今日の福音をとおして、教会共同体とは何か?ということを黙想してみましょう。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『私の目の前にも、私の母、兄弟、姉妹…こういう宣言が素直でいつでも出来れたら良いなと思います。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また、母なのだ。私たち教会共同体がこの言葉を常に胸にひめて、私たちの共同体での交わりも大切に出来たら、どんなに素晴らしいことかと考えてしまいます。
私は今日のみ言葉を少し緊張感を持って耳を傾けています。イエスの熱心さは何かにとりつかれているように、人の目からは異常に見られていたのでしょうか。良く芸能人や人気のスターを追いかける人を「追っかけ」と呼んでいますが、イエスを追っかける人々も異常なほど大勢いたようです。食事をする暇もなかったといいますから、イエスの働きぶりはいかほどであったか、そう考えさせられます。そして、イエスの親類、身内のものが、イエスに対する律法学者たちからの非難や中傷を聞くと、心配のあまり連れ戻すために引き取りに来たと聖書のみ言葉は語っています。
イエスは何故、皆さんから驚きの目をもって見られているのでしょうか。異常であると見られるほどの働きの理由は、いったいどんなものだったでしょうか。私たちはみ言葉の奥深く、心を込めて入っていかなければイエスの真の姿は見えてこないかもしれません。その働きの理由は汚れた霊にとりつかれた病気からの解放、癒し、救いでした。闇から光へと目を開き、サタンの支配から信仰に立ち帰させるために、イエスは救いを求める人に奇跡を行っていたようです。でもイエスのこの熱狂的とさえ言えるような働き、身を捧げる働きに、人々は尋常ではない姿を見ていたようです。救いのために身を粉にして働くイエスは彼への忠告も聞かず、そのイエスの行動を止める者はいなかったようです。そのために最後の最後、イエスの母と兄弟が説得に来たと聖書は語ります。イエスの母、イエスの兄弟、彼らの住まいはナザレでしたから、ナザレから50キロメートル。私たちは50キロメートルをどのように考えるでしょうか。50キロメートル離れたところから自分の身内であるイエスを連れ戻すためにやってくる。一人二人ではないのです。身内の者、親類の者、イエスの母もという表現がとられています。ナザレから50キロメートル離れたカテナウムという町までこぞって身内、親類はイエスを連れ戻すために、身内も親類も真剣であったということが、み言葉から受けとめられます。
そういうみ言葉から見えてくるイエスの働く姿を黙想していると、神のために仕えられるためではなく、仕えるために、そして自分の命を与えるために奉仕しているイエスの姿は浮かびあがってきます。イエスの人々に対する憐れみの心の深さも強さも感じられます。ヨハネの福音の中でも語っていますが、イエスのこの熱心な働きの姿。ヨハネの福音では、盲人を癒したときの言葉ですが、このような表現がありました。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。」(ヨハネ福音9:4 )こういう言葉がありますが、イエスの働く使命というものが伺えます。イエスのこうした働きの姿は、後に弟子たちの姿にも見られます。福音のために奉仕したパウロも周囲の人々から気が狂ったと思われたと言われています。パウロもまたイエスのために身を粉にして働かれたと聖書の他の箇所で見られます。恵まれた生活、健康と体力をいただいて神に働く。尊い働きですが、今、自分に当てはめて省みずにはいられません。私は、そして私たちは恵まれた身体、生活をいただいていながらどのくらい真剣に神のために奉仕できているのでしょうか。
一方、わざわざエルサレムからやって来たと表現されている律法学者たちは、この機会をとらえてイエスの力ある働きを見つめながらも、イエスの働きが悪霊によるものだと非難します。
イエスがとにかく気になってしょうがない律法学者、ファリサイ派の人たち。このイエスの働きに対して悪霊によってそうしている。それは神を冒涜する行為なのだ。こういう非難をし始めます。でもイエスはすぐに反論して明白に彼らに答えました。「どんな罪も赦されるが聖霊に逆らう罪は永遠に赦されない。」どんな罪も赦される、イエスはこう話されました。今日の第一朗読。天地創造によって神の似姿に造られた人間が、原罪という罪を犯す箇所が語られます。蛇はサタンの誘惑、悪の誘いだったと思います。でも、その罪も赦されるということをイエスは語られます。そのことを心に留めると、本当に希望が沸いてきます。私たちもたくさん過ちを犯し続けます。でも赦される。その一言は私たちに大きな希望をもたらすものだと思います。
でも、聖霊に逆らう罪は永遠に赦されない。聖霊に逆らう罪、何故でしょうか。何故、聖霊に対する罪は赦されないと言われるのでしょうか。聖霊の働き、役割についてもう一度思いおこさなければなりません。聖霊は私たちに信仰を語らせます。聖霊の力は私たちを神に向かわせます。その神に向かわさせる聖霊への働きを冒涜する罪は、赦されないとイエスは警告しています。が犯す罪はすべて赦される。この言葉だけ心に留めると本当に私たちはホッとしますが、甘えてばかりはいられないでしょう。軽く考えてもいけないと思います。もっと真剣に神様に向かっていくことが何より大切だと思います。
洗礼によって神の子となり、神の家族の一員となった私たちにとって、忘れてはならない言葉が最後にありました。「神の御心を行う人こそ私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」この言葉はまさに私たちが良く言葉に発している「教会共同体」をも指し示す、そういう言葉だと思います。家族の絆はだれにとっても大切、大事なことですが、霊的家族において、その絆は信仰において結ばれますし、内面的な関係を持っているものです。それは天において消すことの出来ない神との永遠的な関係であることを示しています。
神の御心を行う人こそ私たちの教会共同体の一人、私たちも神の家族の一人である。これは消すことの出来ない永遠のものである。私たちはとかく好き嫌いがあって、なかなか何かうまく話せない人も周りにたくさんいると思います。神の恵みによって導きによって、神の家族の一員であることをもっともっと自覚して、互いに支え合うこと、愛し合うことも大切なものとして、行っていかなければいけないと思います。
イエスは今日も私たちを神へ導き招きます。今日いただく恵みをからだいっぱいに頂いて、
新しい一歩を踏み出すことが出来るように祈り続けましょう。』