この日のミサは、佐藤神父様と後藤神父様の共同司式でした。
私たちがイエスに繋がり、そしてイエスが私たちに繋がっていれば、私たちは豊かに実を結び、喜びへと向かうことができます。
この日の佐藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日の福音の中で「互いに愛し合いなさい」と言う言葉が出てきました。実は、先週のミサの中の福音ですが、ぶどうの木のお話しでした。皆さん、よくご存知のところのお話しです。今日はその続きの場面です。今日の福音の11節のところに「これらのことを話したのは」とありますが、これらのこととは先週のぶどうの木のたとえの話しです。イエスがぶどうの木のたとえを話したのは「わたしたちの内に喜びがあり、わたしたちの喜びが満たされる」ためであると、今日の福音で続けられています。人がイエスに繋がっていて、そしてキリストがその人に繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶのだということです。それがわたしたちの喜びであるということです。
先週の福音から今週の福音はずっと繋がっているのですが、先週の福音の中では実は「愛」と言う言葉は出て来ませんでした。「イエスに繋がっていなさい、わたしに繋がっていなさい。」という言葉で終わっていました。イエスと繋がることがまず必要であることを先週は示したわけです。今週はさらに進めて「わたしの愛にとどまりなさい。」と言っています。「それはわたしの掟である。」ということまで言っています。先週は、「わたしはぶどうの木、わたしに繋がっていなさい。」と言われました。この繋がりは十字架でいうと縦の木にあたると思います。今日の福音は「互いに愛し合いなさい。友のために自分の命を捨てるすこと、これ以上に大きな愛はない。」と、あるいは「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」とイエスは言われました。これは十字架の横の木であると考えられます。十字架の縦の木は神と繋がっていることを意味し、十字架の横の木は共同体の中でそれぞれ繋がっていることを意味すると言う神学者もいます。その真ん中にイエスが付けられているということです。イエスは神であって、わたしたちと神の仲介者でもあり、そして同時に共同体の仲介者でもあるとも言えると思います。
イエスは苦しみを受けて十字架に付けられて亡くなりました。十字架に付けられて亡くなったイエスはそれだけでは終わりませんでした。復活して弟子たちに現れ、復活のからだと永遠のいのちというものを示しました。そこにわたしたちの救いと希望というものがあるのだと思います。先週の福音では、わたしに繋がっていれば豊かに実を結ぶと言われました。そして、イエスに繋がることが出来るのだということが分かりました。
次にどうすれば良いかということが今日の福音に書かれています。今日の福音では「わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが実を結んで残るように、わたしの名によって願うものは何でも与えられるように任命したのだ。」と言われました。イエスに繋がることは、わたしたちが選んでいるように見えますが、その決断に至る間にイエスがわたしたちを選んでいるのだということです。選ばれた人間がそのことを喜ぶだけではなく、ほかの人々のために働く使命が与えられているのだというふうに考えてもらいたいと思います。互いに愛し合いなさい-この言葉だけ聴くと、実際、聖書の福音の中にも書かれていますが、掟とか命令とかいう言葉が出て来るので、わたしたちが何か押しつけられているように感じるかもしれません。互いに愛し合いなさい-これはイエスが命令するのだから守るべきものと捉えてはいけないと思います。「わたしがあなたがたを愛したようにと」という言葉がその前についています。イエスが弟子たちを愛したということ、だから互いに愛し合いなさいということです。弟子たちはイエスに選ばれたものとして、周りの人々に対してイエスが行ってきた愛を行っています。今日の第一朗読の中でペトロは、すべての人に神の恵みが注がれていることを知ることが出来て、そして、すべての人のために福音を告げ知らせて行こうと決心しました。イエスの愛を知っていれば、周りの人々に対して、わたしたちはどうしても愛さざるを得ない。どうしてもそうしてしまうのだという気持ちになる。そういうことが必要ではないかと、そのように思われます。
わたしたちをどうしても駆り立てるもの、それがわたしたちが行っている行動に表れていかなければならないと思います。その行動自身はイエスの愛の上になりたっているのだと、これを心に留めていただきたいと思います。わたしたちの根底にイエスの愛があって、それによってわたしたちも互いに愛し合うのだと、そういうことを心に留めておきたいと思います。
イエスが示された究極の愛というものは、わたしたちの罪のために十字架につけられたことです。十字架をわたしたちが仰ぐときはいつも、イエスの愛を振り返る必要があると思います。
そして、イエスが互いに愛し合いなさいという言葉に込められた意味を受けとめ、歩んで行くときに、復活したイエスがいつもわたしたちの傍にいて、支えてくれていると感じることができます。
今日のミサの中でわたしたちも、互いに愛し合いなさい、神の愛であるという言葉、これを心に留めて、それを支えにして歩んで行くことが出来るように、互いに祈って参りましょう。』