2018年2月25日日曜日

四旬節第2主日

この日の主日ミサの中では、入信を希望する9名の方々を対象に「洗礼入門式」が行われました。

9名の求道者の方々は、神父様の前で洗礼の意思を表明し、正式に洗礼志願者となりました。


復活徹夜祭に、皆さんが揃って洗礼の恵みに与れることができるよう祈り支えましょう。

このミサでは、3月21日(春分の日)に叙階式を控えている佐久間助祭と箕島神学生のお二人も奉仕をされました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『先週は私たちの教会では黙想会がありました。私には頭から離れない山本神父様の言葉の一節があります。それは「灰の水曜日」のお話しでした。「あなたは塵であり、塵に還っていくのです。」こういう意識の中で額に灰をいただきましたが、山本神父様のお話ではそのときに、神父様が額に灰を置いたとき「あなたは塵であり、塵に還っていくのです。」と言いますから「ハイ、そのとおりです。」そう心の中で祈ってください、そのような話しをされました。灰の水曜日だったからのようですが、なかなかウイットに富んだ神父様のお話。心をときほごすひとときだったのかなと思いました。思いおこすと何となく幸せになったような気分です。

  山本神父様は祈りの大切さも話されていましたが、皆さんは四旬節の祈り、節制、犠牲の精神をもう一度心に留めながら、信者としての原点にかえって、慈しみ深い神様へのもとへたちかえる恵みを祈り続けておられると思います。四旬節の取組の決心は守られているでしょうか。えっ、取組の決心をしているのですか?しなければいけなかったのですかと言う人もいるかもしれません。そういうことを意識されておられない人もいるかもしれません。何度か話しを触れてきているのですが、かつて四旬節に入ると、信者さんはそれぞれ決心を作ってそれを守ろうという習慣がありました。様々な取組がそれぞれの人の心の中で考えらるのでしょうが、求道者の時代、信者になってから言われているひとつは、お酒が好きな人はお酒を控えること、たばこの好きな人はたばこを控える、中にはお茶を控えるとかコーヒーを控えるとか、犠牲や節制をそうしたものに代えて四旬節を過ごす伝統、習慣があったということです。
 山本神父様は祈りということも強調されましたから、そうした犠牲に代えて祈りをいろいろな人のためにという決心を心の中に持たれた方がいたかもしれません。でも、私たちはいつもそうですが、なかなか決心しても三日もたたないうちに、その約束が崩れてしまうのが私たちかもしれません。でも、今日からまた新しいスタートができますから、残された1ヶ月にチャレンジしてみてはいかがでしょうか。四旬節すでに10日過ぎました。40日間、荒れ野で試みられたイエスを黙想しながら、私たちも四旬節の心構えをさらに学んで大切にしたいと思います。

  今日の福音は「主の変容」が語られてました。毎年、四旬節第2主日は、主の変容が朗読されることになっていますが、それぞれ福音記者によって、若干内容が異なった主の変容の出来事が語られています。変容の出来事はイエスの受難と結ばれて考えて、初代の教会から教会の中で必ず大切に朗読されるようになっているそうです。そして、変容のこの出来事を記念して信者を励ましていたといわれています。聖書ではイエスが受難を予告した直後の出来事として語られているのです。今日の福音を聴いただけでは、イエスの受難が弟子たちに告げられた場面が入っていませんので、この出来事だけで黙想することになりますが、聖書を読みながら今日の出来事を聴くと、事前にどんな出来事があって今日の変容の出来事に繋がっていくのか知ると、またちがった意味で黙想を深くすることが出来ると思います。
  弟子たちにとってイエスから告げられた受難のこと、死と復活のこと、まったく理解の出来ないそんなお話しであったと思います。ですから、ペトロはあわてて理解出来ない驚きの中でイエスをいさみはじめたということが聖書に書かれています。でも、イエスをいさめたペトロガまた逆にイエスから叱られるそんなかどでの今日の変容の出来事です。
  イエスが受難の出来事に向かっていく、そして十字架に架かって亡くなってしまうことも理解が出来ず、驚きのお話しだったでしょうし、また、この変容の出来事を直接体験した3人の弟子たちにとって、この出来事もまたどんな意味があるのかという、とても不思議な出来事として理解はきっと難しかっただろうと思います。

 ペトロはイエスの変容と旧約を代表する偉大なエリヤ、そしてモーセ、その3人が語りあっている。そんなシーンを直接目の当たりにして見ています。旧約を代表する預言者、律法を代表するモーセはイスラエルの民にとって、誰もが知っている偉大な旧約時代の預言者であるモーセでした。その人がイエスと話す、とても信じがたい出来事です。ペトロは感動し感極まって「仮小屋を3つ建てましょう。」と聖書は語ります。仮小屋は天にある神の住まいに対して、この地上における仮小屋を意味するかのようです。でも、ペトロがせっかく申し出たこの提案は、受け入れられることはありませんでした。イエスは後に弟子たちに対して、私に従おうとするならば、自分の十字架を背負って私に従いなさい、そういう話しを弟子たちにしています。
 父である神、全能の神はイエスに聞き従うことを弟子たちに求めていたということでしょう。私たちも洗礼の恵みをいただき、神の子となり、新しい命をもってイエスの弟子となり、従う者となっています。ですから、今日のお話しは私たちにとっても四旬節の大切な黙想のテーマが入っていると思います。私たちは弟子たちと同じように本当に真にイエスに従って歩む決心をしているでしょうか。イエスに信頼してイエスの教えを守り生きているのだろうか。そういう意味でも、四旬節、もう一度信者としての原点に立ち返る日々を過ごすことが大切のようです。

  四旬節は新しく生まれ代わろうとして学んでいる、求道者にとっても大切な季節です。これから入門式が始まりますが、洗礼の準備をしている皆さんと私たち教会共同体はどの程度出会って来ているでしょうか。今日初めてそのことを意識された方もいるかもしれません。現実的には日曜日には皆さんはミサに参加されている方々ですが、なかなか個別にお話しをしたりする機会は無かったかと思います。今日をスタートとしてこの洗礼志願者と少しでもともに歩む信仰も大切にして欲しいと思います。何よりもこの洗礼志願者を私たち教会共同体が大いに歓迎して受け入れ、ともに神の子として、イエスの弟子として歩み続ける、その大切さをもう一度学びとりたいと思います。それでは入門式を行います。』

2018年2月18日日曜日

四旬節第1主日 「黙想会:山本孝神父様をお迎えして」

四旬節第1主日を迎えた今日、フランシスコ会司祭 山本孝神父様をお迎えして主日ミサ・黙想会が行われました。


黙想会では、「祈り、笑い、幸せ」についてウィットに溢れるお話をいただきました。



◉祈ること
祈りはキリスト者の基本、土台にあるもの。祈りのない人は薄っぺら人。祈る人は視野が広がる。祈りによって、大事なことに気づく。青山俊董さん著「禅のまなざし」から虻のお話。

◉笑うこと
明日のことに思い煩うな。お笑いタレント「コロッケ」のお母さんの口癖「あおいくま」。焦るな。怒るな。威張るな。腐るな。負けるな。

◉幸せなこと
人に喜んでもらえること。幸せは伝染する。人は一人では幸せになれない。

黙想会・ゆるしの秘跡の後の茶話会で


この日の山本神父様のお説教をご紹介します。

『今年も四旬節に入りました。灰の水曜日の2月14日はパレソタインデーで、わたしの洗礼名(修道名)の記念日でした。わたしは1965年の復活祭に洗礼を受けました。洗礼名をいろいろ考え、洗礼を受けたいと思った日が2月14日だったので、その日の聖人の聖バレンチノの名前をもらいました。フランシスコ会に入会してからも洗礼名をそのまま修道名にもらいました。今年はわたしのお祝い日でしたが大斎・小斎の日でした。
バチカン放送によれば、教皇フラソシスコは、今年の灰の水曜日に、四旬節を『立ち止まり、 見つめ、帰る』機会にするように話されました。虚しく走り回ることをやめ、「立ち止まる」こと。家庭や、子どもたち、若者、お年寄り、病者、犯した過ちから立ち直ろうとする人たちの顔を「見つめ」ること。そして、いつくしみにあふれた御父の腕の中に「帰る」ことです。
わたしは今年の灰の式のとき、額と頭の区別がつかない〇〇さんが来ていたらどこに灰をつけようかとそんないらないことを心配していました。でも、その人がミサに来ていなかったので、すこし安心しました。そして、説教では、これからわたしは、「あなたはちりであるから、ちりに帰るのです」と言って灰をつけます。みなさんは心の中で「ハイその通りです」と思ってください。そうするとほんとうに「ハイの水曜日」になりますと言いました。
四旬節第1主日には毎年、荒れ野における40日間のイエスの試みが読まれます。この日に、教会は洗礼志願式を行うことを勧めています。ある方からここの北1条教会には多くの洗礼志願者がいると聞き、とても羨ましく思っています。四旬節は、復活祭の準備としての祈りと回心の季節ですが、復活徹夜祭に洗礼を受ける人々の直接の準備期間としても形造られてきました。洗礼志願者がこれから神の子として新しい生き方を目指すように、わたしたち信者も同伴者、先輩、仲間として一緒に神に向かって歩みましょう。わたしが洗礼を受けたのは53年前の復活徹夜祭でした。その頃は第2バチカン公会議の直後で、まだ洗礼は復活祭が最適との指針は出ていませんでした。それで、クリスマスや他の祝日にも洗礼式が行われていました。わたしが洗礼を受けたとき、8人が一緒でした。そして、その中のー人は、神学校も一緒に入り、司祭叙階もー緒だった、いまフィリピンにいる佐藤神父さんです。 先日、フランシスコ会のドイツ人の神父さんが89歳で亡くなりました。この神父さんは、晩年は老人施設(月形の藤の園)に入っていたので荷物は少なかったのですが、それでもまだ、 少しのダンボール箱が、修道院のわたしの隣の部屋に置かれています。神さまのところに帰るとき、何も持っては行かれません。
今日、この後で話そうと思っていますが、みなさん、祈りはとても大切です。祈る人には聖霊がとどまってくれます。祈りを大切にして<ださい。毎日、ー番よい時間を個人的祈りにあてるよう工夫してください。アビラの聖テレジアは「お祈りをしない人は、道を踏み外すのに悪魔の案内はいりません。このような人は、自分自身を闇の中へ放り込みます」と言っています。四旬節を、「悔い改めの季節」と考えるより、「今は救いの時、恵の時」と考えましょう。
四旬節は目覚めるとき、神に近づくとき、恵みの時です。』

2018年2月14日水曜日

灰の水曜日

教会は今日の「灰の水曜日」から四旬節に入ります。


この日の後藤神父様のお説教では、
『四旬節の起源は、洗礼準備の季節であったこと。そして、新たに加えられた精神として、信者一人一人が、「祈り、節制、慈善」を持って自分の信仰を見つめ、洗礼の恵みを初心にかえって思い起こし、新しい心で出発すること。』
というお話がありました。

「灰の式」では、司祭に祝福された灰を「あなたはちりであり、ちりに帰って行くのです」と額に受けました。

2018年2月11日日曜日

年間第6主日 世界病者の日

今日は教皇ヨハネ・パウロ2世が定めた「世界病者の日」です。
福音では、イエスが重い皮膚病の人をいやす奇跡が朗読されました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日の主日を持って、新しい季節に入ろうとしています。今週の「灰の水曜日」から四旬節です。
  今日の福音はイエスが宣教に出かける日々の中での病気の人を癒すみ言葉でしたが、皆さんはどのように受けとめ考えているでしょうか。病気は誰もが無関心ではいられない。風邪をひいたり、ちょっと体調が悪いと感じている方もいるでしょう。そういう意味では健康でいるとは簡単なことではないと思います。健康で有り続けることは私たちにとって夢でもあると思いますが、難しさを感じます。
 
 今日は「世界病者の日」です。いろいろ考えさせられる日になっています。世界病者の日は教皇ヨハネ・パウロ2世の時代、1993年に制定されました。病人のことを考え、祈りましょうというのが趣旨です。この日に教皇様は毎年メッセージを出しています。カトリック新聞に全文が載っています。(https://www.cbcj.catholic.jp/2018/02/06/15915/)この日は「ルルドの聖母の日」でもありますが、教皇様はマリアにふれながら私たちに呼びかけています。その一節を紹介します。
「7.いつくしみの母であるマリアに、わたしたちは心身に病を抱えたすべての人をゆだねます。マリアが希望のうちに彼らを支えてくださいますように。また、病気で苦しんでいる兄弟姉妹を受け入れることができるよう、マリアがわたしたちを助けてくださいますように。」
教皇様の意向に少しでも答えられるようこのミサの中で祈りましょう。 
 また、日本の司教団もこの日にあたり意向を示されています。「病者がふさわしい援助を受けられるように、また苦しんでいる人が自らの苦しみの意味を受け止めていくための必要な助けを得られるように、カトリック医療関係者だけでなく、広く社会一般に訴えていかなければなりません。」

 先週も、ペトロのしゅうとめが熱を出してという病気を抱えた話しがありました。病気は罪の結果なのだろうか。その不幸は神様の怒りなのだろうか。いくらそうではないと言われても、心の中は不安を抱きます。イエス様の時代はそのような考えが多かったといえます。病気は罪の結果である。広く一般に考えられたのでした。罪の悔い改めのため犠牲を捧げました。今日の福音は「私は宣教するために来た。」という先週のみ言葉に続くものです。病人に対するイエスの行為とその態度をどのように見ているでしょうか。先週のイエスの姿は特別な姿です。イエスがそばにいき手をとって起こされる。熱は去った。今日の福音では、イエスが深く憐れんで手を差し伸べてその人に触れ、と表現されます。病んでいる人、苦しんでいる人に近づき、イエスは手をとって支えます。イエス様の一言でその人は清くなった。
  イエスのところに来た人、近くにいる人を深く憐れんで、同情を注がれイエスは行動に移っていきます。愛の眼差しばかりではなく、時には厳しい場面も聖書では描かれますが、癒しを受けた人は周りの人に伝えていくことになりました。イエスの福音宣教の効果かもしれませんが、ペトロのしゅうとめの話しからも、その噂は広まっていったのでしょう。
 当時の人々は何百年も続く他国からの支配によって苦しい生活を余儀なくされていました。
そういう中で熱心な信仰を持つ人々は、メシアが私たちのもとにやってくるという期待を持っていました。イエスが奇跡を起こされた話しは、そういう人々の中で広まっていくのは当然のことと考えます。治せないはずの病気が治った。歩けない人が歩き出した。目の見えない人が見えるようになった。これらは神の栄光を表す業として行ったのですが、人々にはそれ以上の驚きでした。中には癒されて自分の心が百八十度変わって、信仰に目覚めた人も多かったかもしれません。しかし、目先の利益だけを求めて集まった人も少なくなかったでしょう。イエスはまた、癒された人をすぐ自分から離れるように促されました。これは不思議に思いますが、真の救い主メシアの誤解を招かないためでした。目先の利益を求める人を恐れたからもしれません。大きく広まるイエスの福音宣教の壁となったのかもしれません。イエスの福音宣教は神の愛を知らせ、一人ひとりの中にその愛を実現させるためでもありました。奇跡はその救い主としてのしるしでしかありませんでした。
  今日の福音に登場する重い皮膚病の人というのは、現在では差別用語で使われなくなった「○○病」を表す病気であったと言われています。つい先日、真夜中でしたがテレビで「ベンハー」の映画が放映されていました。何度もこれまで観ていますが、その度に感動を覚えています。今回も重い皮膚病の母親と妹が癒されるシーンを眺めていましたが、新しいことに気付かされるのですね。

  いずれにせよ、私たちは時に、自分のいたらなさ、弱さ、罪からこんな不幸を負うという思いがありますが、必ずしもそういうことではないと教会は言い続けています。不幸の中にあっても、神の祝福はその人から離れないことを、私たちはもっともっと信じなければいけない。病気の中にあっても神様は私たちを祝福してくださっている方。ですから、希望や信頼を見失うことなく、私たちは生きなければなりません。
  そういう想いで今日のみ言葉も、深く黙想することができるような気がします。私たちの信仰は目先の利益を求めるための信仰ではないということを、もう一度心に留めたいと思います。そして、病気や苦しみによって神の愛を見失うことのない信仰を、私たちはもう一度、願い強め成長させたいと想います。
 今日は「世界病者の日」であることも心に留めながら、病気の人に寄り添い、その救いのために支援のために、私たちの祈りと私たちの出来る支援を続ける決意をいたしましょう。』

主日ミサの後に、毎年この時期に行われる「雪割り」がありました。
男性信徒が中心となって、屋根に溜まった雪や氷を降ろしました。
今年は例年よりも雪が少ないとはいえ、湿気を含み重たくなった雪や氷を協力して片付けました。


心地よい汗を流した後は、女性陣が用意して下さった温かい豚汁に舌鼓をうちました。
皆様、大変お疲れ様でした。

2018年2月10日土曜日

札幌教区カトリックセンター竣工式(2月10日)

建設が進んでおりました札幌教区の新司教館(札幌教区カトリックセンター)が完成し、2月10日(土)10:30から勝谷司教の司式により竣工式が行われ、北海道内の各地の教会と修道会から100名以上の関係者が参列しました。



共同祈願が捧げれた後、勝谷司教によりセンター内が祝福されました。



また、札幌教区司教座空位の2009年から2013年まで教区管理者を務められ、私たちも大変お世話になりました菊地功大司教(東京教区)もご臨席され、祝辞を賜りました。

竣工式の後、祝賀会が行われました。


今後、このカトリックセンターを中心に、新たな福音宣教の歩みが始まろうとしています。

2018年2月4日日曜日

年間第5主日

来週は「灰の水曜日」を迎え四旬節に入ります。
今日の集会祈願では
「神様は悩み苦しむ世界に救い主を遣わしてくださいました。私たちが今日祝う教会の秘跡をとおして、全ての人をいやしてくださるキリストに出会うことができますように。」というお祈りがありました。

今日の後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。


『来週は「灰の水曜日」を迎え四旬節に入ります。
今日の「聖書と典礼」の集会祈願には、「神は悩み苦しむ世界にイエス・キリストを遣わされた」という内容の祈りが入っています。
神は愛する我が子を悩み苦しむ世界に遣わされ、私たちは救い主イエス・キリストと出会い祈りを捧げます。
私たちはイエスの十字架によって救われ、その憐れみを受けていると、頭の中では理解している私たちですが、そのイエス・キリストをどこまで信じ、信仰を生きているでしょうか?祈りが終わってしまうと、イエスの十字架によって救われている私たちであることを忘れてしまっているような気がします。私たちが信仰を生きるということは簡単なことではないと感じます。

私たちは教会に集まり、ひとつになって教会で主の祭壇の前に一致して祈りますが、その祈りは自分のためだけではないと言うことは言うまでもありません。皆さんの祈りは家族や身近な人、また、社会に目を向けての様々な祈りがあります。私たちの教会ではミサの前に祈りを捧げていますが、その時は教会の意向を捧げ、隣人への祈りをしています。教会共同体の一人として考える時、静かに座っている隣の人のことを皆さんはどの程度意識されているでしょうか。私たちの共同体の一人であったとしても名前も顔も初めて見るような人が自分の隣に座っているのかもしれません。隣に座っている人の名前も知らず、言葉も交わすことなく、私たちの祈りが捧げられるとすると、少し寂しいことではないでしょうか。
時折、聖堂が私語で騒がしいという声が上がることがあります。「聖堂は祈りの場所ですから、私語のお話は慎みましょう」というのが一般的な考え方です。でも視点を変えて、祈りが大切であると考えるとき、悩み苦しむ人のために祈るとするならば、その人の痛み、苦しみに触れ、寄り添うということは、祈るうえでとても大切なことになってきます。しかし、そのことを知ろうとしなままにしていることが多いのではないでしょうか。
祈りの場である聖堂の中で話をすることは、あまりよくないことであるなら、どのような方法が考えられるでしょうか。お互いのことをよく知らない共同体のために、何か工夫が必要ですし、考えていかなければならないことです。
ミサが終わって、帰り際にでも言葉を交わし、少しでも教会で出会った人のことを知るならば、次の週のミサの祈りも変わってくるような気がします。
私たちが隣人のために祈るときには、少しでも相手に寄り添い、相手の痛みに触れながら、神様からの力がその人に与えられるように、もっと心を込めて祈ることができるのではないでしょうか。
神を知り、信じる人たちがこの教会に来ています。過ちに気づき赦しを願い、再び神の恵みを知り力強く生きるために、この教会に来て祈りを捧げる人も大勢いると思います。今抱えている苦しみと痛みが癒やされることも大切です。

人と人とのつながり、触れ合い、助け合いの心が変わってきて、このままではいけないと気づき始めている私たちでもあります。
もう一度、私たち一人一人が大切にしなければならないことを見つめ、私たちの生活や信仰に結びつけることが求められているのはないでしょうか。
今日も私たちは、御言葉をとおして黙想し、主イエスの姿に目を上げて、宣教するイエスに私たちもつながっていくことが出来るように祈りましょう。』