られています。
その答えは、旧約聖書の申命記の中に書かれてあることでした。ユダヤ人なら誰でも知っていた、ましてやファリサイ派の人々ならばなおのこと、細かな掟の管理をしっかりと指導する人々ですから、当然彼らは十分その答えを心に留めていました。ですから、イエスの答えは完璧であり、反論の余地もなかった。当時言われていることは、ユダヤの人々はいつもこの神の言葉を心に留めて、祈りの中に繰り返していたそうです。朝夕2回、信仰告白とともに必ず唱えていた神の言葉でもあったそうです。この神の言葉は、ユダヤ人にとって先祖の民の救いの体験として、エジプトから解放され導かれたことを示す神の言葉でもありました。神はイスラエルの民と約束したことをいつも守り導く、そのような中で神の恵みが自分たちの元にあった。自分たちはその神を大切にしなければならない。神から言われるから守るのではなくて、先祖が神から救っていただいて今自分たちは神の恵みのうちに生きているのだ。今生きているのもその恵みが及んでいるからだ。だから神を愛することは当然です。神の教えは守らなければならない。このような信仰を生きていたのがイスラエルの民、ユダヤの民であったということです。生かされ、導かれているという神への感謝そのものは、愛することという形で彼らの生活があったということだと思います。
「神を愛しなさい。それが第一の掟である」付け加えるならば「隣人をも愛しなさい」それはイエスが、弟子たちをとおして示されるそういう愛でもあり、隣人愛でもあったと思います。神への愛と隣人への愛は別々の掟として捉えられていたと言われますが、イエス・キリストはそれを一つの掟として取り扱って、弟子たちとともに歩まれた方です。ですからイエスは最終的にはこのような言葉で弟子たちに愛について教えています。「私が愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」自分を愛するように隣人を愛するのも大事なことだけれども、自分を中心として愛するよりも、私が愛したように、私が模範として示したように、あなた方も愛し合いなさい。これが最終的なイエスからのメッセージになっていました。イエス自らが示した愛を見つめること、それが私たちの愛の掟ではないでしょうか。
イエスを見つめ、イエスに触れて過ごした弟子たちにとって、自分の上に注がれている神の愛の自覚、イエスの愛の実感こそ自分たちの愛の実践を担う力となっていたはずです。ですから、私たちも神から愛されているという実感を大切にしなければならないと思います。神から愛されている実感がなければ、自分だけの愛、形だけの愛に留まってしまうことになると思います。自分が愛された、救われた、力をもらった、そのような実感があって、私たちは周りの人にも隣人にもその愛を活かすことが出来るような気がします。
愛は大切であると信じる私たちにとって、私が示す愛、自分が示す愛は、本当に友人や隣人のためになっているのかどうか、少し考えてみなけらばならない時があるようです。時々やり過ぎてしまう、いき過ぎてしまう、愛を押し付けてしまうことも有り得るような気がします。自分はこうした、こうしてあげた、こうすべきだと思ってやっていることが、もしかすると余計なお世話になってしまうこともないわけではない、と思います。ですから、愛は素晴らしいけれども、本当に隣人に受け留めていただき感謝されるためには、自分だけの思いで自分の愛を生きるということには、少し慎重になることも必要かもしれません。時々私たちの人間関係の中で、「親切にして下さるけれどもちょっと負担になる」という人の声も聞くことがあります。大事にされるのはうれしいこと、とても素晴らしいし有り難いことだけれど、ちょっと放っておいて欲しい、そっとしておいて欲しい、という心境のときも人それぞれにあります。よくよく考えながら愛を実践するということはとても大切なことのような気がします。
今私たちが持っている愛の原動力はどこから来ているのでしょうか?皆さんの愛はどこから来ているでしょうか?そのようなことも考えながら、今日私たちが聞いたみことばを黙想しながら、「私が愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」というイエスのことばをよく心に留めて、また新しい出発にしたいと思います。』
2017年10月29日日曜日
2017年10月22日日曜日
年間第29主日 「ブラジル・マリンガ教区ご一行が来教」
今朝、ブラジル・マリンガ教区のアヌアル・バチスチ大司教をはじめ、二人の日系人神父様、十数名の信徒の皆様ご一行が教会を訪問され、一緒に主日ミサを捧げました。
マリンガ教区と札幌教区は、2001年に帰天された田中亮 師はじめ数名の教区司祭が宣教師として布教されるなど、深いつながりがあります。
今回の来札は、田中師のご親族との対面、当地で田中師らが尽力したザビエル学園建設に対する感謝の意を伝えるための表敬訪問とのことです。
勝谷司教様、後藤神父様、そして、バチスチ大司教、二人の日系人神父様との共同司式により主日ミサが捧げられました。
マリンガ教区と札幌教区は、2001年に帰天された田中亮 師はじめ数名の教区司祭が宣教師として布教されるなど、深いつながりがあります。
今回の来札は、田中師のご親族との対面、当地で田中師らが尽力したザビエル学園建設に対する感謝の意を伝えるための表敬訪問とのことです。
勝谷司教様、後藤神父様、そして、バチスチ大司教、二人の日系人神父様との共同司式により主日ミサが捧げられました。
この日の勝谷司教様のお説教をご紹介します。
『今日の福音書を理解するためには、その前提となる背景を少し説明する必要があります。 何度も聴いて承知の方もあられると思いますが、簡単に解説します。
イエス様のところに行って、税金を納めるべきか、あるいは納めてはならないのかという 論争。どこからきているかというと、ユダヤ人にとって唯一の王は、「神のみ」という考え方をしていました。ですから、神がこの世を治めておられる。税金を納めるのも神のもの。ですから彼らは重い税であっても、神殿に対して税を納めることはいといませんでした。しかし、ローマ皇帝に税を納めるということは、当時のローマ皇帝は神格化されていました。そして、その銀貨に刻まれた肖像は神として(のもの。)ですから、皇帝に税金を納めるということは偶像崇拝にも等しいことである。律法で神学的な対策をしていたのは、ファリサイ派の人々です。一方、ヘロデ派の人々は、ローマによって打ち立てられた「かいらい政権」を指示する 人たちです。当然彼らはローマ帝国に税金を納めることを奨励していました。ですから、本来はヘロデ派の人たちとファリサイ派の人たちは、まったくあわない人たちなのです。ところが、イエス様を陥れようとする策略のために、このときは協力し合っていたのです。そして、慇懃(いんぎん)無礼なイエス様を讃えるようなことを言って、これは中途半端な答えは赦さないぞと、「税金を納めるべきか、納めるべきではないか」と問い詰めるのです。
どちらの答えをしてもイエス様は窮地に追い込められるという巧妙な質問です。税金を納めよと言えば、これは神に反する、律法に触れることとしてファリサイ派の人たちから攻撃されます。納めなくても良いと言えば、ヘロデ派の人たちから、ローマに対する反逆者として、また糾弾されるわけです。どちらの答えをとったとしてもこれはまずい答えになるわけです。
これに対してイエス様の答えは、デナリオン銀貨に刻まれている肖像を見せながら、「この肖像と銘は誰の者か。」と聞くわけです。「皇帝のものです」。実はファリサイ派の人たちは、神学的には納めてはならないと主張しながらも、実際は納めざるを得なかったわけです。皇帝の銀貨も流通し、本来は神殿の中では使われてはならないはずの銀貨も流通していたところは、これは彼らが建前を主張しても、現実にはそうではないということを物語っています。彼らの中に既に多くの矛盾を抱えていたんですが、イエス様は彼らの矛盾を良く承知した上で、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」。
これはどういう意味か、短い言葉でいろいろ解釈されています。一般的に多く解釈されているのは、いわゆる宗教と政治は分離して考えるべきだという「政教分離」の考え方。イエス様こういうふうに解釈していたという方が多かった。しかし、実際この時代は「政教分離」という概念さえもありません。この地上におけるすべてのことは、神と政治が結びついたものです。分けることは出来ないと言う考え方です。たしかにイエス様は、政治的に関わった発言はなさっていませんが、結果的に十字架にかけられた罪状は、政治犯としての罪状だったのです。この政教分離という考え方は、実は近世になってからの考え方で、特に教会というものが非常に世俗的な権力を強く持つようになって、その反省から宗教と政治は分離されるべきだと考えられるようになりました。しかし、ここで大きな誤解が起こりました。つまり、宗教的に生きる者、信仰を持って生きる者はいっさい政治にかかわってはならないということでした。しかし、本来の「政教分離」という意味は、特に第二バチカン公会議以降のいろいろな文書の中で、むしろ政治に関わることは信徒の義務だと、現代世界憲章に宣言されています。
政教分離は何を意味するかというと、ある特定の宗教団体が権力と結びついて、国家的な権力を行使するものになってはならない。あるいは、特定の権力から利益を受けて、そういう権益を得、利益を得るようなものになってははなならいということです。そしてむしろ、信徒はその信仰の信念にしたがってこの世の政治に関与することは、宗教の義務であると唄われています。そして、教会に対しては政治に対して福音的な観点から、それに反するものに対しては、むしろそれに対してはっきりとした意見を述べる義務があると言われています。そう言った意味で、私たちが「政教分離」といった意味を考えたときに、そこをきちんと分けて考えなければなりません。
話しが少し横道にそれましたが、奇しくも今日は総選挙の日です。わたしたちが政治的に関わるチャンスの時、特に大切な日です。天候がどうなるか分かりませんが、それぞれの信念で国民としての権利を行使する、放棄することのないように。選挙に行って欲しい。
さてまた「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」にもどりますが、皇帝のものとは世俗の象徴ですね。そして実際ファリサイ派の人は、建前上は納めないと言うけれど、権威の中で妥協しながら生きている、生きざるを得ないのがこの世の現実なのです。つまり、私たちもこの世俗の中にあって、たしかにお金なしでは生きて生けませんし、様々な世俗的なものに囲まれて、それに頼っていかなければならないのが現状です。それを排除して生きるとすれば観想修道会に行かなければならないと思うのです。それは世俗の者は、世俗の中で生きなければならない現実を認めながらも、「神のものは神に」。いったいこれは何を意味しているのか。世俗の中に生きながらも、譲ってはならない大切な場所。
神のために生きることは、それはとりもなおさず愛に生きるということですが、わたしたちが本当にお金や権力、地位など世俗のものに惑わされて、神のものをないがしろにすることにないように。むしろ場合によっては神のものを大切にするために、この世俗のものを捨てるような、あるいは優先させる世俗のものよりも神のものを優先させるという、それが求められている。
今、私たち一人ひとりにとって、このここで問われている「神のものは神に返せ」。いったい、これは何を言われているのか、本当に神のものを大切にする生き方を選ぼうとしているのか。私たち一人ひとりに具体的な生き方。世俗の中で生きている私たちに問われている、大きな問いだということが言えると思います。』
イエス様のところに行って、税金を納めるべきか、あるいは納めてはならないのかという 論争。どこからきているかというと、ユダヤ人にとって唯一の王は、「神のみ」という考え方をしていました。ですから、神がこの世を治めておられる。税金を納めるのも神のもの。ですから彼らは重い税であっても、神殿に対して税を納めることはいといませんでした。しかし、ローマ皇帝に税を納めるということは、当時のローマ皇帝は神格化されていました。そして、その銀貨に刻まれた肖像は神として(のもの。)ですから、皇帝に税金を納めるということは偶像崇拝にも等しいことである。律法で神学的な対策をしていたのは、ファリサイ派の人々です。一方、ヘロデ派の人々は、ローマによって打ち立てられた「かいらい政権」を指示する 人たちです。当然彼らはローマ帝国に税金を納めることを奨励していました。ですから、本来はヘロデ派の人たちとファリサイ派の人たちは、まったくあわない人たちなのです。ところが、イエス様を陥れようとする策略のために、このときは協力し合っていたのです。そして、慇懃(いんぎん)無礼なイエス様を讃えるようなことを言って、これは中途半端な答えは赦さないぞと、「税金を納めるべきか、納めるべきではないか」と問い詰めるのです。
どちらの答えをしてもイエス様は窮地に追い込められるという巧妙な質問です。税金を納めよと言えば、これは神に反する、律法に触れることとしてファリサイ派の人たちから攻撃されます。納めなくても良いと言えば、ヘロデ派の人たちから、ローマに対する反逆者として、また糾弾されるわけです。どちらの答えをとったとしてもこれはまずい答えになるわけです。
これに対してイエス様の答えは、デナリオン銀貨に刻まれている肖像を見せながら、「この肖像と銘は誰の者か。」と聞くわけです。「皇帝のものです」。実はファリサイ派の人たちは、神学的には納めてはならないと主張しながらも、実際は納めざるを得なかったわけです。皇帝の銀貨も流通し、本来は神殿の中では使われてはならないはずの銀貨も流通していたところは、これは彼らが建前を主張しても、現実にはそうではないということを物語っています。彼らの中に既に多くの矛盾を抱えていたんですが、イエス様は彼らの矛盾を良く承知した上で、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」。
これはどういう意味か、短い言葉でいろいろ解釈されています。一般的に多く解釈されているのは、いわゆる宗教と政治は分離して考えるべきだという「政教分離」の考え方。イエス様こういうふうに解釈していたという方が多かった。しかし、実際この時代は「政教分離」という概念さえもありません。この地上におけるすべてのことは、神と政治が結びついたものです。分けることは出来ないと言う考え方です。たしかにイエス様は、政治的に関わった発言はなさっていませんが、結果的に十字架にかけられた罪状は、政治犯としての罪状だったのです。この政教分離という考え方は、実は近世になってからの考え方で、特に教会というものが非常に世俗的な権力を強く持つようになって、その反省から宗教と政治は分離されるべきだと考えられるようになりました。しかし、ここで大きな誤解が起こりました。つまり、宗教的に生きる者、信仰を持って生きる者はいっさい政治にかかわってはならないということでした。しかし、本来の「政教分離」という意味は、特に第二バチカン公会議以降のいろいろな文書の中で、むしろ政治に関わることは信徒の義務だと、現代世界憲章に宣言されています。
政教分離は何を意味するかというと、ある特定の宗教団体が権力と結びついて、国家的な権力を行使するものになってはならない。あるいは、特定の権力から利益を受けて、そういう権益を得、利益を得るようなものになってははなならいということです。そしてむしろ、信徒はその信仰の信念にしたがってこの世の政治に関与することは、宗教の義務であると唄われています。そして、教会に対しては政治に対して福音的な観点から、それに反するものに対しては、むしろそれに対してはっきりとした意見を述べる義務があると言われています。そう言った意味で、私たちが「政教分離」といった意味を考えたときに、そこをきちんと分けて考えなければなりません。
話しが少し横道にそれましたが、奇しくも今日は総選挙の日です。わたしたちが政治的に関わるチャンスの時、特に大切な日です。天候がどうなるか分かりませんが、それぞれの信念で国民としての権利を行使する、放棄することのないように。選挙に行って欲しい。
さてまた「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」にもどりますが、皇帝のものとは世俗の象徴ですね。そして実際ファリサイ派の人は、建前上は納めないと言うけれど、権威の中で妥協しながら生きている、生きざるを得ないのがこの世の現実なのです。つまり、私たちもこの世俗の中にあって、たしかにお金なしでは生きて生けませんし、様々な世俗的なものに囲まれて、それに頼っていかなければならないのが現状です。それを排除して生きるとすれば観想修道会に行かなければならないと思うのです。それは世俗の者は、世俗の中で生きなければならない現実を認めながらも、「神のものは神に」。いったいこれは何を意味しているのか。世俗の中に生きながらも、譲ってはならない大切な場所。
神のために生きることは、それはとりもなおさず愛に生きるということですが、わたしたちが本当にお金や権力、地位など世俗のものに惑わされて、神のものをないがしろにすることにないように。むしろ場合によっては神のものを大切にするために、この世俗のものを捨てるような、あるいは優先させる世俗のものよりも神のものを優先させるという、それが求められている。
今、私たち一人ひとりにとって、このここで問われている「神のものは神に返せ」。いったい、これは何を言われているのか、本当に神のものを大切にする生き方を選ぼうとしているのか。私たち一人ひとりに具体的な生き方。世俗の中で生きている私たちに問われている、大きな問いだということが言えると思います。』
御ミサのあとカテドラルホールで、先日、黙想会講師で来教された小田武彦神父様のDVD「キリスト教の死生観と病者の塗油の秘跡」を視聴し、死者の月を控えての勉強会が行われました。
2017年10月15日日曜日
年間第28主日 「婚宴のたとえ」
神は全ての人を招いておられますが、その招きに応えられるかどうかは私たち次第です。
今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『先週のミサ後に朗読の研修会を行いました。私が想像していたよりも大勢の方が参加して学びの時間を持ちました。そのせいではないと思いますが、今日の朗読を聞いていて、とても落ち着いて聞きやすい朗読でした。聞いている皆さんも心の中にまで届くようなみ言葉に耳を傾けられたのではないでしょうか。
先週は久し振りに、教区の神学生養成担当者として神学校の会議で東京に出かけました。神学校までは吉祥寺駅から歩いて40分ほどの距離で昔はよく歩いて行ったものですが、今は無理なので駅からバスで向かいました。そのバスの中でとてもよい”招き”の体験をしましたのでお話します。私はバスに乗って吊革に捕まって立っていたのですが、目の前に制服を着た小学生の女の子が読書をしながら座っていました。ふと目を上げたその女の子は立っている私に気付くとすっと立ち上がって「お座りになりませんか?」と声をかけてくれたのです。人の善意に出会え、私にとっては爽やかな気持ちのよい一日になりました。
今日の聖書のお話ではないですけれど、神様から贈り物をいただいたようなそんな気分の一日となりました。ふと、気付いたのですが、もしかしたら私にとって初めて席を譲られる体験だったのではないのかなと思いました(会衆笑い)。最近、私は高齢者のお話をよくしますが、私自身が高齢者になった証のような体験でもあり、このような親切に出会えそれを素直に受け取れたということは、年を重ねることもいいことなのかなとも思えるようなことでした。
さて、今日はぶどう園を舞台にした話の続きでした。3週間続いたぶどう園の話は今日が最後になります。最初は「二人の息子」の話でした。そして先週は「悪い農夫たち」です。そして今日は三部作の最後のような例え話で「婚宴」のお話でした。
これまで、律法学者や祭司長、長老たちにイエスが話しているように「ことばでは賞賛し、口先では立派なことを言っているが、彼らは神への信頼に欠け、その教えを受け入れようとしない人たちである」という、イエスを拒絶し排除しようとし、自分のことだけを考えているという彼らへの批判があり、厳しい対立が見られるなか、選ばれた神の民の特権が取り上げられ、「神の国は異邦人や罪人を含む新しい民に与えられる」というメッセージがあります。
このたとえ話をとおして、神の民であるユダヤ人の罪と罰が語られます。「天の国」は「婚宴の場」と例えられ、王様は神、王子はイエス・キリストを表す形で、このたとえ話をみることができます。披露宴は天の国であり、神の国です。その神の国に招待されているのが神の民であるユダヤ人でした。
神はそのユダヤ人たちを婚宴に招きます。「食事の用意が出来ました」と、自分の持っている最も善いものを準備して王は招きます。神がそういう食事を用意してくださったのは「主の食卓」、すなわちミサとも重ね合わせることができます。私たちの信仰と救いのうえでミサは大切なものであります。でも私たちはいつもこの救いの場となるミサを最も大切にできているでしょうか?そのような問い掛けも聞こえてくるような気がします。ほとんどの人は主日のミサを大切にして教会に足を運び、ご聖体をいただいて新しい一週間に向っていきます。でも時々そのミサに与れない与らない人たちもいるような気がします。それは自分を優先する場合にそうなってしまうことがあるでしょう。天のことよりも地上のこと、私たちが生きている世界のことを優先せざるを得ない、そのような事情がある人もたくさんいるというのは私たちの現実だと思います。しかし、時にそのことを承知のうえで怠けて、神の招きに応えないという心で足を運ばないこともあるかもしれません。もしそういうことであれば、聖書にあるように、やがて裁きとなって下るということが語られます。
聖書のこの婚宴の話のなかでは、神の民であるはずのユダヤ人が招かれたけれど拒絶したため、神の招きは新しい民へと変わっていきそうです。そして新しい民というのは、信仰を持つ者だけではない、信仰を持っていない人にも招きがある、それは異邦人であるかもしれません。さらに良い人・悪い人に関係なく招かれるというのも聖書で語られます。神の招きは全ての人へ普遍的に拡がっているということが語られています。資格のある・なし、私たちは時々、洗礼を受けていますか?ということを強調して話してしまいますが、洗礼を受けていても受けていなくても神の招きはいつも一人一人に注がれているということを大切にしなければならないと思います。
私たち一人一人は本当にその招きに応えようとしているでしょうか?この地上の生活が優先してしまう時に、自分の思い、自分を捨てることの難しさを誰もが感じていると思います。神様に応えたいけれども残念ながら今日はその時は応えられない、そのような事情も持ち合わせているということもよくあるのではないでしょうか。そうは言っても、時にどんな事情があるにせよ、家族の一人がもし怪我をしたり亡くなったりしたら、そっちに向うことが出来ているはずです。そのような選択は誰でもがするはずなのに残念ながら、教会のミサに対しては、そのような決断が出来ないというのが現実でしょう。神の教えや神からの呼びかけよりも、もしかすると、人から憎まれたり悪口を言われたりすることの方を恐れて、そのような選択をすることもあるかのような気がします。
しかし、自分の立場を優先ばかりしていては、神の招待さえも拒否し続けることになってしまいそうです。「いのちに至る道は狭い」と聖書言われていますが、捨てるべきものを捨てなければ、神の国に入ることは難しいのだということを心に留めておきたいと思います。
さて聖書の話では婚宴が始まって王が入ってきます。するとその王は一人の人に目を向けて「礼服を着けないでここに入ってきたのか?」と言いました。この一言を私たちはどう理解したでしょうか?きっと皆さんはこの言葉はどういう意味なんだろう?私たちはどんな礼服を着けて御ミサに来なければならないか、というところに繋がっていくのではないでしょうか。
私たちは、ふさわしい礼服を着けて、いま、主の食卓に与ろうとしているのでしょうか?聖書の中に「イエス・キリストを着なさい」ということばがあり、洗礼の時には「あなたは新しい人となり、キリストを着るものとなりました」ということばが伝わっています。洗礼の時は「白衣を受ける」ということばが使われていますが、私たちにとって礼服とはどんなものでしょうか?少し思い巡らしてみてください。
少し安心してもらうために、聖書の旧約時代にあった話をします。旧約時代に遡るとこんな習慣があったそうです。祝宴があるときは、王宮で王から与えられる歓迎の着物があったそうです。ですから今日の福音に照らし合わせてそのことを考えてみますと、突然道端で招きを受けたのですから、婚宴にふさわしい服など持っている人はほとんどおらず、礼服を着ることなど当然難しかったはずです。でも昔の習慣では、招かれた人は王宮に入っていく時に衣服が与えられたので、その衣服を着て入ることができるとすれば、それほど心配せずに突然の招待も受けられたはずです。ところが一人だけ礼服を身に着けていない人がいたというのが今日の聖書のお話です。少し理解できたと思います。
それでは、今の私たちにとって考えなければならない礼服とは?
パウロの表現によりますと、「キリストを着ること」ということで礼服について話をされていることがあります。それは「新しい人を着る」ということでもあるというのです。
「礼服」とは、「キリストを信じることであり、神を信頼し信じる心を持つこと」それが神から与えられた礼服を着るということです。これは、信じることなく、救いに与ろうとするものではない、ということを言っていると思います。神を信じることから救いが始まるということです。
ですから、ふさわしい礼服とは、真実の信仰を求め、それを生きようとする心構えといえると思います。神の恵みの席に今連なっている私たちですが、それが形だけではなく、神との真実な交わり出会いとあるよう願い祈ることが求められています。
地上の現実にすべてを奪われている人の心には、神の呼びかけやイエスの呼びかけも響かないと思います。神が今、私たちを招いて下さる。その答えは、私たちの信仰の問題になってくるということ。今日の婚宴のたとえをとおして、私たちが着ける礼服はどうなっているのか、ということをメッセージとして受け止めたいと思います。
そして、私たちが本当に神の国に繋がって、私たちの道が歩めるように今日もまた主の祭壇の前で一致して祈りたいと思います。』
今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『先週のミサ後に朗読の研修会を行いました。私が想像していたよりも大勢の方が参加して学びの時間を持ちました。そのせいではないと思いますが、今日の朗読を聞いていて、とても落ち着いて聞きやすい朗読でした。聞いている皆さんも心の中にまで届くようなみ言葉に耳を傾けられたのではないでしょうか。
先週は久し振りに、教区の神学生養成担当者として神学校の会議で東京に出かけました。神学校までは吉祥寺駅から歩いて40分ほどの距離で昔はよく歩いて行ったものですが、今は無理なので駅からバスで向かいました。そのバスの中でとてもよい”招き”の体験をしましたのでお話します。私はバスに乗って吊革に捕まって立っていたのですが、目の前に制服を着た小学生の女の子が読書をしながら座っていました。ふと目を上げたその女の子は立っている私に気付くとすっと立ち上がって「お座りになりませんか?」と声をかけてくれたのです。人の善意に出会え、私にとっては爽やかな気持ちのよい一日になりました。
今日の聖書のお話ではないですけれど、神様から贈り物をいただいたようなそんな気分の一日となりました。ふと、気付いたのですが、もしかしたら私にとって初めて席を譲られる体験だったのではないのかなと思いました(会衆笑い)。最近、私は高齢者のお話をよくしますが、私自身が高齢者になった証のような体験でもあり、このような親切に出会えそれを素直に受け取れたということは、年を重ねることもいいことなのかなとも思えるようなことでした。
さて、今日はぶどう園を舞台にした話の続きでした。3週間続いたぶどう園の話は今日が最後になります。最初は「二人の息子」の話でした。そして先週は「悪い農夫たち」です。そして今日は三部作の最後のような例え話で「婚宴」のお話でした。
これまで、律法学者や祭司長、長老たちにイエスが話しているように「ことばでは賞賛し、口先では立派なことを言っているが、彼らは神への信頼に欠け、その教えを受け入れようとしない人たちである」という、イエスを拒絶し排除しようとし、自分のことだけを考えているという彼らへの批判があり、厳しい対立が見られるなか、選ばれた神の民の特権が取り上げられ、「神の国は異邦人や罪人を含む新しい民に与えられる」というメッセージがあります。
このたとえ話をとおして、神の民であるユダヤ人の罪と罰が語られます。「天の国」は「婚宴の場」と例えられ、王様は神、王子はイエス・キリストを表す形で、このたとえ話をみることができます。披露宴は天の国であり、神の国です。その神の国に招待されているのが神の民であるユダヤ人でした。
神はそのユダヤ人たちを婚宴に招きます。「食事の用意が出来ました」と、自分の持っている最も善いものを準備して王は招きます。神がそういう食事を用意してくださったのは「主の食卓」、すなわちミサとも重ね合わせることができます。私たちの信仰と救いのうえでミサは大切なものであります。でも私たちはいつもこの救いの場となるミサを最も大切にできているでしょうか?そのような問い掛けも聞こえてくるような気がします。ほとんどの人は主日のミサを大切にして教会に足を運び、ご聖体をいただいて新しい一週間に向っていきます。でも時々そのミサに与れない与らない人たちもいるような気がします。それは自分を優先する場合にそうなってしまうことがあるでしょう。天のことよりも地上のこと、私たちが生きている世界のことを優先せざるを得ない、そのような事情がある人もたくさんいるというのは私たちの現実だと思います。しかし、時にそのことを承知のうえで怠けて、神の招きに応えないという心で足を運ばないこともあるかもしれません。もしそういうことであれば、聖書にあるように、やがて裁きとなって下るということが語られます。
聖書のこの婚宴の話のなかでは、神の民であるはずのユダヤ人が招かれたけれど拒絶したため、神の招きは新しい民へと変わっていきそうです。そして新しい民というのは、信仰を持つ者だけではない、信仰を持っていない人にも招きがある、それは異邦人であるかもしれません。さらに良い人・悪い人に関係なく招かれるというのも聖書で語られます。神の招きは全ての人へ普遍的に拡がっているということが語られています。資格のある・なし、私たちは時々、洗礼を受けていますか?ということを強調して話してしまいますが、洗礼を受けていても受けていなくても神の招きはいつも一人一人に注がれているということを大切にしなければならないと思います。
私たち一人一人は本当にその招きに応えようとしているでしょうか?この地上の生活が優先してしまう時に、自分の思い、自分を捨てることの難しさを誰もが感じていると思います。神様に応えたいけれども残念ながら今日はその時は応えられない、そのような事情も持ち合わせているということもよくあるのではないでしょうか。そうは言っても、時にどんな事情があるにせよ、家族の一人がもし怪我をしたり亡くなったりしたら、そっちに向うことが出来ているはずです。そのような選択は誰でもがするはずなのに残念ながら、教会のミサに対しては、そのような決断が出来ないというのが現実でしょう。神の教えや神からの呼びかけよりも、もしかすると、人から憎まれたり悪口を言われたりすることの方を恐れて、そのような選択をすることもあるかのような気がします。
しかし、自分の立場を優先ばかりしていては、神の招待さえも拒否し続けることになってしまいそうです。「いのちに至る道は狭い」と聖書言われていますが、捨てるべきものを捨てなければ、神の国に入ることは難しいのだということを心に留めておきたいと思います。
さて聖書の話では婚宴が始まって王が入ってきます。するとその王は一人の人に目を向けて「礼服を着けないでここに入ってきたのか?」と言いました。この一言を私たちはどう理解したでしょうか?きっと皆さんはこの言葉はどういう意味なんだろう?私たちはどんな礼服を着けて御ミサに来なければならないか、というところに繋がっていくのではないでしょうか。
私たちは、ふさわしい礼服を着けて、いま、主の食卓に与ろうとしているのでしょうか?聖書の中に「イエス・キリストを着なさい」ということばがあり、洗礼の時には「あなたは新しい人となり、キリストを着るものとなりました」ということばが伝わっています。洗礼の時は「白衣を受ける」ということばが使われていますが、私たちにとって礼服とはどんなものでしょうか?少し思い巡らしてみてください。
少し安心してもらうために、聖書の旧約時代にあった話をします。旧約時代に遡るとこんな習慣があったそうです。祝宴があるときは、王宮で王から与えられる歓迎の着物があったそうです。ですから今日の福音に照らし合わせてそのことを考えてみますと、突然道端で招きを受けたのですから、婚宴にふさわしい服など持っている人はほとんどおらず、礼服を着ることなど当然難しかったはずです。でも昔の習慣では、招かれた人は王宮に入っていく時に衣服が与えられたので、その衣服を着て入ることができるとすれば、それほど心配せずに突然の招待も受けられたはずです。ところが一人だけ礼服を身に着けていない人がいたというのが今日の聖書のお話です。少し理解できたと思います。
それでは、今の私たちにとって考えなければならない礼服とは?
パウロの表現によりますと、「キリストを着ること」ということで礼服について話をされていることがあります。それは「新しい人を着る」ということでもあるというのです。
「礼服」とは、「キリストを信じることであり、神を信頼し信じる心を持つこと」それが神から与えられた礼服を着るということです。これは、信じることなく、救いに与ろうとするものではない、ということを言っていると思います。神を信じることから救いが始まるということです。
ですから、ふさわしい礼服とは、真実の信仰を求め、それを生きようとする心構えといえると思います。神の恵みの席に今連なっている私たちですが、それが形だけではなく、神との真実な交わり出会いとあるよう願い祈ることが求められています。
地上の現実にすべてを奪われている人の心には、神の呼びかけやイエスの呼びかけも響かないと思います。神が今、私たちを招いて下さる。その答えは、私たちの信仰の問題になってくるということ。今日の婚宴のたとえをとおして、私たちが着ける礼服はどうなっているのか、ということをメッセージとして受け止めたいと思います。
そして、私たちが本当に神の国に繋がって、私たちの道が歩めるように今日もまた主の祭壇の前で一致して祈りたいと思います。』
2017年10月9日月曜日
年間第27主日 「ぶどう園と農夫」のたとえ
香部屋の蔦も色付きはじめ、秋を感じるようになりました。
この日の「ぶどう園と農夫」のたとえは、主人からゆだねられ管理をまかされたものを、感謝することなく当然のように感じ、自分の所有物だと思い込む。現代に生きる私たちにもつながる教えです。
やがては、神のみことばを聞いてもそれを行わない者からは、神の国は取り上げられてしまいます。
この日の後藤神父様のお説教は、ブログの最後に掲載しています。
主日ミサの後、聖堂で典礼部主催による「聖書朗読のための勉強会」が行われました。
参加者からは、朗読に際しての細かい所作などについて、たくさんの質問がありました。
奉仕に当たっての心配事が解消され、朗読に専念できる助けになったのではないでしょうか。
ただ読むのではなく「神のみことばを宣べ伝える」ために心がけなければならないことを学びました。それはそれでとても大切なことですが、身構える余り緊張しすぎないようにも気を付けましょう。
後藤神父様のお説教
『今日、皆さんは福音のみ言葉をどのように聴いていたでしょうか。そして、どのように受けとめているでしょうか。もう一つの話しを聞きなさいと呼びかけて今日の福音は始まっています。すでに皆さんはもう一つの話しを聞いたということを前提に、今日の話しは語られています。もう一つの話しは先週聞いているお話になります。先週のお話しを思いおこさなければ、今日のお話しは少し難しいかもしれません。
今日のみ言葉では、第一朗読のユダヤの預言を彷彿とさせるものがあります。ユダヤの預言もぶどう園のお話しです。もう三周間も日曜日の話しは、ぶどう園の話しが舞台になっています。一生懸命働いても地主、主人だけが良いおもいをしていることに腹をたてている小作人たち。主人の財産を自分たちのものにしようとした、ぶどう園で働く悪い小作人の話しが今日の舞台で語られてています。先週のたとえと違って、今日のお話しはどの福音にも語られているものです。マルコ福音書でも、ルカ福音書でも同じような話しが語られているのです。でも、まったく同じではありません。内容のほとんど同じですが、細かい点でちがった物語になっています。ですから、比較すると興味深い点にぶちあたります。いずれも先週と同じように、イエスが祭司長や民の長老たちに向けて呼びかけ、もう一つの話しを聞きなさいと始まるわけです。もう一つの話しを皆さんは思い出していると思います。二人の息子のお話がありました。仕事を頼まれたお兄さんは「いや。」と答えたのです。同じように仕事を頼まれた弟は「はい。」と答えました。ところが、それぞれ後の行動は返事とは違った行動になっています。どちらが正しいと思うのかが先週のお話しでした。仕事を頼まれたとき「はい。」と答えたが、それをあやふやにして果たさなかった人。「いや。」と答えたが、よくよく考えると申し訳ないと考え、その仕事に忠実に果たそうと努力した人。これが先週の話しでした。
今日の話しでも、ぶどう園の主人は父である神様を指しています。そして最後に送った主人の息子は、もしかするとイエスを表していると思います。私たちが聖書を通して学んでいる、理解している、父が送ったイエスが十字架に架かって亡くなったという話しに繋がってくる、このぶどう園の話しになります。ぶどうの実りを小作人に要求する権利を持っているのは主人、地主です。その当然の権利を働く人にお願いしているけれども、時代も時代、今の時代もそういう思いを持つ人はたくさんいると思いますが、時代を良く考えながらこの物語を味わう必要があります。
今日の第一朗読のイザヤの預言は、イスラエルの不信仰を恐れるために物語っているが、話しはぶどうの収穫を拒む農夫たち、その悪意がいっそう強調されて話されています。先ほどほかの福音書でも同じ内容があると話しました。主人から派遣される僕の人数やその回数もそれぞれの福音で少し違ってきます。そういう点では比較すると面白いと思います。マタイ福音書では農夫たちの反抗の凄まじさ、悪意がはっきりと描かれました。最後に主人は自分の息子をぶどう園に送っていますが、ここでもマルコ福音書では、まだ一人の息子を持っていた。彼の最愛の息子である。こういう表現をとっています。それがイエス自身であることを強調した表現がとられた。マタイ福音書の方では表現が違います。彼は自分の子を遣わしたと、こういう表現だけです。最愛の息子を送るということ、自分の息子を遣わすということ。こういうところも違った表現があります。
いずれにせよ、イエスはこのたとえ話しの結論を人々に質問しています。先週も弟と兄の返事に対して正しいのはどちらかと言う形で最後イエスは質問して、それぞれ考えさせる、そういう教えを展開していた。今日の話しも同じようです。結果的にあなたがたはどう考えるのかということを問いかけます。ぶどう園の主人が帰ってきたら、その農夫たちをどうするだろうか。人々がそれに答えて、その答えをイエスは認めます。答えは正しいのですが、先週と同じように口では立派な答えが出来て居るはずなのに、実行が伴わないことがある。それがきっと私たち一人ひとりが、はっきりとしっかりと考えていかなければならないテーマになっています。口では正しいことを話していても、それをしっかりと行動に移すことが出来ているかどうか、そのことも問われているのだということ。
特に今日のお話しの背景には、当時の指導者である長老や祭司長たち。彼らは律法にも聖書にも通じていて信仰の指導者です。正しいことを人々に教え、神の教えを大切にしようと指導的な立場からいつも話されている人たちです。でも、話し方、教えは素晴らしいけれども、彼ら自身はどうであったのか。そんなことが私たちに語られます。イエスのこうしたたとえ話を当然、祭司長や長老たちは聞いています。そして、一言でも間違った言い方をしたならば、イエスを何とか窮地に立たせたいと願っているのが祭司長や長老たち。一言でさえもイエスの言葉を聞き逃すまいと構えています。イザヤの預言で言われたように、イスラエルの不信仰があったように、宗教の教えをある意味導いている祭司長や民の長老たちも、神の国は取り上げられてしまう、そういうおこない生き方をしている。
私たちはどうですか?神の国を願い、私たちも祈りを一生懸命捧げます。私たちの信仰、祈りと行動は一つになっているでしょうか。パウロの第2朗読の言葉も、大切な言葉が私たちに告げられています。共同体の中にある私たちの目指す心が触れられます。どんなことでも思い煩うのはやめなさい。何事に付け感謝をこめて祈りと願いを捧げ、求めているものを神にうち明けなさい。それは慈しみ深い、憐れみ深い心があるなら、心をあわせて心を一つにして祈りなさい。自分のことだけではなくて、共同体の一人ひとりを思いやって、互いにこころがけて歩みなさい。そういうことだと思います。
私たちは今日の聖書のみ言葉から、もう一度どんなことを心に留めるべきでしょうか。イエスは最後に言われます。私から学んだこと受けたこと、私について聞いたこと見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなた方とともにおられる。み言葉である神は、耳を傾ける私たちにも祈りが実を結び、その実りを大切にしなさいということを教えます。
今日もう一度、聖書のみ言葉を味わい、わたしたちが理解したことを、わたしたちの生活、行動の中でそれが実りを結ぶことが出来るように。そのことを願いながら、今日のミサに入りたいと思います。』
この日の「ぶどう園と農夫」のたとえは、主人からゆだねられ管理をまかされたものを、感謝することなく当然のように感じ、自分の所有物だと思い込む。現代に生きる私たちにもつながる教えです。
やがては、神のみことばを聞いてもそれを行わない者からは、神の国は取り上げられてしまいます。
この日の後藤神父様のお説教は、ブログの最後に掲載しています。
主日ミサの後、聖堂で典礼部主催による「聖書朗読のための勉強会」が行われました。
参加者からは、朗読に際しての細かい所作などについて、たくさんの質問がありました。
奉仕に当たっての心配事が解消され、朗読に専念できる助けになったのではないでしょうか。
ただ読むのではなく「神のみことばを宣べ伝える」ために心がけなければならないことを学びました。それはそれでとても大切なことですが、身構える余り緊張しすぎないようにも気を付けましょう。
後藤神父様のお説教
『今日、皆さんは福音のみ言葉をどのように聴いていたでしょうか。そして、どのように受けとめているでしょうか。もう一つの話しを聞きなさいと呼びかけて今日の福音は始まっています。すでに皆さんはもう一つの話しを聞いたということを前提に、今日の話しは語られています。もう一つの話しは先週聞いているお話になります。先週のお話しを思いおこさなければ、今日のお話しは少し難しいかもしれません。
今日のみ言葉では、第一朗読のユダヤの預言を彷彿とさせるものがあります。ユダヤの預言もぶどう園のお話しです。もう三周間も日曜日の話しは、ぶどう園の話しが舞台になっています。一生懸命働いても地主、主人だけが良いおもいをしていることに腹をたてている小作人たち。主人の財産を自分たちのものにしようとした、ぶどう園で働く悪い小作人の話しが今日の舞台で語られてています。先週のたとえと違って、今日のお話しはどの福音にも語られているものです。マルコ福音書でも、ルカ福音書でも同じような話しが語られているのです。でも、まったく同じではありません。内容のほとんど同じですが、細かい点でちがった物語になっています。ですから、比較すると興味深い点にぶちあたります。いずれも先週と同じように、イエスが祭司長や民の長老たちに向けて呼びかけ、もう一つの話しを聞きなさいと始まるわけです。もう一つの話しを皆さんは思い出していると思います。二人の息子のお話がありました。仕事を頼まれたお兄さんは「いや。」と答えたのです。同じように仕事を頼まれた弟は「はい。」と答えました。ところが、それぞれ後の行動は返事とは違った行動になっています。どちらが正しいと思うのかが先週のお話しでした。仕事を頼まれたとき「はい。」と答えたが、それをあやふやにして果たさなかった人。「いや。」と答えたが、よくよく考えると申し訳ないと考え、その仕事に忠実に果たそうと努力した人。これが先週の話しでした。
今日の話しでも、ぶどう園の主人は父である神様を指しています。そして最後に送った主人の息子は、もしかするとイエスを表していると思います。私たちが聖書を通して学んでいる、理解している、父が送ったイエスが十字架に架かって亡くなったという話しに繋がってくる、このぶどう園の話しになります。ぶどうの実りを小作人に要求する権利を持っているのは主人、地主です。その当然の権利を働く人にお願いしているけれども、時代も時代、今の時代もそういう思いを持つ人はたくさんいると思いますが、時代を良く考えながらこの物語を味わう必要があります。
今日の第一朗読のイザヤの預言は、イスラエルの不信仰を恐れるために物語っているが、話しはぶどうの収穫を拒む農夫たち、その悪意がいっそう強調されて話されています。先ほどほかの福音書でも同じ内容があると話しました。主人から派遣される僕の人数やその回数もそれぞれの福音で少し違ってきます。そういう点では比較すると面白いと思います。マタイ福音書では農夫たちの反抗の凄まじさ、悪意がはっきりと描かれました。最後に主人は自分の息子をぶどう園に送っていますが、ここでもマルコ福音書では、まだ一人の息子を持っていた。彼の最愛の息子である。こういう表現をとっています。それがイエス自身であることを強調した表現がとられた。マタイ福音書の方では表現が違います。彼は自分の子を遣わしたと、こういう表現だけです。最愛の息子を送るということ、自分の息子を遣わすということ。こういうところも違った表現があります。
いずれにせよ、イエスはこのたとえ話しの結論を人々に質問しています。先週も弟と兄の返事に対して正しいのはどちらかと言う形で最後イエスは質問して、それぞれ考えさせる、そういう教えを展開していた。今日の話しも同じようです。結果的にあなたがたはどう考えるのかということを問いかけます。ぶどう園の主人が帰ってきたら、その農夫たちをどうするだろうか。人々がそれに答えて、その答えをイエスは認めます。答えは正しいのですが、先週と同じように口では立派な答えが出来て居るはずなのに、実行が伴わないことがある。それがきっと私たち一人ひとりが、はっきりとしっかりと考えていかなければならないテーマになっています。口では正しいことを話していても、それをしっかりと行動に移すことが出来ているかどうか、そのことも問われているのだということ。
特に今日のお話しの背景には、当時の指導者である長老や祭司長たち。彼らは律法にも聖書にも通じていて信仰の指導者です。正しいことを人々に教え、神の教えを大切にしようと指導的な立場からいつも話されている人たちです。でも、話し方、教えは素晴らしいけれども、彼ら自身はどうであったのか。そんなことが私たちに語られます。イエスのこうしたたとえ話を当然、祭司長や長老たちは聞いています。そして、一言でも間違った言い方をしたならば、イエスを何とか窮地に立たせたいと願っているのが祭司長や長老たち。一言でさえもイエスの言葉を聞き逃すまいと構えています。イザヤの預言で言われたように、イスラエルの不信仰があったように、宗教の教えをある意味導いている祭司長や民の長老たちも、神の国は取り上げられてしまう、そういうおこない生き方をしている。
私たちはどうですか?神の国を願い、私たちも祈りを一生懸命捧げます。私たちの信仰、祈りと行動は一つになっているでしょうか。パウロの第2朗読の言葉も、大切な言葉が私たちに告げられています。共同体の中にある私たちの目指す心が触れられます。どんなことでも思い煩うのはやめなさい。何事に付け感謝をこめて祈りと願いを捧げ、求めているものを神にうち明けなさい。それは慈しみ深い、憐れみ深い心があるなら、心をあわせて心を一つにして祈りなさい。自分のことだけではなくて、共同体の一人ひとりを思いやって、互いにこころがけて歩みなさい。そういうことだと思います。
私たちは今日の聖書のみ言葉から、もう一度どんなことを心に留めるべきでしょうか。イエスは最後に言われます。私から学んだこと受けたこと、私について聞いたこと見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなた方とともにおられる。み言葉である神は、耳を傾ける私たちにも祈りが実を結び、その実りを大切にしなさいということを教えます。
今日もう一度、聖書のみ言葉を味わい、わたしたちが理解したことを、わたしたちの生活、行動の中でそれが実りを結ぶことが出来るように。そのことを願いながら、今日のミサに入りたいと思います。』
2017年10月4日水曜日
10月2日(月)「守護の天使」の記念ミサ
この日は、カトリック北1条教会の聖堂名となっている「守護の天使」の記念日でした。
午後6時30分から記念ミサが行われました。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日は守護の天使の記念日。私たちの信仰の中心、私たち共同体の祈りの中心となるこの教会を守り導く保護者として、私たちの教会は「守護の天使」に奉献されました。この守護の天使に奉献されたこの教会は、もうすでに100年を超える教会になっていますが、今日このミサをとおして、私はこの教会の創立にあたった先人たち、そしてこの教会を守り築いてくださった先人たちのためにも祈りを捧げたいと思います。
私たちは普段どのように守護の天使のことを考えているでしょうか、思い巡らしているでしょうか。それほど守護の天使に心を向けることはないかもしれませんが、今日は特に守護の天使に心を向けて祈りを捧げていきたいと思います。天使は私たちにとって身近な存在であると云えます。しかし、天使は霊的な存在であり、誰もが簡単に見ることができない存在として、私たちのもとに送られています。見えない霊的な存在であるけれども、天使が存在するという根拠は聖書にあります。聖書には創世記の最初から黙示録の最後まで、天使と悪魔に至様々な物語が述べられます。そして今日、私たちは先ほど聴いたマタイの福音のみ言葉の最後にも、小さき者を守り導く天使が天の父のみ顔をいつも仰いでいる。だから、小さき者を軽んじることのないようにと述べています。
守護の天使を記念するのは私たちの教会ばかりではありません。10月2日は全世界の教会において、典礼の中でこの守護の天使を記念し祝っています。守護の天使を記念すること、それは人間には天から遣わされた守護の天使が、一人ひとり遣わされているのだ。また、いつくしみ深い神が天使を誓わして、私たちが神の国に入れるように守ってくださる。そのことを私たちは思いおこす記念日として、今日の守護の天使の祝日が定めらています。守護の天使の記念は16世紀にすでに教会で祝われていたことが分かっていますが、実際はそれよりずっと以前から様々な教会の中で天使を祝っています。教会の典礼には16世紀過ぎてから組み込まれていますが、現実的には初代教会から天使についての強い信心があったことを物語っています。聖書の中でも触れられます。聖書では使徒言行録の12章で、ヘロデ王がペトロを牢獄に閉じ込め、二本の鎖でつなガがれていだことが語られています。でも、牢獄につながれたペトロは天使によって奇跡的に助けられ、信者たちが集まっていた家に帰って来たと、そういうことが使徒言行録に語られています。
霊的な存在である天使は私たちの目には見えませんが、天使は常に私たちを見て守っています。私たちの行動、善悪についてさえ常に目撃している。そして、天使は神の前でも証人であると教会は説明します。だとすれば私たちは常に天使と共に守られ、自分の人生を歩んでいる、生きていることだと思います。天使に付き添われ守られていると考えるなら、厳粛な思いも湧き上がってきます。マリア様も天使の表れによってお告げを聞き、御子の懐胎を知り天使の導きによって、常に御子を支え続けた信仰を生き抜かれた。そして、マリア様はこの世の最後には天使と共に天に昇られたと教会は宣言します。私たちの教会において、私たちの信仰において天使は常に身近な存在であることを今日、改めて心に深く留めておきたいと思います。
先週9月29日は神の栄光を歌うガブリエル、ミカエル、ラファエルという三大天使を祝っていますが、守護の天使はさらに別の役割を担って、私たち自身の心から常に囁いています。私たちの良心の声をとおして守ろうとしています。私たちは導き、天使の囁き、良心の声にいつも従うことができるように、改めて心に誓いたいと思います。
今日、ミサの始めの集会祈願の祈りを心に留めます。「あなたは天使を遣わして、私たちを守ってくださいます。私たちがいつも天使に守られ、永遠の喜びに入ることができますように。…」ミサの始めに私たちはこの集会祈願の中で祈りました。「守護の天使に向かう祈り」を、以前、説教の中でも触れたことがあります。その祈りの中にある言葉は慰めや力を私たちに注いでいます。文語体の祈りですが、その一節を紹介します。
「わが守護の天使、…
苦しみに会うとも落胆することなく、
幸運においても思いあがることなく、
世俗とその精神に流さるることなく、
貧しき人をないがしろにすることなく、
主の御慈しみにより、御身にゆだねられたるわが一生が、
すべて御身の喜びとなるよう、われを導き、
われを励まし、われを強め給え。
われを離れず、わが足のつまずかざらんよう、
清き御手(おんて)もてわれを支え、われを守り給え。」
とても素晴らしい祈りの言葉が連なっている「守護の天使に向かう祈り」です。あまりこの祈りに接してないかもしれませんが、この祈りも大切にし黙想しながら私たちの信仰を大切にしたいと思います。』
午後6時30分から記念ミサが行われました。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日は守護の天使の記念日。私たちの信仰の中心、私たち共同体の祈りの中心となるこの教会を守り導く保護者として、私たちの教会は「守護の天使」に奉献されました。この守護の天使に奉献されたこの教会は、もうすでに100年を超える教会になっていますが、今日このミサをとおして、私はこの教会の創立にあたった先人たち、そしてこの教会を守り築いてくださった先人たちのためにも祈りを捧げたいと思います。
私たちは普段どのように守護の天使のことを考えているでしょうか、思い巡らしているでしょうか。それほど守護の天使に心を向けることはないかもしれませんが、今日は特に守護の天使に心を向けて祈りを捧げていきたいと思います。天使は私たちにとって身近な存在であると云えます。しかし、天使は霊的な存在であり、誰もが簡単に見ることができない存在として、私たちのもとに送られています。見えない霊的な存在であるけれども、天使が存在するという根拠は聖書にあります。聖書には創世記の最初から黙示録の最後まで、天使と悪魔に至様々な物語が述べられます。そして今日、私たちは先ほど聴いたマタイの福音のみ言葉の最後にも、小さき者を守り導く天使が天の父のみ顔をいつも仰いでいる。だから、小さき者を軽んじることのないようにと述べています。
守護の天使を記念するのは私たちの教会ばかりではありません。10月2日は全世界の教会において、典礼の中でこの守護の天使を記念し祝っています。守護の天使を記念すること、それは人間には天から遣わされた守護の天使が、一人ひとり遣わされているのだ。また、いつくしみ深い神が天使を誓わして、私たちが神の国に入れるように守ってくださる。そのことを私たちは思いおこす記念日として、今日の守護の天使の祝日が定めらています。守護の天使の記念は16世紀にすでに教会で祝われていたことが分かっていますが、実際はそれよりずっと以前から様々な教会の中で天使を祝っています。教会の典礼には16世紀過ぎてから組み込まれていますが、現実的には初代教会から天使についての強い信心があったことを物語っています。聖書の中でも触れられます。聖書では使徒言行録の12章で、ヘロデ王がペトロを牢獄に閉じ込め、二本の鎖でつなガがれていだことが語られています。でも、牢獄につながれたペトロは天使によって奇跡的に助けられ、信者たちが集まっていた家に帰って来たと、そういうことが使徒言行録に語られています。
霊的な存在である天使は私たちの目には見えませんが、天使は常に私たちを見て守っています。私たちの行動、善悪についてさえ常に目撃している。そして、天使は神の前でも証人であると教会は説明します。だとすれば私たちは常に天使と共に守られ、自分の人生を歩んでいる、生きていることだと思います。天使に付き添われ守られていると考えるなら、厳粛な思いも湧き上がってきます。マリア様も天使の表れによってお告げを聞き、御子の懐胎を知り天使の導きによって、常に御子を支え続けた信仰を生き抜かれた。そして、マリア様はこの世の最後には天使と共に天に昇られたと教会は宣言します。私たちの教会において、私たちの信仰において天使は常に身近な存在であることを今日、改めて心に深く留めておきたいと思います。
先週9月29日は神の栄光を歌うガブリエル、ミカエル、ラファエルという三大天使を祝っていますが、守護の天使はさらに別の役割を担って、私たち自身の心から常に囁いています。私たちの良心の声をとおして守ろうとしています。私たちは導き、天使の囁き、良心の声にいつも従うことができるように、改めて心に誓いたいと思います。
今日、ミサの始めの集会祈願の祈りを心に留めます。「あなたは天使を遣わして、私たちを守ってくださいます。私たちがいつも天使に守られ、永遠の喜びに入ることができますように。…」ミサの始めに私たちはこの集会祈願の中で祈りました。「守護の天使に向かう祈り」を、以前、説教の中でも触れたことがあります。その祈りの中にある言葉は慰めや力を私たちに注いでいます。文語体の祈りですが、その一節を紹介します。
「わが守護の天使、…
苦しみに会うとも落胆することなく、
幸運においても思いあがることなく、
世俗とその精神に流さるることなく、
貧しき人をないがしろにすることなく、
主の御慈しみにより、御身にゆだねられたるわが一生が、
すべて御身の喜びとなるよう、われを導き、
われを励まし、われを強め給え。
われを離れず、わが足のつまずかざらんよう、
清き御手(おんて)もてわれを支え、われを守り給え。」
とても素晴らしい祈りの言葉が連なっている「守護の天使に向かう祈り」です。あまりこの祈りに接してないかもしれませんが、この祈りも大切にし黙想しながら私たちの信仰を大切にしたいと思います。』
2017年10月1日日曜日
年間第26主日
今日のみことばは、先週に引き続き「ぶどう園」のお話でした。
神のみ旨・神の慈しみを実行することの大切さが語られます。
今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日は10月1日、「ロザリオの月」に入りました。
昼の長さはすでに11時間54分と12時間を切っており、秋から冬へと一歩一歩近づいています。つい先日、利尻富士にも雪が降ったそうですが、今朝のニュースでは大雪連峰の黒岳、旭岳でも初冠雪を記録したということが流れていました。
さて、今日のみ言葉は、よく私たちの日常にも起こっていることではないかと思います。返事はさっと「はい」と応えているけれど、それがうまくできないことが私たちの日常ではよくあることです。そのような内容が今日のお話でした。
先週から引き続いて、「ぶどう園」の話が続いています。先週の話を思い起こしてみてください。一日中、朝早くから働いた人、半日働いた人、遅れてきて一時間働いた人も、皆同じ報酬であった。そのような話を聞いたら、私たちは誰もが不公平ではないかと感じながら、み言葉に耳を傾けていたと思います。しかし、聖書のメッセージはどういう視点で語っているのかということに気付かされると、すなわち、神様はどんな人にも愛と恵みを不公平なく注がれる方なのだと、そのような視点でみ言葉を黙想し味わうと、神のメッセージは如何に、私たち人間の心の中には自分中心の欲や妬みというものが潜んでいるかということを思い知らされる、そんな内容が先週のお話でした。神の思いよりも自分中心、人間の思いが先になってしまう私たち。私たちの心の狭さや妬みと、それに対して、神の愛の深さ大きさを表しているお話でした。
今日も同じ「ぶどう園」の話ですが、その内容は、神の国に入るためには神に立ち返る事、それはつまり悔い改め・回心が大切だということを教えています。今日のこのお話の背景には、イエスを何とかしてやり込めてやろうと思っている律法学者やファリサイ派の人たちがいることを考えなければなりません。そしてその人たちは、信仰にも聖書にも通じており社会的にも認められ尊敬されている人たちでした。イエスのこのお話は、そうした律法学者やファリサイ派の人たちへ向けても話されている内容です。
ファリサイ派の人たちから非難の的となっていた伝統を守らない人々が、回心をし洗礼を受けて、キリストと共に生きるようになった人々を長男に似せて話しています。また、掟を忠実に守っていたけれども肝心な時にはキリストを拒絶したり、神のみ旨を実行しない口先だけの人を次男に例えています。
キリストがたとえ話で強調するのは、神のみ旨、神の慈しみを実行することの大切さです。私たちも律法学者やファリサイ派の人たちのように、神の教え、神のみ旨を知っているということだけでなく、それだけで済ますものではなくて、いつも神のみ旨に心を向けて、反省し、回心し、悔い改めながら、さらに成長していくということを大切にするように、というのが今日のみ言葉です。
思い悩むことの多い私たちの日常生活、時には神に応えることがすぐに出来ずに戸惑ってしまう私たち。しかし、落ち着いて考える時が訪れたときには、神が示された道が見えてくるものだと思います。ですから慌てずにゆっくりと神に心を向けて、平和な心を取り戻して、新たな道に向って歩むことが求められます。
正しい道から、そして愛の心から離れたときには、神様に心の目を向けて、回心の恵みが求められます。私たちの信仰生活の中で、そのようなことがどのくらい大切にされているでしょうか。そのことに気付いているでしょうか。そのことを私たちはもう一度思い起こして今日のみ言葉を黙想したいと思います。
今日10月1日は、「幼きイエスのテレジア」の聖人記念日です。皆さんの中にもテレジアの洗礼名をいただいている方々がおられると思います。
テレジアは自分の使命を「わたしは神様の愛となりましょう」と宣言されたと伝えられています。15歳くらいの若さにおいて信仰の小さな道を歩んだといわれます。私たちもテレジアのように、自分に示された信仰の道、それは小さな道であるかもしれませんが、謙虚な心を持って、熱心な愛を持って、歩み続けたいと思います。』
神のみ旨・神の慈しみを実行することの大切さが語られます。
今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日は10月1日、「ロザリオの月」に入りました。
昼の長さはすでに11時間54分と12時間を切っており、秋から冬へと一歩一歩近づいています。つい先日、利尻富士にも雪が降ったそうですが、今朝のニュースでは大雪連峰の黒岳、旭岳でも初冠雪を記録したということが流れていました。
さて、今日のみ言葉は、よく私たちの日常にも起こっていることではないかと思います。返事はさっと「はい」と応えているけれど、それがうまくできないことが私たちの日常ではよくあることです。そのような内容が今日のお話でした。
先週から引き続いて、「ぶどう園」の話が続いています。先週の話を思い起こしてみてください。一日中、朝早くから働いた人、半日働いた人、遅れてきて一時間働いた人も、皆同じ報酬であった。そのような話を聞いたら、私たちは誰もが不公平ではないかと感じながら、み言葉に耳を傾けていたと思います。しかし、聖書のメッセージはどういう視点で語っているのかということに気付かされると、すなわち、神様はどんな人にも愛と恵みを不公平なく注がれる方なのだと、そのような視点でみ言葉を黙想し味わうと、神のメッセージは如何に、私たち人間の心の中には自分中心の欲や妬みというものが潜んでいるかということを思い知らされる、そんな内容が先週のお話でした。神の思いよりも自分中心、人間の思いが先になってしまう私たち。私たちの心の狭さや妬みと、それに対して、神の愛の深さ大きさを表しているお話でした。
今日も同じ「ぶどう園」の話ですが、その内容は、神の国に入るためには神に立ち返る事、それはつまり悔い改め・回心が大切だということを教えています。今日のこのお話の背景には、イエスを何とかしてやり込めてやろうと思っている律法学者やファリサイ派の人たちがいることを考えなければなりません。そしてその人たちは、信仰にも聖書にも通じており社会的にも認められ尊敬されている人たちでした。イエスのこのお話は、そうした律法学者やファリサイ派の人たちへ向けても話されている内容です。
ファリサイ派の人たちから非難の的となっていた伝統を守らない人々が、回心をし洗礼を受けて、キリストと共に生きるようになった人々を長男に似せて話しています。また、掟を忠実に守っていたけれども肝心な時にはキリストを拒絶したり、神のみ旨を実行しない口先だけの人を次男に例えています。
キリストがたとえ話で強調するのは、神のみ旨、神の慈しみを実行することの大切さです。私たちも律法学者やファリサイ派の人たちのように、神の教え、神のみ旨を知っているということだけでなく、それだけで済ますものではなくて、いつも神のみ旨に心を向けて、反省し、回心し、悔い改めながら、さらに成長していくということを大切にするように、というのが今日のみ言葉です。
思い悩むことの多い私たちの日常生活、時には神に応えることがすぐに出来ずに戸惑ってしまう私たち。しかし、落ち着いて考える時が訪れたときには、神が示された道が見えてくるものだと思います。ですから慌てずにゆっくりと神に心を向けて、平和な心を取り戻して、新たな道に向って歩むことが求められます。
正しい道から、そして愛の心から離れたときには、神様に心の目を向けて、回心の恵みが求められます。私たちの信仰生活の中で、そのようなことがどのくらい大切にされているでしょうか。そのことに気付いているでしょうか。そのことを私たちはもう一度思い起こして今日のみ言葉を黙想したいと思います。
今日10月1日は、「幼きイエスのテレジア」の聖人記念日です。皆さんの中にもテレジアの洗礼名をいただいている方々がおられると思います。
テレジアは自分の使命を「わたしは神様の愛となりましょう」と宣言されたと伝えられています。15歳くらいの若さにおいて信仰の小さな道を歩んだといわれます。私たちもテレジアのように、自分に示された信仰の道、それは小さな道であるかもしれませんが、謙虚な心を持って、熱心な愛を持って、歩み続けたいと思います。』
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