2018年6月25日月曜日

6月24日(日)洗礼者聖ヨハネの誕生

イエスが誕生した6ヶ月前の今日、洗礼者ヨハネの誕生をお祝いしました。
主司式は勝谷太治司教でした。


勝谷司教のお説教をご紹介します。


『洗礼者ヨハネの祝日は、洗礼者ヨハネの殉教と誕生を祈願しますが、特にこの誕生の日は 祭日と扱われ、しかも日曜日に優先する祭日になっています。通常、日曜日に優先するのはマリア様とイエス様ご自身のものです。すなわち、ヨハネの誕生、存在というものが、イエス様の救いの営みに深く関わっている。いわばイエス様が誕生されて救いを成し遂げるまで、その生涯のプロローグにあたるもとして、非常に重要な位置を示している。
 しかし、今日の福音書はそうは言っても、主人公は誰であるかと言うと、ヨハネを産んだエリザベトとその父ザカリアの話しになります。ザカリアはエリザベトがこの男の子を宿すという天使のお告げを信じなかった。そのために口がきけなくなったと書かれています。今日の福音書を見ると、「この子に何と名をつけたいか。」と、手振りで尋ねたという記述があることから、ただ口がきけなかったのではなくて、耳も聞こえなくなっていたと推測されます。これは天使のお告げを信じなかったから、その罰としてそうなったのでしょう。わたしはそうは思わないのです。このザカリアという人、今日の福音の前の部分を見ると、エリザベトも含めて二人、非常に敬虔で熱心な掟を守っていたユダヤ教の信者と思われます。すなわち自分たちに与えられた努めを忠実に果たし、律法を守り 敬虔に信仰生活を営んでいた人たちです。
 しかし彼らは自分たちをとおして神がなさろうとする、全く予想谷しなかった出来事、常識では考えられないような、この年老いた女が身ごもるということ、これを受け入れることが出来ない、それを超えたことを考えることが出来なかったわけです。ですから、毎日の生活の中で忠実に熱心に与えられた仕事、決められた掟を守り続けるし、生活を送っていましたが、自分の生活はおろか、身の周りでおこるこの神のこのダイナミックな業に対して、それに気付くことが、それに協力すると言う考えをまったく持ち合わせていなかった。そういうことが言えるわけです。
  この沈黙、耳が聞こえなくなり、話せなくなることが何を意味するのか。今、エリザベトをとおして行われる神の業を、いわゆる周りの常識的な雑念を捨てる中で、ただ沈黙のうちにそれを祈り続けるもの。この男の子が産まれるまでの間の、この沈黙の時間というものは、ザカリアにとっては、自分たちの生活をとおして神の業が実現していくものを深く受けとめる、黙想する期間であっと言えるのではないかなと思います。
 そして、この子が誕生し「ヨハネ」という名を付けたと。実は今日の箇所では省略していますが、聖霊に満たされたザカリアの預言があります。「神を誉め称えよイスラエルの民を/ 神は民を訪れて購い/ わたしたちのために力強い救い主を与えられた」。そのザカリアの預言は世界中の聖職者が毎日朝、聖務日課で唱えている祈りです。自分たちをとおして実現していった神の業、それに対する賛美を高らかに唄っています。
  この出来事は私たちにとって何を意味しているのでしょうか。  私たちと同様にこのミサに与っている人たちは、信仰生活を熱心に、そして社会人としても、人の子の親としても、非常に模範的な生活をしていると思われます。しかし、それは自分の生活というものをしっかり計画を組み立て、忠実に信仰生活を営んでいたとしても、今、ダイナミックに働かれる神の業に対して、開かれた心の目を持ち合わせているかどうか、自分たちに問い合わせなければならないことです。時々、この単調な私たちの生活の中で、まったく予想谷しなかったことが起こり、それについて考えさせられることは良くあります。
 今日の物語は誕生の物語ですが、年老いて私たちが経験することは、両親や配偶者との死別だと思います。さらに長寿社会になっていくならば、場合によっては自分の我が子の死別も体験しなければならない。そのような出来事は避けようのないことです。ですから、何故死んだのかということを問うことは、ある意味、現実にわたしたちは直面しなければならないのです。
「何故、今なのか」ということは常に、私たちの心に湧き上がってくる疑問だと思います。しかし、そこにどういう意味を見出すのか。神がわたしに、何故今わたしにこれを体験させるのか。そして、どこに導こうとされているのか。悲しみや苦しみを受けとめながら、その中にあってもなお神が私たちの人生に介入され、常により良いように導かれていることに信頼し続けていける。何が起こっても、そこにわたしたちは、常に臨機応変に、その神の出来事をとおしてわたしたちに与えられる招きに、応えることが出来るようになっていく。そういうセンス、常に与えられる日を祈り続ける必要があると思います。

  しかし、その死滅のような悲しい出来事だけではありません。歳をとってからまったく違う生き方に召されることがあります。停年退職がそれかもしれませんが、それ以外にも様々なケースが考えられます。
 余談になりますが、昨日、ローマ法王庁は日本時間の午後7時、幸田司教様の退任を承認されました。幸田司教様は東京教区の補佐司教として永年、岡田司教のもとで仕えてきましたが、昨日をもって補佐司教の職を解かれます。司教は司祭と同じで約束で与えられたり、解任されるものではなくて、一生司教のままです。役職は解かれますが、引退司教としての生活を送ることになり、今は 南相馬のベースで復興支援活動にもっぱら取り組んでおられます。今後もそうなると思います。幸田司教様は引退ですが、最近任命された司教様方は皆、高齢ですね。それよりも、これから自分の人生をあとゆっくり、今まで与えられていた役割を果たして、あとは死ぬだけだと思っていたときに、突然、青天の霹靂のように重責を負わされることになります。
 これは、この間任命された司教様方ばかりでなく、わたしたちの人生の中にもそのような出来事は起こりうるものです。その時々にわたしたちがどう応えるのか。今まで生きてきた常識にとらわれるならば、神がなさろうとするこの非常識的なことを受け入れることは出来ない。あるいは、ただそれを傍観しようとする。受け身的な態度を取ってしまいがちですが。しかし、今日のザカリアの態度が示していることは、ザカリア自身もわたしたちと同じと思われますが、この神の強い導きによって、自分をこうして働かれる神の業を深く受けとめる恵みをいただきました。
 わたしたちも、いつどんなときにも、何があろうとも常に神はわたしたちの自立性を見守る、
そして導いてくださっている。ですから、わたしたちの予想を超えた出来事は起こっても、 そこに神様の何らかの意図がある。その人生の意味をわたしたちは見出していくように求められていると思います。わたしたちがとるべきは、人生にどういう意味があるのかと、神様に問うのではなくて、神はこの出来事をとおして、わたしたちにどういう人生の意味を見出すよう求めておられるか。それをわたしたちは、そのように求めるべきではないかと考えています。』