宣教から成功裏のうちに帰ってきた弟子達の様子をみたイエスは、過信に陥らないよう自省する機会を弟子達に与えました。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日の福音は先週に続いて、宣教のことが語られているようです。イエスは宣教に弟子たちを遣わすにあたって、貧しくあるべきだと先週話されています。杖以外はパンも下着も持つことのないように、そんな宣教への送り出し。弟子たちの振る舞いがどうあるべきかということを諭されたようです。そして、二人ずつ組にして宣教に遣わされた。二人ずつというお話しを佐藤神父さんは興味深く話され、神学校時代の思い出話しも語られていましたが。私たちは一人でやれば自由に、自分の思い通りに出来るのではないだろうか。そんなことを考えてしまう人もいるかもしれません。でも、旧約聖書を見ると、そうは教えていないようです。一人ではなく、二人ないし三人というのが、ずっと信仰の中で伝えられてきたようです。また、裁判のような場で証言が採用されるためには、一人の証言ではなく、二人以上の証言が必要であることも聖書は触れています。
現代の教会法の中でもそういう内容が引き続いて決められています。皆さんは結婚式に参列された方がいると思いますが、教会の結婚式では必ず二人の証人が立ち会うことと定められています。ですから、教会での結婚式では新郎新婦の傍に二人の証人がおられる。そういう流れで結婚式が行われます。これもきっと昔から聖書と深い繋がりがあると思っています。
旧約の聖書の中ではいくつかそう言う箇所が示されているようです。ひとつ、そういう内容を紹介しましょう。「コヘレトの書」の中にそれは書かれています。「コヘレトの書」は以前は「伝道の書」と言われていました。その中の4章9~12節で「ひとりよりもふたりの方が良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。更に、ふたりで寝れば暖かいが ひとりでどうして暖まれようか。ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。」こんな内容でコヘレト書に記されています。ひとりよりもふたりで活動するほうの利点について語ります。ですから、私たちが信仰者としてひとりで行動することなく、この教会に集められているのは私たちの弱さを知る、私たちはそれぞれ信仰者としての使命を果たすことが出来るようにと、神様が出してくださる「恵み」と言えるかもしれません。一人ではなく、二人で。二人ではなく三人で。そこに主もおられるという言葉が、聖書で語られているようです。
弟子たちはいぜれにせよ、心強い仲間とともに宣教して、神の国について人々に話し聞かせる福音伝道をしてきました。その働きに手応えを感じ、弟子たちは喜びと感謝に満ちて帰ってきたのではないでしょうか。福音を聞いて感動して、そのまま弟子たちに付いてイエスのところまで来た人々も、多かったに違いありません。今日の聖書の中でも、弟子たちは出入りする人が多くて、食事をする暇もなかった。そんな記述があります。弟子たちも伝道旅行が成功裡に終わって、きっとそのまま弟子たちといっしょにイエスのもとに駆けつけた人も多かった。さらに、イエスの元に遠く近くから人々が集まってきたことも、聖書には書かれています。
私はこの聖書の後半の前半に入って、弟子たちに話すイエスの言葉が一番注目されて黙想しています。弟子たちは感動して、その成功裡に終わった自分たちの仕事を省みながら、イエスに詳しく報告していたと思います。そういう弟子たちの情熱的な報告を聞きながら、イエスは弟子たちに奨めます。しばらく休むが良い。弟子たちの経験はその報告を聞くにつけ、自分たちの成功に有頂天となり、み言葉の力は凄いものだと喜びと感謝で興奮し、心が高揚化し続けていました。きっとイエスは弟子たちのそれを見て、言葉を聞いて、何か感じたようです。このようなときこそ、一番危険である。そんなことをきっと弟子たちの姿をとおして知ったのではないでしょうか。成功に終わったとしても、その過信はサタンが心の中に入ってくる期待ともなり、その危険から逃れる道はただひとつ。それは人を避け、寂しいところへ行って、ひとりで神に向かって自分の心を見つめることだけです。人里離れたところに行ってしばらく休みなさい。自分を振り返りなさい。その働きは確かに弟子たちの努力もあったでしょう。汗を流して福音を説いて人々に受け入れられた時、弟子たちは本当に喜び感謝の気持ちで満たされたと思います。でも、それは弟子たちの力であったでしょうか。神の恵みがそこに働いたということでしょうか。それを取り違えて自分たちの力である。弟子たちの過信にイエスが危険を感じたひとつの出来ごとだったのです。自分自身の力ではないことに気付かなければならない。弟子たちはそのことを意識していたでしょうか。自分自身を見つめることは次の新しい歩み、戦いの準備にもなるはずでした。私たちもそういう危険にさらされていることがあるような気がします。努力が報われ成功するならば誰もが喜びに満たされます。そのことを周りの人に理解してもらいたい、知ってもらうことも自分たちの喜びにもなります。それがある意味、自然かもしれません。
でも私たちはそういう経験を思い出すときに、過信は禁物であると心の中で思い浮かべています。自信に満ち溢れ、自分の力でそれをなし得たことであると決めつけるならば、大きな間違いを犯すかもしれません。イエスは弟子たち一人ひとりに、このような小さな体験を積み重ねながら教え導いていきます。宣教者として、神のみ言葉をのべ伝える弟子として、何が一番大切なのかを教えようとしています。
金曜日(20日)、カルチャーナイトで教会に多くの方が訪れていました。教会の皆さんの奉仕の姿の中にも、訪れる人のために「おもてなし」の心が溢れていたように思います。始まる前に、そういうお話しを皆で確認しました。少しでも訪れる人におもてなしの心が伝わって教会でのひとときが実りあるものになりますように。そんな祈りをしながらカルチャーナイトは始まっていきました。それは私たちが出来るひとつの福音宣教でもあったと私は思っています。きっと教会での訪れと出会いによって、皆さんがどこかで育っていくのではないかと私は信じています。
プログラムが終わって一人の青年が私のところにこられました。きっと、聖堂の案内を聴いた後だと思います。「安息日、主の日」の説明を受けたらしく「日曜は休むということなんですね。」と、私に話されていました。きっと、その青年は「安息日」という言葉を、教会や聖書でどのように話されているか、初めて聞いたのではないかと思います。感心するように私にそのことを話してきました。休むことの大切さに気付かされたかのような話しでした。そういう出会いと経験が教会の中でひとつあったことを嬉しく感じました。
皆さんは一人ひとり出会いの時をもって、それぞれに手応えを感じたり、喜びを感じたりしたと思います。来年はさらに、信徒として一人でも多くの人がこの伝道の喜び、出会いの喜びを体験することを願っています。
もし、飼い主のいない羊がいるとすれば、私たちの手でイエスのもとへ導くことが出来ます。今日の福音をとおしてそのように考えています。私たちの周りには飼い主の見失った羊もおられるかと思います。そういう人が教会に足を運んで何かを見出したい。飼い主である神、イエスと出会ったりすることが出来るのならば、私たちの喜びであると思います。日々の生活をとおして、私たちが小さな福音の勉強が出来ると思います。いつも言います。笑顔のひとつに、挨拶の一言も、福音宣教に繋がるのではないでしょうかと話したことがあります。人の心に慈しみや憐れみや神の恵みが届く瞬間が私たちから伝えられるならば、それは福音の喜びに繋がっていくのだと思います。
新しい一日をまた始めようとしています。私たちの働きが主イエスへと人々を導くことが出来るように。今日も心から祈り、主の祭壇に近づくようにいたしましょう。』