2018年6月17日日曜日

年間第11主日 

私たちの心の中に蒔かれた”みことば”の種は、神様が育ててくださいます。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『マルコの福音によるとイエスの宣教はガリラヤから始まっています。
「時は満ち、神の国は近づいた。だから、悔い改めて福音を信じなさい」と言われて、ガリラヤ湖畔に弟子たちを招き、やがて12人の弟子たちと共にガリラヤ地方を巡回して、会堂を中心に宣教する姿が聖書に描かれます。マルコの福音の第1章は既にそのようなイエスの姿が現れています。
イエスの語る話は、これまで聞いたことのない教えであり、人々は驚き、イエスのもとに集まります。そして、神の教えだけではなく病気の人を癒すことでも、イエスの業を見た人々を感動させ、神を賛美する様子を聖書は語っています。イエスの話、ことばはきっとやさしく、心の中にも響く平和なひと時をもたらしていたのではなかったでしょうか。

今日のみ言葉は、神の国を「種をまく人」のたとえで語られるイエスの姿が語られています。そして、種を蒔く人は「神のことば」を種として蒔くのだと話しています。「神のことば」を種として蒔く、それが神の国の話に深くつながっています。当時の人々も神の国に関心を持っていたのだと思います。そして現代に生きる私たちも決して神の国について無関心ではありません。
マルコだけが語るこのたとえ話では、蒔かれた種、神のことばは聞く人の心に入り、根付いて、そして成長します。
この蒔かれた種の話は、とても印象深い記述で展開しています。
蒔かれた種は、特に世話をしなくても人が寝ている間に芽を出して育っていくという表現がされています。肥料や水をやったりしないで、どうして育っていくのか、それを人は知らないと聖書ははっきり述べています。人手によらず実を結び、それはやがて豊かな収穫の時を迎える。それが神の国である。まさに神秘的な話です。私たちが手を下さなくても神の国は訪れると。
蒔かれた種、すなわちみ言葉は、いっぺんに成長するのでないとも話されています。人が気付かないうちに芽を出し、茎が伸び、葉を開き花が咲き、やがて実を結ぶというように段階的に成長していくと述べられます。
種が実り成長を遂げると、収穫の時が訪れますが、その収穫の時というのは、この世の終わりの時でもあるかのような暗示が語られています。

イエスは、今その時が近づいていると話されています。今私たちは2000年の時を経て、聖書の話として耳を傾けていますけれど、直接イエスのことばで語られるならば、どんな心境になるのでしょうか。聞いている人たちは真剣にならざるを得ないでしょう。見過ごすことのできない話として、自分自身のこととして、なおざりにはできない話だ思うのは当然のことではないでしょうか。
続いて話された「からし種」のたとえでは、小さく目に見えないような種であっても、やがて鳥が宿るような大きな枝を張り成長する。イスラエル、ユダヤの国では、3メートル程にも成長するそうです。そういう「からし種」のたとえは、神の国は一つの共同体であるかのようにして話されます。
神に支配される霊的な共同体は、世の終わりには神の支配が世に行き渡るようになる。完成に至る。このような話になっています。

神の国、私たち一人一人はどのように神の国を考えるでしょうか?
時々、神の国の話をすると、どうしても死後の世界にある「天国」というイメージで捉えることがよくあります。神の国は死後の世界、天の国ある。でもよくよく考えてみると、それは狭い偏った天国のイメージに過ぎません。何故なら、イエスがこの世に来られた使命と目的は、神の国を実現するためであるからです。また、神の国は、私たちがこの世で進歩させ、発展させ努力して造り出すこの世の平和な場所、ということでもないということです。「神の国」は、私たちが造り出す世界ではなく、神の支配がおよぶ国といってもいいかもしれません。ですから、神の世界が完成されるように、私たちは今もその努力を続けて神の国の実現のために、協力して働かなければなりません。

イエスの話に耳を傾ける人々は、ふと、神に選ばれた先祖の人たちの信仰を思い浮かべたかもしれません。過去を振り返ると神のことばを信じ約束された国に向かって旅するイスラエルの民でした。でも困難が生じると、神の教えを破って自分たちの立場を優先し、自分たちの判断に従って進もうとした時に、不平不満による分裂が広がっていきました。自分たちが中心になったり、自分の力に過信したりすると、神の国はどんどんと遠ざかっていくかのようです。
神がいつも近くにおられることを忘れてはならない。当時、耳を傾けた人たちもまた、先祖の信仰を思い起こして心にそう感じたことだと思います。イエスはこの地上に神の国をもたらすために来られたのです。そのことを私たちも今一度、心にしっかりと留めておかなければなりません。

神の国、神のみ言葉は、それを聞く人の心の中で育っていきます。神が育ててくださっています。私たちの心の中に蒔かれた種も同様です。
自分が育てるのではなくて、神が育ててくださることを信じるならば、み言葉の種まきにも、私たちは惜しみなく、協力することが出来るのではないでしょうか。神のみ言葉を種として私たちが成長するとき、神のみ言葉、その種は人々の心の中で、神が育てていきます。そのように考えるなら、私たちはもっと惜しみなく、み言葉の宣教に当たれるような気がします。自分の責任だけを強く感じてみ言葉の種まきをするならば、やがて壁にぶち当たるかもしれません。もしかすると傲慢な形で、人との関係を作っていくのかもしれません。神に信頼して種蒔きをすることが、何より大切なことのようです。

今日のみ言葉を黙想しながら、旧約聖書のイザヤ書にも同じような内容が触れられていることが思い出されます。イザヤ書55章の中に、このような記述がありました。
「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」
このようなイザヤ書のことばがあります。「わたしが与えた使命を必ず果たす」
み言葉の種まきによって、神の国は完成に近づいていくのだ。このように旧約のみ言葉の中にありました。

神の国の完成のために共に祈りつつ、私たちは今日もまた主の祭壇に近づきたいと思います。』