2018年4月15日日曜日

復活節第3主日

今日の主日ミサは、先月司祭に叙階された佐久間神父様のカテドラルでの初ミサでした。
司祭になられたばかりで、お忙しく慌ただしい中、大変有難うございました。


佐久間神父様のお説教をご紹介します。

『皆さん、おはようございます。札幌教区の遅れてきたルーキー、パウロ三木 佐久間力です。年齢的にも体格的にも、決して大型新人とは言えませんが、3月21日に勝谷司教様によって司祭に叙階され、間もなく1ヶ月となろうとしております。カテドラルで説教するのは、これが初めてですので緊張いたします。さて、初ミサと言いながらも、司祭に叙階されてから3週間以上がたち、初めはぎこちなかったミサも大分なれてきた気がしておりますが、なれてきた頃が危ないのは車の運転と同じです。どうか事故のないようにお祈りください。
北1条教会の皆様におかれましては、神学校生活を通して支えていただき、また叙階式では会場教会と言う事もあり、多くの方のお手伝いやご尽力を賜りました、本当にありがとうございます。この場を借りて心からのお礼を言わせていただきたいと思います。その6年の神学校生活が終わり、いまここに司祭として立っているわけですが、振り返って見ればこの6年間は本当にあっという間でした。もう既に45才、決して若いとは言えません。しかし、これでも札幌教区司祭としてはわたしが最年少です。45才の新司祭が教区として最年少。これは現代のカトリック教会の在り様そのものを表しているかも知れません。将来を思うと不安は尽きません。しかし、 それでも希望はあります。来年も新しい司祭が生まれる予定です。そして新しい神学生もいます。その後輩達も決して若くはありませんが、その分人生経験を積んできていて、だからこそ世俗の生活や苦しみを踏まえて福音を語ることができる、そんな気がします。わたし自身も、本当に大きな回り道をしてきたと思います。45才でようやくスタートラインに立つなんていうのは、人生を無駄に過ごしているのではないかと思うこともありましたが、いまは全て自分にとって必要な経験であったと確信しています。回り道は人生を豊かにしてくれる、神様が与えてくださった恵みと言えます。
回り道、と言う言い方をするならば、神様も本当に大きな回り道をされて、わたしたちをお導きになってくださっています。神様はこの世を支配する方法として、ご自身が姿を現して直接統治することもできるはずでしよう。わたしたちに見えるように絶対者として降臨し、わたしたちを従わせる、わたしたちが決して逆らわないようにすることもおできになるはず。ですが、そうはなさいません。わたしたちにこの世界を任せて、自由な意志を与え、自分自身で選ぶことができるようにしてくださっています。わたしたちは弱い存在で、いつも神様に逆らい、反抗し、罪を犯します。しかし、神様はその弱さをよく知っておられ、その弱さすらも愛してくださっています。わたしたちが神を知りながらも、反抗し、逆らっても、優しくなだめ教え、導いてくださいます。そして、そのためにわたしたちにご自分の愛する独り子を贈ってくださりました。
イエス様ご自身も、神の独り子として、完全な姿でこの世に降臨するような現れ方ではなく、マリア様を通して赤子としてお生まれになり、わたしたちと同じように人の手を通して育てられました。そして、イエス様は最高の愛の模範を示しました。受難に身を委ね、ご自身の死と復活を通して、その先にある「永遠のいのち」をもわたしたちに教えてくださいました。今日の福音では、復活されたその体を弟子達に現され、永遠のいのちとはどういうものなのかをお示しになっています。永遠のいのちとは、肉体を離れて、霊的な存在になると言うことではなく、肉体を持って具体的に復活するのだと言うことをイエス様が示してくださいました。触ることのできる肉体、食べることのできる肉体。肉体を持たないような亡霊ではないと断言しています。これは、イエス様が弟子達に、そしてわたしたちに示されている、大きな「永遠のいのち」の「しるし」です。なぜ、このような「しるし」 を与えてくださるのでしょうか。なぜ神様は、直接「永遠のいのち」の在り様を教えてくださらずに、イエス様を通して、しかも痛みと苦しみを伴う、受難と死と復活というややこしい方法をとったのでしょうか。
それはわたしたちには「しるし」が必要だからです。わたしたちは、とても不便で不完全な生き物で、何かに確信を得るためには「しるし」がないと気づくことができません。「永遠のいのち」をただ教えられても、その証拠や、実体験が伴わなければ、それを信じることが出来ません。これは神様の愛を知る場合と一緒です。神様の愛は教えられたからと言って信じられるものでもなく、そこには体験や実感が必要となります。感じるだけでなく、 相手に愛を伝える場合も同じことが言えます。例えば、誰かのことを愛しているならば、わたしたちも必ず何らかの「しるし」を相手に示します。仕草かも知れませんし、言葉かも知れませんが、プレゼントかも知れません、 必ず何かの行動があります。何もしないなら、何も伝わらず、そこには関係性は生まれません。愛には「しるし」 が伴います。愛は感情ではありません。相手が好きとか嫌いとか、そのような言葉を超越する関係性です。愛は具体的な行動を伴います。イエス様はその愛の在り様を、身をもってわたしたちに示してくださいました。そして愛の行いの先にある、永遠のいのちの在り様についても示してくださいました。そして、それを知ったなら、その証人となり、皆にそれを伝えに行けと言われます。
神様が与えてくださった、この希望に満ちあふれた愛と永遠のいのちという福音を、わたしたちが述べ伝えることができるように招かれています。一人ひとりが与えられた場で、自らがイエスの愛と永遠のいのちを証しする「しるし」となることができますように、このミサの中で祈って参りましょう。』

「派遣の祝福」の前に、侍者の子ども達から花束が贈られました。


ミサの後、佐久間神父様を囲んでのささやかな祝賀会を行いました。


高校時代のカト高連での貴重な体験、司祭を志すまでのいきさつや苦労話など、ユーモアを交え、たくさんお話をいただきました。

司祭叙階式の日に配られていた御絵は、伊達カルメル会修道院のシスターの直筆イラストだそうです。