2018年4月10日火曜日

復活節第2主日(神のいつくしみの主日)

この日のミサは4月から司教館事務局長になった佐藤謙一神父が共同司式されました。
これから月に1、2度北一条のミサにお出でになるようです。


「神のいつくしみの主日」のこの日、マリア像の脇祭壇に「いつくしみのイエス」の御絵が置かれました。


受洗、改宗された9名の方が、地区集会に初めて参加され紹介されました。
少しずつでも教会生活に慣れていけるように寄り添っていきましょう。

この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日は、共同司式してくださる佐藤謙一神父様がおられます。ご復活の主日が終わり、この春、司祭の人事異動が発表されていましたが、佐藤神父様はこれまで大麻や江別の教会を主任司祭として、教区事務所とともにがんばっておられました。カトリック・センターが新しく出来上がって、より大きな重責を担って専従として働くことで、大麻と江別の教会を解かれて、教区事務所の仕事に専念することになりました。
  そういうことで、教会との関わりがちょっと薄くなってしまいましたが、今後、協力司祭として他の教会にお手伝いに度々行かれることもあるかと思いますが、そういうときがないときには、私たちの教会でいっしょに御ミサをいっしょに捧げることになりました。月1、2度は私たちと共に祈りをすることが出来るかもしれません。時には、司式してくださったり、説教もしてくださるということなので、私たちは期待し刺激をいただきながら、佐藤神父様とも信仰の歩みを続けることが出来ればと思います。
 いつか(2月18日)、山本孝神父様が黙想会でお出でになった時、神父様の言葉が残っています。教会の責任を解かれるということは、寂しいということを言われていました。信者さんとの直接の関わり、自分の責任において教会での宣教司牧をすることが薄くなてしまう。そういう意味では、寂しいと言われていました。教区の仕事も大きいかもしれませんが、佐藤神父様のそういう思いも出て来るかもしれません。皆さん、どうぞ佐藤神父様への協力も惜しみなくしていきたいと思います。

 さて、今日は復活の第2主日です。皆さんは、かつて、この第2主日がほかの呼び方をしていたのを思い出しますか?伝統的には「白衣の主日」と言われていました。今日の「聖書と典礼」の表紙には「神のいつくしみの主日」と書かれていますが、かつてはここに「白衣の主日」と書かれていました。初代教会の洗礼式からきている伝統的な表現でもありました。昔、新しい信者は復活徹夜祭の中で洗礼を受けました。北一条教会でも先日の復活徹夜祭の中で洗礼式が行われました。かつて、洗礼式は水の中に全身を浸して、頭まで水に沈めるかたちで行われていた、伝統的な習慣があったようです。身体は全身水に浸されますから、水からあがった受洗者には神から与えられる恵み、成聖の恩恵を意味する白衣が着せられた。今はブーケのようなかたちとかベールのようなものに変わっていますが、昔は自らあがるということで白い衣を着せられることがあったようです。パウロが聖書で語っています。「神にかたどってつくられた新しい人を身に着けた。」(エフェソ4:24)そのことを意味して、白い衣が着せられたということがありました。さらに「あなたは新しい人となり、キリストを着る者となりました。神の国の完成を待ち望みながら、キリストに従って歩みなさい。」(復活徹夜祭の典礼)受洗された直後、司祭から洗礼を受けた者はそういう言葉をかけられます。受洗者は新しく生まれた人として一週間その白衣を着ていたことが、昔の伝統として残っていたということです。白衣の主日の名前の由来は、そのような伝統から来ているものでした。

  もうひとつ、白衣の主日から変わって新しい名前がつけられました。それは、今日の聖書と典礼に載っている「神のいつくしみの主日」です。これはまだ、比較的新しい名前です。教皇ヨハネ・パウロ二世が、神の愛のこもった寛容さが輝き出る復活節に神のいつくしみをほめたたえるようにと、18年前の2000年に復活節第2主日は「神のいつくしみの主日」と呼ぶように定められました。神のいつくしみを私たちはもっともっと意識し、大切にしていこうというのが教皇様の考えでした。受洗者の方は今日、そのことを心に留めてミサに与っているかと思います。昔の伝統で言えば1週間白い衣を着て、新しい受洗者の恵みを感謝しながら、1週間経った今日、その白い衣を脱いでミサに与ったということがあったそうです。

 主の復活を祝い1週間が過ぎています。私たちの心にも霊的な春が訪れています。今日のみ言葉の中に、安息日が開けていち早く墓に駆けつけた婦人たちでしたが、また、弟子たちも何人かも墓を確認しに駆けつけています。婦人たちも、弟子たちも墓が空になって遺体が無かった、墓からその遺体が消えていた。その事実にまず驚き戸惑います。そして、悲しみを新たにしました。何度も何度も直接イエスから、「死んで3日がたつと復活する。」と聞いていたにもかかわらず、十分な理解が出来ていなかったために、愛する主であるイエス・キリストが亡くなったというだけで、ただただ、驚き悲しんでいた弟子たち、婦人たちでした。墓から戻って悲しみのなかに、一方では迫害を恐れて最後の晩餐が行われた部屋に鍵をかけ閉じこもりながら、彼らは夕方を迎えました。戸惑いながら、不安とともに鍵を掛けた部屋の中で祈っていました。
  復活したイエスは、そうした彼らの信仰を強めようと思ったのでしょうか、栄光に輝く復活の姿で、彼らの真ん中に現れたと聖書は伝えています。そして、最初に「あなたたちに平安」という言葉をかけられています。弟子たちは悲しみ驚きの中にありながら、その復活した主イエスの姿を見て喜んだと聖書は書いています。見なければ信じることが出来ない、そんな思いもこの表現の中に感じます。イエスが墓から消えたということは復活したのではないか、そういう噂も飛び交っていましたが、復活への確信に至っていなかったために驚き、悲しみが混在していました。でも、そのとき、そのイエスの姿を眺めることで確信に変わります。使徒たちは大きな喜びに満たされます。まさに復活の主は、喜びの泉、祝福の光となって弟子たちの前に姿を現しました。イエスは静かに唇を開いて使徒たちに再び言われました。「あなたたちに平安。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」と、こう話されます。そして、弟子たちに息を吹きかけます。その息は聖霊でした。「聖霊を受けなさい。誰の罪でもあなたがたが罪を赦すなら、その罪は赦される。あなたがたが罪を赦さなければ、誰の罪も赦されないまま残る。」イエスは弟子たちに厳かにこう言われました。罪を赦す権能を弟子たちに与えた場面でもあります。「あなたがたが赦せば、その罪は赦される。」私たちが唱える「主の祈り」の中にもそのことが繰り返されています。主の祈りを度々唱えているけれど、その一言一言の重みを私たちはあまり感じずにオウム返しに唱えてしまことも多いような気もします。赦すことの大切さ、愛することの大切さをいつも噛みしめなければなりません。

  イエスは「聖霊を受けよ。」と言われます。これまであなたは神の子であると宣言し、信仰告白し、あなたのために命を捧げると信仰を表してきた弟子たちでさえ、この時、恐れの中でただ震える信仰でさえありませんでした。私たちもそうではないでしょうか。イエスが十字架で死んでくださったことは百も承知している私たち。そういう話しは何度も何度もしてきました。しかし、私たちの信仰生活の中で、どんな力を感じているでしょうか。イエスの教えられた愛を生きるということにしても、十分にその態度を生きられないことが多いのです。人に奉仕する、仕えるということはどんなに素晴らしいかを十分に知っています。思っています。でも、力となって出てこないものは、行動に繋がっていきません。考えているだけで、行動に表すことの難しさもそこにあるようです。

 聖霊の力により頼むことがないようです。イエスは聖霊を授けて、罪を赦す権能を与えています。聖霊によってもたらされる奇跡、力は罪に弱い霊魂を救う薬であることを、私たちはもっともっと深く理解しなければならないようです。使徒たちも聖霊の力をいただきながら、大きな喜びに包まれています。聖霊の力は様々に私たちに働きかけます。力を呼び戻します。信じるという難しさを感じながらも、綿私たちはその聖霊の力によって、より一歩成長出来るのようです。
 聖書の中でトマスという弟子が登場してきます。トマスも信じることの難しさを生きた一人でした。最初、復活されたとき、トマスはその場にいませんでした。信じるということに比べて、信じないということは易しいかもしれません。でもイエスは弟子たち、私たちに呼びかけます。「信じない者にならないで、信じる者になりさない。」疑いやすい私たちにも言われた言葉ではないでしょうか。
  復活の第2主日。復活してから1週間が経って、主は私たちの中にも現れています。墓を破られた主は希望のない世界に置かれても、そこに閉じ込められるままではなかった。そこから立ち上がって行く者になりなさいというメッセージを持って、復活の主は私たちの前に立っておられます。日常的な生活の中では、私たち一人ひとり悲しみや苦悩の前に負けてしまうことも度々ありますし、うちひしがれることも多くあります。
 でも、私たちはもう一度、復活したキリストを唯一の希望として力強く生きることが出来るよう祈りたいと思います。そのことを今日の福音は私たちに大きな力、メッセージをもたらしてくださっていると思います。』