2017年12月26日火曜日

主の降誕(日中のミサ)12月25日(月)

日付が変わり、改めまして、主のご降誕おめでとうございます。
この日は平日にもかかわらず300名ほどの方がお祝いに訪れました。
また、ミサの中でもうすぐ1歳になる(27日)アンジェリーナちゃんの洗礼式が行われました。おめでとうございます!


それからクリスマスプレゼントでしょうか、今のキタラコンサートホールの専属オルガニスト、マルタン・グレゴリウス氏(ポーランド)がミサに与り、そのあとで即興的にクリスマスの音楽をひいてくれました。7月に当教会でのカテドラルコンサートが決まっています。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『主の御降誕おめでとうございます。また、初めて教会にお出で下さった皆さま。主の御降誕おめでとうございます。ようこそお出でくださいました。
 例年、この日は外部からミサ時間の問い合わせが多くなりますが、今年はいつになく多いと思っています。今年はそんな中、珍しい質問がありました。「クリスマスとはどんなことですか?」簡単な説明であれば、電話でもすぐに出来るのですが、十分に説明するとなると時間が必要です。是非、教会にお出でくださいと、お声かけしました。

 全世界のキリスト者と教会が祝うクリスマスについて、皆さまといっしょに少し考えてみたいと思います。主の降誕を記念する一日を私たちは「クリスマス」と呼んでいると思います。そのクリスマスは、昨日24日の日没から今日の日没までをお祝いする教会の行事として「クリスマス」とか「主の降誕」という言葉を使ってお祝いをします。教会の典礼という、祈りの季節を表す言葉がありますが、典礼としては主の公現を祝う日まで、その喜びの中に置かれます。教会のクリスマスは、街の中で行われる華やかなクリスマスとは違います。その本来の意味が教会では考えられるからです。
 キリスト教という宗教に深く結ばれた主の降誕をお祝いする祭日、お祝い。直接にはイエス・キリストの誕生日というわけではありません。イエス・キリストが何時産まれたというのは、古代から教会内部でも様々な説があるようです。例えば3世紀の初め頃、アレキサンドリアのクレメンスという教会の聖人は5月20日頃と推測した資料が残っているようです。実際に私たちは聖書でキリストの誕生をみていますが、新約聖書にも誕生日を特定するような記述は一切ありません。降誕祭とは別に西方教会では1月の6日にキリストの公現を祝う公現祭を持っています。公現祭は公にキリストがこの世に現れた、お祭りとして古くから祝われていたようです。実際に、誕生を祝うようになったのは、キリストが亡くなってから約300年が経過してから、初めて降誕を祝うようなことが起きています。遅くとも345年には西方教会で主の降誕を祝う資料が出てきてます。救いをもたらす神の子イエス、誕生し私たちのもとにきた。私たちを救うために十字架に架かり亡くなられた。その方の誕生を祝うことはとても大事なことです。今で言うキリストの誕生のお祝いがどんどん広まっていった。キリストが規模の光を届けるように、当時の祭りに結ばれて12月に祝われるようにもなったようです。12月25日を産まれた日として今日のクリスマスに繋がったようです。ですから24日は産まれた日としてではなく、2000年前の生誕を祝う日として24日、25日が定着したとのことです。冬至との関係があったようです。

  私たちは先ほど聖書の言葉を聴きました。聖書の言葉が3つ朗読されました。
 最初に読まれたのは、旧約聖書のイザヤ書でした。その内容は紀元前6世紀のイスラエルの歴史が語られました。イエス・キリストが誕生したエルサレムの町に平和が告げられていました。驚きを感じました。
 そして、第二の朗読では、この世界を創造された神が人類の歴史に深い関わりをもって、古い時代から新しい時代に移り変わる。そこにキリストが関わることを物語ります。キリストが誕生して始まる世界は新約時代という言い方をしますし、聖書では新約聖書というふうに使われます。
 3つ目の朗読は、ヨハネによる福音が朗読されました。創造主である神が言葉とともにあった。言葉は神であった。この言葉は旧約聖書に出て来る創世記の一番最初の内容と深く結ばれているお話しです。暗い時間より、光の時間が長くなる冬至にも関連するように、光となって人間の世界に降りてくるという、救い主イエス・キリストの誕生を告げる話しが、今日の最後に読まれたヨハネによる福音の内容になっています。

  光となって私たちの救いのために神の子であるイエス・キリストがこの世に誕生する。それがまさにクリスマスの意味です。一般の暦では新しい一日は深夜のの0時から始まります。0時を過ぎると新しい一日が始まると普通に理解していますが、キリスト教の世界では、ユダヤ教の教会暦が繋がってきました。ユダヤ教では日没から一日が始まり、日没で終わります。ですから12月24日の日没からクリスマスが始まって25日の日没で終わると言うことです。ですからクリスマス・イヴ(=24日日没)という言葉もここからきているようです。
 昨夜のミサではローソクに火を灯しながらお祝いしました。その時もイザヤ書が読まれましたが、「大いなる光が輝く」という唄で儀式が始まりました。イエスの降誕の光の輝きが私たち皆に輝き、ともに喜び祝うもの。まさに預言者イザヤの言葉は、いかに真実で理に適っていると驚きを感じます。紀元前の預言がまさに現実になった。さらに2000年経って、私たちは毎年祝ってます。あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになりましたとイザヤは告げています。私たちもこのような喜び、楽しみを待ち続けてきました。この時期、プレゼントを贈る習慣があるようですが、私たちは「愛」のプレゼントを贈りたいと思います。

 さて、英語のクリスマスが一般的になっていますが、クリスマスはキリストのミサということでクリス・マスと言われています。日本語では「主の降誕(祭)」です。私たちはこのクリスマスの日をが心から喜び、主を心に 迎えて素晴らしい一年に向かうことが出来れば、私たちの世界は少しずつ変わっていくと思います。
 素敵な詩をを皆さんにお聞かせします。
「生まれる前は 母に待たれ  死ぬ前は 神を待つ
  この世に生きること それは  待って 待たれることばかり
  たとえ 誤解されたり、裏切られたり
   迷い、不安、孤独に苛まれても苛まれても
      身を委ねて 待つ
 ……そんなにあなたこそ待たれている  もっと大きな存在に
    (カトリック生活 2017年12月号 P7 おむらまりこ)
神さまに私たちは最終的に待たれているということ。

 このクリスマス、いっけん華やかなイメージが最初に浮かびますが、実際はそうではありませんでした。昨日の(夜半ミサの)司教様の説教でそうしたことが触れられました。人々を救う神の子のスタートは私たちの人間の常識では考えられない、煌びやかな神殿でスタートしたのではありません。この幼子の環境、スタートは貧しく冷たい飼葉桶の中から始まっています。驚きを感じます。世において、神にできない事はないというしるしがここにも感じます。

 今日の喜びの愛の灯を私たちの心に燃やし続けて行きたいと思います。私たちの心の中に光をもっともっと大切にして、自分だけでなく周りの人にもその光が照らされるように、祈りたいと思います。このことを家族にとっても私たちにとっても大いなる光であります。』

2017年12月24日日曜日

主の降誕(夜半のミサ)

メリークリスマス!
主の御降誕おめでとうございます!



午後7時から、主の降誕の夜半ミサが、勝谷司教様の主司式で行われました。
会衆が手に持ったローソクの火が灯る中、司祭が抱いた幼子イエス様が入堂し、救い主の到来を祝福するミサが行われました。


勝谷司教様のお説教をご紹介します。

『今日は初めて教会に来られた方、お見かけしない方がたくさんいらっしゃいます。本当にようこそいらっしゃいました。少し難しいお話しになりますが、ご容赦ください。

 先月、25年間続いていますが、毎年開催されている日韓司教交流会が、約25名が鹿児島でありました。毎回、その時々のテーマが掲げられますが、今年は両方の国で問題となっている「少子高齢化」でした。どんな取組をしているか話し会いました。その中でこんなエピソードがありました。韓国の司教はおよそ20名くらいお出でになっていました。韓国側のプレゼンテーションはある大学のシスターでした。現代の韓国の老人の貧困率の話しでした。何と5割を超えているのです。韓国の年金制度は充実していないので、韓国を支えた時代の人々の年金は僅かなものです。段ボールなどを集めてお金に換え、それで生活しているとの報告でした。そこで韓国側の何人かの司教は、その報告に異議をとなえたのでした。それはどこの話しか。教会をみているとそんなに貧困な老人は見あたらない。偽りのデータではないのか。これは国際的な機関の公表しているデータで、それをネットで調べたものだとコメント。そして、それに付け加えて言われたのは、司教様がたは教会の内側だけにしかおられない。実際に教会の外、社会に出て行かれていないから現実が分かっていないのではないですか、と。司教様は反論出来ず、ただ沈黙でした。

  これは韓国のことという捉え方でいられないのは、日本の現状だと思います。日本の社会はどうでしょうか。子供の7人に一人は貧困状態にあるといわれています。シングルマザーの世帯では50%以上が貧困状態にある。先日、バチカンの福音宣教省のフィローニ長官が日本に来ました。宣教国を統括する省の長官ですから、訪問する国の事情は事前に調べてお出でになります。日本の現状も良くご存知でした。そして、日本の国の信者の数が増えないことに関して、こう言いました。「皆さんはどこに向かって宣教しているのですか。皆さんが手を差し伸べるのを待っている人はいないのですか。」そのときに例にあげられたのは、『若者の引きこもり』でした。引きこもりは国際語になっています。あるいは自死の多さ。孤独に苦しむ独居老人や今述べた支援を必要としているシングルマザーのことにも触れられました。教会の周りにはそのような人はいないのですかと強く訴えられていました。

  しかし、私はもっと深刻な問題を感じています。フィローニ枢機卿が指摘されていたような人は教会の周りにではなく、教会の中にもいるのです。多くの場合、彼らが支援を求めるのは教会共同体ではなく、教会の外です。枢機卿の指摘はほんの一部です。そのほかにも将来に希望を持てない青年たち。メンタルの病をもち居場所を見つけられない人たち。障害を持つ子どもたちの将来を憂う親たち。日本の政策で制度の狭間に陥って慣れない外国生活を送る苦しい技能実習生たちがいます。実際に不当解雇を受けた技能実習生がおり、その支援が行われています。

 このように、様々なかたちで社会の片隅に追いやられて、小さくなっている人たちがたくさんいます。このような人たちは私たちのすぐ隣にいるのです。キリスト教の宣教とは聖書や教理を教えることだけではありません。第一には、このような人たちと関わりを持っていくことから始まります。必要なことは知識ではなく、共感する心と出向いていく意志。現在、カトリック教会では排除ゼロキャンペーンというものを行っています。教皇フランシスコはこう訴えています。「現在世界中では2億5千万人以上いる移住者と、そのうちの2千250万人の難民がいます。彼らの多くは平和を見出すために命を賭ける覚悟で旅に出ます。その旅は多くの場合、長く険しいものです。そして彼らは苦しみと疲れに見まわれ、目的地から彼らを遠ざけるために建てられた鉄条網や壁に直面します。戦争と饑餓から逃れて来たすべての人々。差別や迫害、貧困、環境破壊のために祖国を離れざるを得ないすべての人々を慈しみの精神を持って抱きしめましょう。」
  先ほど読まれた福音書の中で、臨月を迎えたマリアとその夫ヨセフが宿を求めてさまよい、どこからも拒否されて家畜小屋で出産するエピソードが書かれていました。これが排除ゼロキャンぺーンに繋がるものです。排除ゼロキャンペーンは、現代におけるあらゆる排除されている人々、社会的弱者に目を向け、具体的支援をしようとするものです。特に先ほど述べた 難民を強く意識しています。旅の途中で臨月を迎えたマリアとヨセフ。頼る者もなく無情に断り続けられた彼らはまさに闇の中でさまよい苦しむ貧しい人々、難民の象徴です。
 では彼らを断った宿屋の主人は、意地悪で悪人だったのでしょうか。そうとは思いません。当たり前の普段通りの生活をしているからです。彼らにとってヨセフとマリアは特別なカップルではなく、宿泊先を求めても断られ、野宿を余儀なくされたその他多くの旅人の中に数えられる、顔も名前も知らない二人にすぎませんでした。まさに世界中に溢れている難民の中に「聖家族」がいるのです。何をしても二人の心を動かされないのは、彼らを調べ彼らは自分の世界とは関わりのない大勢の中の一人。つまり私たちがマスコミを通して世界を見るのと同じです。2千250万人という統計上の数字の中の一人に過ぎなくなっているのです。悲惨な現実に心が痛むと言っても、そのために何かをしようと自分を突き動かす力になりません。

  そうです。宿屋の主人たちは善良に生きて当たり前の生活をしている私たちです。こうして私たちは、知らぬまに私たちのドアをノックする救い主の家族を闇の外に追い出しているのです。社会の中で声を発することも出来ずにいる人々に寄り添い、その声を代弁することが教会の使命です。私たちは自分を決して傷つくことのない立場において、机上に集められる情報をもって世界を分析する単なる評論家になってはいけません。出向いて行って実際にその人たちと関わる必要があります。そうして初めて魂を揺さぶられる体験をするのです。テレビ等の情報は確かに共感を引き起こしてくれます。またすぐにチャンネルを切り換えることもできるのです。物知りな傍観者にはなり得ますが、なかなか自分自身を突き動かすものにはなりません。「貧しい人々のための世界祈願日のメッセージ」の中で、教皇様は次のように述べられています。「私たちは貧しい人々に手を差し伸べ、彼らに会って目を見つめ、抱きしめるよう招かれています。」つまり口先にではなく、具体的な行動が求められているのです。

 互いに愛し合いなさいと私たちは何度も聞かされています。しかし、知らない人を愛せません。出会わなければ知り合えません。自分から外に出向いて行かないと出会うことはありません。愛することは理屈ではなく、出向いて行って出会い知り合うことから始まるということを、私たちはしっかりと心に留めておきましょう。』


待降節第4主日

今年の待降節第4主日は、同じ日の夜に「降誕祭」を迎える日となります。
この日のルカ福音書は、主から遣わされた天使カブリエルがマリアの前に現れ、懐妊を告げる場面が語られました。


後藤神父様のお説教はただ今準備中です。

2017年12月17日日曜日

12月17日(日)待降節第3主日

今日の福音では洗礼者ヨハネが救い主キリストの到来を告げます。
1週間後はいよいよ降誕祭です。
洗礼者ヨハネの呼びかけに応えて、謙虚な心で主の降誕を待ちましょう。


後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『「待降節は愛と喜びに包まれた待望の時である」と言われるように、神の子の来臨・主の降誕が近づいてきます。
今日の待降節第3主日は、昔から「喜びの主日」と呼ばれ、かつては司式司祭は喜びを表す薔薇色の祭服を着ました。本日の入祭唱はその趣旨をよく示しており、「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」(フィリピ4・4-5)という言葉が述べられます。
先週のマルコの福音では、イザヤ書に書かれている「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」という言葉どおりに、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れ、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝える場面が語られました。
今日のヨハネ福音書では、洗礼者ヨハネが光として現れるメシアの証し人としてユダヤ人が遣わした祭司やレビ人の質問に答えています。ヨハネは荒れ野という光の届かない暗い世界から沈黙を破って「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」と叫んでいますが、これは私たちの心に神を導くためでした。道を整えなければ、ヨハネがいくら主を案内したくても来られないということです。「道を整えよ」というのは心の中にふさわしく迎える準備ができたのかということと、へりくだった思いを持って、主を迎える祈りをしなさい、ということです。
今日のヨハネの姿に現れているのは、へりくだりの模範の姿です。ヨハネこそキリストだと信じていた人が大勢いたにも関わらず、人々が「キリストではないか?」と思われたとき「そうではない」と答え、人の誤りを自分の誉れとして用いる方ではありませんでした。
ヨハネは自らの試練の場である荒れ野に身を置いて、神だけにしか頼ることしか出来ない環境の中で、人間的虚飾を剥ぎ取りながら、神と純粋に交わり、神の中に身を委ねて生きたのです。見過ごすことの出来ない言葉として、私たちの心の中に響くヨハネの声は、真剣なる神の愛と思いの中でその神秘を生きたヨハネだからこそ、私たちの心に感動を与えるということではないでしょうか。私たちもヨハネの信仰と謙虚な心を見習う必要があるようです。待降節はそのような心の準備も大事にしなければと思います。

私たちはこの地上的な幸せの虜になり、目先の富に目がくらまされることがあるのではないでしょうか。自分の幸せや健康は大切なことです。しかしそれにのみに心を惹かれてしまうと、人を思いやる心や奉仕する心さえもだんだんと小さなものになっていくような気がします。便利な環境に囲まれ快適な生活に恵まれれば恵まれるほど、利己的な欲望に支配されてしまうことがよくあります。そうすると私たちは神を見失い、荒れ野の試煉と危険が迫ってくるのかもしれません。

ヨハネの呼びかけ、その声は、神の姿を見失いかけている私たちに向かって、もう一度恵みの世界へと呼び戻すことを真剣に呼びかけている声なのかもしれません。

来週の日曜日はもうクリスマスになります。
今日のみ言葉の中にもありました「はきものの紐を解く値打ちもありません」とヨハネは公言し謙虚な姿を私たちに示しています。その洗礼者ヨハネに倣って私たちも心を清めて待降節に向かいたいと思います。
「傷ついた心の闇に光を照らしてください」と、罪があるならば赦しを願いながら、謙虚に主の訪れを希望のうちに祈っていく一週間でありたいと思います。』

2017年12月10日日曜日

待降節第2主日 上杉神父様による「黙想会」

上杉昌弘神父様をお迎えし、主日ミサと黙想会「アドヴェントゥスにこそ“マラナタを”」が行われました。
降誕祭を迎える私たちにとって、心を見つめるよいひと時となりました。


上杉神父様のお説教をご紹介します。

『北一条教会には年に2~3回、聖香油ミサや金祝・銀祝のお祝い、叙階式などでお邪魔し、司教ミサに与っています。しかし、今日、プリンチパーレスと言うのですが、主司式司祭として祭壇に上ると不思議にいろいろな思い出や感慨が蘇ってきました。思えば、北一条教会でミサを捧げさせていただくのは、26年ぶりかもしれません。朝早く9時のミサは久しぶりです。北26条教会は(午前)10時半ですから、ゆっくりしていられるのです。もちろん、二ヶ月に1回花川教会に行くときは9時、手稲教会は9時半など…どうでもよいことですね…。

 私たちは間違いなく、今日、神さまに呼ばれてきました。教会と訳されるギリシャ語「エクレシア」は神さまによって呼び集められた人々、その集会を指します。神さまが本当にいらして、「わたしのもとに来なさい」と。一週間、神なしのこの日本の社会にあって、あなたたちは傷つき倒れているかもしれない、あるいは何を目的に何を望み、自分の生涯を何のために捧げて一日一日を生きるのか、それを見失っているかもしれない。世に染まってはいけない。神に祈らず、神に感謝せず、神を愛さずとも幸せそうに生きている人々を見習ってはならない、と。神は千人に三人といない私達信徒の信仰と祈りを通して、ひよっとしたら滅んだかもしれない地上の生活とこの国、私達の生業(なりわい)を支え、忍耐し待っておられるのでしょう。主の呼びかけに応えて私たちは応えます、「はい。主よ、わたしはここにいます」と。皆さんはこの日本に本当に千人の三人といない中から選ばれ、呼びかけられ、その招きに対し「アーメン(そうなりますように)」そう答えて、今日お集まりになられました。

  ミサは、典礼すなわちレイトゥルギア の翻訳ですが、公務、公の勤めとも訳すことのできる言葉です。わたしたちは神の国の公務員かもしれません。今日ミサの初めで、わたしの思い、言葉、行い、怠りによって度々犯した罪をお許しくださいと祈りました。主語は「わたし」でした。しかし、続く集会祈願の時には(この集会=カハルというのが教会と訳される)、主語が「わたしたち」に変わりました。私ではなく、私たち兄弟姉妹が痛み、病み、心の中の愛の灯が消えそうになる罪の喘ぎを告白しました。それを主がお聞きになって呼んでくださり、今日また神のもとに集まることが出来ました。わたしたち一人ひとりが抱えている重荷によって背が曲がり、その重みに耐えかねている時(重荷で背が曲がる、これが聖書でいう貧しい者=アナヴィ-ムの語源)、その時に主の声を聴く。頭をあげなさいと。あなたの前にわたしがいる。あなたに何が必要で、あなたが何を待ち望んでいるのか。自由か、解放か、慰めか。あなた達一人ひとりに必要なものをわたしは知っている。最愛の子キリストをあなたたちに今日も与えよう。あなたたちがこのミサの中で祝っているのは、我が子イエスがあなたたち一人ひとりをわたしに立ち返らせ、暖め、生きる者になるために、今日も愛によって自分を捨てること。わたしがあなたのために自分の命を捧げるよりも、最愛の一人息子の命がとられることのほうが、どれほど痛いことか。しかし、一人も滅びないこと(これが神のみ旨)、一人も滅びないで生きて感謝するようになる、笑顔であなた方が互いを赦し合い愛し合える心となるようにと、今日もミサの中で我が子は自分を惜しむことなく与える、と。

  第一朗読で慰めよ、我が民を慰めよとイザヤが呼びかけます。この2千4、5百年前の預言は、キリストにおいて今日実現しています。カトリック教会で行われているこの儀式は、単なる儀式に留まらず、主キリストがここにいて、わたしたちに手を差し伸べて、暖かい心で言葉をかけ助け起こしてくださると信じる時に、司祭の身体を通してキリストがわたしたちのもとにおられ、み言葉は実現していると。そう信じています。「慰めよ」と聞いた古(いにしえ)のみ言葉は、今日わたしたちのうちに実現します。わたしたちが心を閉ざされた自分の狭い殻から解放されて、広い心に移され、主イエス・キリストの心をいただくなら、今日いただく恵みと平和、慰めは、人々へのため。わたしたちがいかに愛するか、その道を知らない時でも、この一週間に閉じた心を開き、今日いただく恵みを分かち合わせてくださる。そう信じて、この素晴らしい秘跡に与りましょう。秘跡として訳されている言葉はミュステリオンすなわち神秘です。わたしたちが信仰の目を持って臨むならその秘められた大きな宝、恵み、道が見えるようになる。それがこの一週間、わたしたちが気付くまいと、ともにいらしたイエスが私たちにしてくださったみ業とみ言葉です。この秘跡に与っていきましょう。
  愛する人たち、このことだけは忘れてほしくない。ペトロは第二朗読でそう呼びかけます。
一人も滅びないこと。これが父である神の御心であると。しかし、この言葉を無視するならば永遠の滅びがこの地上に入りこみます。この私、愛する家族、群れすべて滅びないように。主よ、わたしたちに必要な糧をお与えください。

  福音書はマルコの第一章第一節から始まりました。マルコ福音書のイエス像は「神の子」これに尽きるそうです。ですから、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と断言します。この神の子イエスは、第一朗読で語られた小羊であることでしょう。「羊飼いが群れを養い、御腕をもって集めた小羊を懐に抱き、その母を導いていかれる。」父である神にとって小羊のようなイエスをわたしたちに与えてくださいました。わたしたちは最後の信仰告白のときに、キリストのからだとなった聖体を示されこう応えます。「神の小羊の食卓に招かれたものは幸い。・・・主よ、あなたは神の子キリスト。永遠の命の糧。あなたをおいて誰のところに行きましょう。」
  子羊キリストとは、あの出エジプト記の時モーセに率いられてその夜、エジプトを脱出する時に急いで屠られた小羊。その血はイスラエルの家の鴨居に塗られ、そこには災いが過ぎ越して行った。その古事に由来します。災いが過ぎ去りわたしたちを滅ぼさないために、キリストは小羊のように死に渡されました。わたしたちは知っています。災いではなく、神の子の命に生きる幸いをもたらすために、今日キリストはご自分を捧げてくださった。

 円山教会にいたころ、ある中学生が「神父様。あなたをおいてだれのところに行きましょうといつも言っているのですが、だれのところに行くのですか?」わたしは大声で笑いました。「あなたの素朴な質問は本当に正しい。神父さんはじめひょっとしたら大人の人も、ミサが終わったら神様を忘れて誰かのところに行っているかもしれないよね。一週間いっしょに家庭で祈ることも、神さまを忘れて祈らない日もあるでしょう。わたしたちはいつもイエス様に従っていかなければたった一人でこの地上を旅することはできない。その目的地をイエス様はご存知なのです。だからご聖体をいただいて、今日も旅をするためイエス様に従っていくんだよ。」と、お話しすることがありました。

  さあ、もう言葉はよいでしょう。沈黙のうちに、静けさのうちに、わたしたちの心と霊に
近づいてくださる主をお迎えしましょう。あなたこそ私の神。あなたを通していただいた洗礼の恵みによって、わたしたちも父の子、神の子となる。』


御ミサの後、黙想会が行われました。


『どうか皆さん、イエズス様と向かい合うひと時にしましょう。
この一週間、迷ったり、困惑したり、ため息を付くような日々だったのかもしれません。私たちがへりくだって「主よ教えてください」と待ち望んでいるならば、必ず立ち上がらせ元気に笑顔に戻してくださる神の言葉が与えられる、今日それをともに心に蓄え、キリストに一緒に聞いていきましょう。』

典礼聖歌集から、上杉神父様がお選びになった
「あなたの息吹を受けて私は新しくなる」
「主はわれらの牧者」
「主を仰ぎ見て」
を唱え、神父様のご指導により黙想を行いました。

黙想会が終わり、場所を移し茶話会の中で神父様とお話をしました。




2017年12月3日日曜日

待降節第1主日

待降節を迎えアドベントクランツのローソクに火が灯されました。
ミサのあとには馬小屋とクリスマスツリーの飾り付けを行いました。
心を清めてクリスマスを迎える準備をしましょう。


今夜からイルミネーションが点灯します。


今日の後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『教会はいち早く、新しい一年の始まりとなる教会の典礼暦「待降節」を迎えました。新しい歩みの一年を「こころの目を開いてください」と神の御心に従って歩めるようにミサの初めにも祈りました。
今日のマルコの福音のことばの中でもイエスが弟子たちに話されていますが、そこでも「目を覚ましていなさい」と三度繰り返されています。
現代の私たちが眠りから「目覚めなければならない」こととはどんなことでしょうか?
隣人愛を忘れた自己中心主義、利己的な生き方なのかもしれません。キリストへの信仰と愛、そして希望をもって祈ることが新しい一年の始まりの決意にしたいと思います。
今年の「待降節」は、今日から三週間で「主の降誕」となります。幼子イエスの誕生を喜び祝い、愛とやさしさのもたらされた救いが、今や地の果てまで全世界に広がっています。その主の降誕を一人でも多くの人々とともに祝うことができるように。
今日から、一人一人の心にローソクの火を灯すように待ち続けて、周りの人にもその光を分かち、照らしながら信仰の道を歩みましょう。』