”赦す”ということは、なんと難しいことでしょうか。
赦すことの出来ない弱さを抱え苦しんでいる人をも神は慈しんでくださる、
そのような内容のお説教でした。
この日の主日ミサは、勝谷司教と語学研修で来日中の張 雲喆神父(チャン・ウンチュル師、韓国・大邱大司教区)の共同司式により行われました。
勝谷司教のお説教の大要をご紹介します。
『今日の福音書、いろいろポイントはありますが、やはり「隣人を愛し、敵を憎めと命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」という言葉が私たちに突き刺さってきます。
実は先週、司教総会がありました。その中で話題になったことが二つありました。それはまさに愛するということです。人に強要することは出来ない。特に自分が相手にひどい損害を与えたとき。特に人格的な取り返しのつかない傷を与えたときに、赦してくださいということの難しさです。
二つのことというのはこのハンセン病患者への謝罪が不十分だという指摘を受け、もう一度謝罪しなおすか、いやむしろそれよりも、実際私たちが真剣に謝罪の意向を示すために今後の取り組みの、あるいは今後の啓蒙活動を続けて、実際の活動をとおして理解してもらえることのほうが必要でないか。結局、言葉だけであとは何も変わらないほうが悪いのではないか。実際、今後の取り組みを含めて検討したのがひとつです。その背景には、ここでは説明出来ませんが、難しい問題をたくさん抱えています。気遣いない多くの問題を抱えています。
もう一つは、未成年に対する性的虐待の問題です。これに対しても私たちはただただ謝罪するだけです。その反面見えて来たもう一つの大きな課題は、教会で被害に受けた人たちはほとんどが信者です。信者ですから当然その信仰から、まさに今日の敵を愛することは赦すことの同義語になることです。何とか赦したいと努力して、それも何年も何十年もその苦しみを抱えながら、赦すことの出来ない。いや本人は赦すと言ったとしても心はそうなっていない。多くの場合はフラッシュバックしたときの思い。どうしようもない憎しみがあるいは相手に対する嫌悪感、そういうものは理屈では拭い去ることは出来ないのです。いくらあなたを赦しますと言ったとしても、心と身体がそれを拒否しているのです。ですからそういう人たちに対して、加害者を赦してくださいということはとうてい言えない、難しいことです。この未成年に対する虐待の専門家、クリスチャンの専門家を呼んで話しを聞いたのですが、教会の中で行われることは悪気のない隠蔽工作です。その多くの場合は何十年も前に起こっていることです。あるいは何年も経って子供の時は、何が起こっているのか分からない。それが、大人になって自分が何をされたのか、そのとき自分が感じていたことがフラッシュバックされてくるのです。それを誰にも相談出来ずに教会の誰かに打ち明ける時に、「昔のことだから相手のことを赦しましょう。」「あなたのために一緒に祈りましょう。」「祈りが解決してくれます。」そのような言葉ほど残酷にその人を、二次被害といいますけれど、傷つけることがあるのです。安易にあなたのために祈りましょうとか、ましてや相手を赦すことがクリスチャンの務めですよと言うならば、苦しみの中に追い込むのです。
赦したい、しかし赦せないから苦しむのです。赦さなければならないという思いを抱きながら、赦しなさいと言われると、赦すことの出来ない自分は神の教えに反している。そういう自分を神は受け入れてくれない。更に深い失意と絶望な中に追い込んでしまうことになるのです。私たちはそれに気づかず、安易にそのようなことを言いますが、赦そうとしても赦せない、その人の苦しみに対して安易に教会の掟や奨めを持ち出して、それで簡単に解決しようとする、そういう傾向はとても危険なのです。むしろ私たちは、その赦すことの出来ない、苦しんでいるその人に寄り添って、そういう態度が必要なわけです。
では神様は私たちにいったいどのようなまなざしを向けてくださっているのか。今日の福音書は、敵を愛せよ…これは掟ではない。守らなかったら地獄に落ちるとか、そういうことを指摘されているわけではない。むしろ招きなさい。何故ならば神がそのような方だからで、ある意味での解説になります。神は善人も悪人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。これは悪人に対してという意味もありますが、また今言ったように、敵を愛せよ、愛することの出来ない弱さ。それを抱え込む私たちに対しても、神はそういう私たちを愛し、受け入れてくださっている。この神の広い慈しみの世界に接したときに、初めて私たちは赦すことが出来る存在になるかもしれません。
でもそれは、赦すことが神から愛される条件ではありません。人を赦すことが出来るように苦しんでいる私たちを神は、その私をこそ愛してくださっていることに気づくことが大切です。そして、私たちは人と接するときと同じように、教会の掟や奨めに人を当てはめようとするのではなく、むしろそれを出来ずにいる人たちのために、寄り添っていく。そして、そこに働かれる神の恵みが私たちに本当に感じることが出来るように。それをとおして初めて、その恵みの中で私たちは神が完全であられるように完全な者として、変えさせられる。しかし、徐々に徐々に。
それを信頼しながら私たちは互いに、そういう人たちを含めて、共同体として関わりを見直していく必要があると思っています。』
2020年2月24日月曜日
2020年2月10日月曜日
年間第5主日
この日の福音は、山上の説教の「八つの幸い」に続く箇所が朗読されました。
この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。
『今日の福音は、マタイの福音書にある5つの説教集のうちの最初の説教集の最初のところです。「幸いなる人」と「地の塩、世の光」が最初にくるお話です。この(聖書と典礼)脚注を読んでいて、不思議に思った説明があって、そうかなと思うのですが、イエスの弟子となった人は皆、無学な漁師である。ここに集まった群衆は、いろいろな病気や苦しみに悩む者と書いてありますが、そうなのかなと思います。
確かに最初の弟子の召命は4人。漁師ですが、漁師ばっかりが弟子なのか、みんなが漁師だった 。それと無学というのもちょっと変だなと思います。漁師の子が無学なら、大工の子イエスだって無学ですよ。大工だけが知識があって、漁師は致死がないとは差別です。そしてイエスの回りに集まったのは病人だけで、悩みにある人たちだけだったのか。もしそういう人ばっかりだったら、罪人や徴税人を何故仲間に入れるんだと言っていた人たちは、自分たちを差しおいて同じになるということになりますからね。イエスの回りに集まったのは普通の人たちだったのですね。 その中に変な人たちが入っているのは嫌だ。それでなんであの人たちを仲間に入れるんだと、そういうふうにとらえた方がごく自然。
そういうふうにとらえて見ると、人は無学ではないと思うのです。
何をもって無学というのか。学問がなかったのです。たしかにそうかもしれない。20世紀のなかぐらいまで義務教育は無いわけで、ヨーロッパはそうです。そういう人たちを無学と言ってしまうと、すべての人が無学になってしま。だから普通の人ですし、また 聖書を読んでみると、大工だったイエスが集会に来て指名されて聖書を読まされて、聖書について話しをするわけです。イエスだけが特別だったわけでなくて、そういうシナゴークに来て礼拝する人たちは、指されるかどうか。神父みたい人が指すわけですから、みんなが読めないといけないし、たいてい読んだところは説明することが常識ですから、礼拝に来る人は聖書をある程度読めたし、聖書について感じたことを語れるのです。それを無学と言うのは何をもって言うのか、分からなくなってしまいます。無学というと文盲みたいな表現で誤解をよぶ表現かなと思います。
何故こんなことを言うかというと、山上の垂訓の最初のところで、イエスは回りに集まった人たちを前にして、山に上に登って座って話し始めます。そして、その人たちに向かって、幸いな人たちと呼びかけるのです。あなたたちの中には漁師の人もいるでしょう、苦しんでいる人もいるでしょう。でも幸いな人たちと言うのです。同じようにあなた方は地の塩であり光である。全体の意味がとらえられないと、この後厳しい話しが始まるわけだから、マタイはまずみんなを盛り上げ、おだてあげるのです。イエス様の褒め言葉を差し置いて、厳しい律法の話しを聞かせるわけです。だから回りに集まって来た人たちも普通の人たちだったのです。
どうも聖書の説明は誤解を生みそうな感じがするのです。何でそういう人たちが幸いで、塩味がして輝くのか。そこが問題です。輝きなさい、塩味を持ちなさい。そういうことをしないと幸いでありませんよとか、そういう教えではありませんよ。もう、ここに集まって来ている人たちに向かって、あながたは幸ですよ、塩味があるし輝いていると言ったわけです。何故輝いていたかということです。この福音書を読む人たちも聞く人たちも、 マタイがこう書いたのは 聞く人たちが同じように幸いな人たちですし、塩味があり輝いている。奨めの言葉ではない。呼びかけです。では、何が輝かない人たちとキリストの弟子たちとの違いがあるかというと、ずっと後の方にも出てくるのですが、マタイは少しアレンジしていますが、マルコの方がもっと生々しく。イエスの評判がナザレに伝わった時に、家族が人をやらなければ何かおかしいと、急いでやって来るわけです。そして、あなたの家族が来ています。お母さんも来ているし、親戚も来ている。そのときに私の身内とは誰かというわけです。そこで、自分を取り巻いている人たちにも向かって、この人たちが身内だと言うわけですね。そこでは身内がどうということでなくて、古い民族と新しい民族、新約の民と古い民の違いを語るわけです。天の御父の意思を知って行おうとする人が、自分たちの仲間だと。そこには身分とかは全然なくて神の意思を知って行う、それが新しい民族のアイデンティティなんだと。ですから、そうやって生きていれば、どういう状況にあっても幸いな人たちだし、塩味はしているし輝いている。どうも雀のことのように理解して、あなた方は輝いていない、塩味がしないからそうでなければならないというようみたいにとらえるかもしれないが、そうではない。キリストの弟子たちはみんな、そういう意味ではみんな輝いているのです。
だから、そのことを自覚すると自己疲弊してそうではないと否定する必要はない。もしキリスト者であれば塩味がしているはずだし、輝いているはず。ですから無理して隠すなと言うわけです。輝いているのに升の下に置く人はいないし、せっかく光が灯されているのに升を被せて消してしまう人はいないでしょう。敢えて消す人はいないでしょう。それから寝台の下に光が見えないように隠して見えないようにする人はいないでしょう。光が輝いていると言うことは、部屋を照らすために高いところに置くのです。元々輝いているのです
往々にして道徳的にとらえると、そこまで未熟だからと考えて自己卑下してしまうかもしれないが、そうではなくて、我々のアイデンティティはここにあるということ。我々はこの世界の中で輝いているはずなんだ。信じているから、キリストの弟子だから。そういう意味で自分自身を新たに見直してみる。キリストから見て幸いな人たち、たとえ苦しんでいるかもしれない。犠牲になって虐げられているかもしれない。でも、幸いなんだ。そして、塩味がしているし、そのおかれた場所の中で輝いているんだ。それが私たちなんだ。 キリストのこの言葉を素直に私たちは受け止めて、認めていくことが大切なんだと思います。』
この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。
『今日の福音は、マタイの福音書にある5つの説教集のうちの最初の説教集の最初のところです。「幸いなる人」と「地の塩、世の光」が最初にくるお話です。この(聖書と典礼)脚注を読んでいて、不思議に思った説明があって、そうかなと思うのですが、イエスの弟子となった人は皆、無学な漁師である。ここに集まった群衆は、いろいろな病気や苦しみに悩む者と書いてありますが、そうなのかなと思います。
確かに最初の弟子の召命は4人。漁師ですが、漁師ばっかりが弟子なのか、みんなが漁師だった 。それと無学というのもちょっと変だなと思います。漁師の子が無学なら、大工の子イエスだって無学ですよ。大工だけが知識があって、漁師は致死がないとは差別です。そしてイエスの回りに集まったのは病人だけで、悩みにある人たちだけだったのか。もしそういう人ばっかりだったら、罪人や徴税人を何故仲間に入れるんだと言っていた人たちは、自分たちを差しおいて同じになるということになりますからね。イエスの回りに集まったのは普通の人たちだったのですね。 その中に変な人たちが入っているのは嫌だ。それでなんであの人たちを仲間に入れるんだと、そういうふうにとらえた方がごく自然。
そういうふうにとらえて見ると、人は無学ではないと思うのです。
何をもって無学というのか。学問がなかったのです。たしかにそうかもしれない。20世紀のなかぐらいまで義務教育は無いわけで、ヨーロッパはそうです。そういう人たちを無学と言ってしまうと、すべての人が無学になってしま。だから普通の人ですし、また 聖書を読んでみると、大工だったイエスが集会に来て指名されて聖書を読まされて、聖書について話しをするわけです。イエスだけが特別だったわけでなくて、そういうシナゴークに来て礼拝する人たちは、指されるかどうか。神父みたい人が指すわけですから、みんなが読めないといけないし、たいてい読んだところは説明することが常識ですから、礼拝に来る人は聖書をある程度読めたし、聖書について感じたことを語れるのです。それを無学と言うのは何をもって言うのか、分からなくなってしまいます。無学というと文盲みたいな表現で誤解をよぶ表現かなと思います。
何故こんなことを言うかというと、山上の垂訓の最初のところで、イエスは回りに集まった人たちを前にして、山に上に登って座って話し始めます。そして、その人たちに向かって、幸いな人たちと呼びかけるのです。あなたたちの中には漁師の人もいるでしょう、苦しんでいる人もいるでしょう。でも幸いな人たちと言うのです。同じようにあなた方は地の塩であり光である。全体の意味がとらえられないと、この後厳しい話しが始まるわけだから、マタイはまずみんなを盛り上げ、おだてあげるのです。イエス様の褒め言葉を差し置いて、厳しい律法の話しを聞かせるわけです。だから回りに集まって来た人たちも普通の人たちだったのです。
どうも聖書の説明は誤解を生みそうな感じがするのです。何でそういう人たちが幸いで、塩味がして輝くのか。そこが問題です。輝きなさい、塩味を持ちなさい。そういうことをしないと幸いでありませんよとか、そういう教えではありませんよ。もう、ここに集まって来ている人たちに向かって、あながたは幸ですよ、塩味があるし輝いていると言ったわけです。何故輝いていたかということです。この福音書を読む人たちも聞く人たちも、 マタイがこう書いたのは 聞く人たちが同じように幸いな人たちですし、塩味があり輝いている。奨めの言葉ではない。呼びかけです。では、何が輝かない人たちとキリストの弟子たちとの違いがあるかというと、ずっと後の方にも出てくるのですが、マタイは少しアレンジしていますが、マルコの方がもっと生々しく。イエスの評判がナザレに伝わった時に、家族が人をやらなければ何かおかしいと、急いでやって来るわけです。そして、あなたの家族が来ています。お母さんも来ているし、親戚も来ている。そのときに私の身内とは誰かというわけです。そこで、自分を取り巻いている人たちにも向かって、この人たちが身内だと言うわけですね。そこでは身内がどうということでなくて、古い民族と新しい民族、新約の民と古い民の違いを語るわけです。天の御父の意思を知って行おうとする人が、自分たちの仲間だと。そこには身分とかは全然なくて神の意思を知って行う、それが新しい民族のアイデンティティなんだと。ですから、そうやって生きていれば、どういう状況にあっても幸いな人たちだし、塩味はしているし輝いている。どうも雀のことのように理解して、あなた方は輝いていない、塩味がしないからそうでなければならないというようみたいにとらえるかもしれないが、そうではない。キリストの弟子たちはみんな、そういう意味ではみんな輝いているのです。
だから、そのことを自覚すると自己疲弊してそうではないと否定する必要はない。もしキリスト者であれば塩味がしているはずだし、輝いているはず。ですから無理して隠すなと言うわけです。輝いているのに升の下に置く人はいないし、せっかく光が灯されているのに升を被せて消してしまう人はいないでしょう。敢えて消す人はいないでしょう。それから寝台の下に光が見えないように隠して見えないようにする人はいないでしょう。光が輝いていると言うことは、部屋を照らすために高いところに置くのです。元々輝いているのです
往々にして道徳的にとらえると、そこまで未熟だからと考えて自己卑下してしまうかもしれないが、そうではなくて、我々のアイデンティティはここにあるということ。我々はこの世界の中で輝いているはずなんだ。信じているから、キリストの弟子だから。そういう意味で自分自身を新たに見直してみる。キリストから見て幸いな人たち、たとえ苦しんでいるかもしれない。犠牲になって虐げられているかもしれない。でも、幸いなんだ。そして、塩味がしているし、そのおかれた場所の中で輝いているんだ。それが私たちなんだ。 キリストのこの言葉を素直に私たちは受け止めて、認めていくことが大切なんだと思います。』
2020年2月2日日曜日
主の奉献
キリスト者は、洗礼によって全てを神に任せ自らを奉献しています。
そして新しいいのちに生きるもの、聖霊を受けて復活のいのちに生きるものとされています。
湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。
『ルカは福音書を書くにあたって、旧約の代表的な夫婦であるアブラハムとサラをモデルにして、ザカリアとエリザベトの話から始めていくわけですが、この老夫婦にタイアップするのが今日の朗読箇所に出てくるシメオンとアンナという高齢な二人でした。福音の後半部は読みませんでしたが、このシメオンとアンナ、そしてザカリアとエリザベトの話は、サムエル期におけるサムエル誕生の話と重なって来ることになるわけで、巧妙に構成された内容でいろいろな意味がそこに含まれています。
これほど緻密に作られていながら、学者によるとルカは律法を読み違えているのではないかという指摘があります。二つの事を混同しているというのです。
それは「律法に定められた彼らの”清め”・・・」という箇所の”清め”という規定については、お産をする生んだ母親は汚れているので、男の子が生まれると1週間、女の子の場合は2週間過ぎたら”清め”のために、鳩や羊、牛等を捧げるというものです。
それともう一つ今日の祝日に関係している「初めての男の子を奉献する」という律法の規定は、”清め”とは別な規定であるわけです。奉献といっても実際に殺してしまうとどうにもならないので、何らかの代価で贖われて親の元に戻されるということです。
今日のルカの福音箇所では、”清め”と”奉献”という別々な二つの規定が混同されて扱われているという指摘です。
さて、今日はこの奉献について少し考えてみたいと思います。
創世記の中で、アブラハムはようやく授かったイサクを神に捧げよと言われ、山で捧げようとするわけです。イサク以外に跡継ぎがいないにも関わらず、そのイサクを殺さなければならないという出来事です。いざ殺す段階になったらストップがかかって羊が贖うものとして身代わりになり、長男を殺さなくてすんだわけです。
この出来事もキリストのことと関わってくるわけです。キリストは律法に従って、40日目に奉献され、何らかの代価を払って贖われて家族の元に戻されます。
これはある意味でキリストの十字架と関わってきます。キリストは十字架に架かって自己奉献するのですが、その代わりに神がもう一度、新しい命、復活のいのちを与えて(贖って)くれる。このように奉献をみていくと、キリストの死と復活がそこに見えてきます。
このように、単に律法に従ったというだけではなく、将来のキリストの最後を見るとき、奉献と重なってきます。それが福音として今日の冒頭箇所に凝縮され書き込まれており、私たちは「主の奉献」の祝日を祝うことになるわけです。
確かにイエスは男の子に生まれたことで律法に従い奉献される必要があったと思いますし、律法に忠実であったということをルカは強調して書き留めたかったのでしょうけれど、それだけではなくて、将来のキリストの姿がそこに見える、ということです。
ただ、もともと神の子でありながら、奉献される必要があるのだろうかということを考えると、この奉献ということは、キリストにとって必要というよりは、十字架がそうであったように、我々にとって重要な意味を持っていたと理解することができるわけです。
私たちは洗礼にあたって、基本的に神を信頼する信仰するということがあって洗礼を受けるわけですが、それは自分自身を全面的に神に任せ奉献するということです。
そして、それによって新しいいのち、聖霊を受けて復活のいのちに生きるものとされていきます。私たちの洗礼こそ奉献そのものであるわけです。
現在、奉献生活というと、修道生活のことを指すようになってしまいましたが、そうではありません。
奉献生活というのは信者の生活そのものが奉献生活であり、それがあって初めて修道生活が成り立つわけです。洗礼の奉献がなければ奉献生活というものは有り得ません。
ですから、信徒が奉献されているものであるということが全ての基礎になっており、非常に重要なことです。しかし、あまり皆さん意識しないし、自分が奉献生活をしているとは思っていないようです。シスターやブラザーのことであり、あまり関係ないと思っているかもしれませんが、そうではありません。
もっと、自分が神に奉献され神に買い戻されたもの、新しいいのちに生きるものとされているということを意識していいだろうと思います。もっと自分を奉献されたものとして誇りに思っていいだろうと思います。
その最初として、この新しいキリスト者、新しい神の最初の人として、キリストは自らを子供の時に奉献しました。その完全な奉献は十字架の奉献になるわけですが、その意味で私たちの模範として、主の奉献となったわけです。ですから、この主の奉献の祝日は、キリストの祝日というよりも、キリスト者である私たち一人一人の祝日と言っていいだろうと思います。そして主の奉献を祝う時に、我々自身もキリストと同じように神に捧げられたもの、あるいは自分で捧げたということを、そして、神によって買い戻されたもの、復活のいのちに生きるものとされたことを意識していいのではないかと思いますし、日々意識して生活していいのでないかと思います。
奉献生活を修道者だけに任せるのではなくて、実は自分達なんだということを意識して、生活そのものが神に対する信頼の生活になっていくように努めていくときに、本来の意味での奉献生活になるということを、常に忘れないで意識していっていいのではないかと思います。』
そして新しいいのちに生きるもの、聖霊を受けて復活のいのちに生きるものとされています。
湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。
『ルカは福音書を書くにあたって、旧約の代表的な夫婦であるアブラハムとサラをモデルにして、ザカリアとエリザベトの話から始めていくわけですが、この老夫婦にタイアップするのが今日の朗読箇所に出てくるシメオンとアンナという高齢な二人でした。福音の後半部は読みませんでしたが、このシメオンとアンナ、そしてザカリアとエリザベトの話は、サムエル期におけるサムエル誕生の話と重なって来ることになるわけで、巧妙に構成された内容でいろいろな意味がそこに含まれています。
これほど緻密に作られていながら、学者によるとルカは律法を読み違えているのではないかという指摘があります。二つの事を混同しているというのです。
それは「律法に定められた彼らの”清め”・・・」という箇所の”清め”という規定については、お産をする生んだ母親は汚れているので、男の子が生まれると1週間、女の子の場合は2週間過ぎたら”清め”のために、鳩や羊、牛等を捧げるというものです。
それともう一つ今日の祝日に関係している「初めての男の子を奉献する」という律法の規定は、”清め”とは別な規定であるわけです。奉献といっても実際に殺してしまうとどうにもならないので、何らかの代価で贖われて親の元に戻されるということです。
今日のルカの福音箇所では、”清め”と”奉献”という別々な二つの規定が混同されて扱われているという指摘です。
さて、今日はこの奉献について少し考えてみたいと思います。
創世記の中で、アブラハムはようやく授かったイサクを神に捧げよと言われ、山で捧げようとするわけです。イサク以外に跡継ぎがいないにも関わらず、そのイサクを殺さなければならないという出来事です。いざ殺す段階になったらストップがかかって羊が贖うものとして身代わりになり、長男を殺さなくてすんだわけです。
この出来事もキリストのことと関わってくるわけです。キリストは律法に従って、40日目に奉献され、何らかの代価を払って贖われて家族の元に戻されます。
これはある意味でキリストの十字架と関わってきます。キリストは十字架に架かって自己奉献するのですが、その代わりに神がもう一度、新しい命、復活のいのちを与えて(贖って)くれる。このように奉献をみていくと、キリストの死と復活がそこに見えてきます。
このように、単に律法に従ったというだけではなく、将来のキリストの最後を見るとき、奉献と重なってきます。それが福音として今日の冒頭箇所に凝縮され書き込まれており、私たちは「主の奉献」の祝日を祝うことになるわけです。
確かにイエスは男の子に生まれたことで律法に従い奉献される必要があったと思いますし、律法に忠実であったということをルカは強調して書き留めたかったのでしょうけれど、それだけではなくて、将来のキリストの姿がそこに見える、ということです。
ただ、もともと神の子でありながら、奉献される必要があるのだろうかということを考えると、この奉献ということは、キリストにとって必要というよりは、十字架がそうであったように、我々にとって重要な意味を持っていたと理解することができるわけです。
私たちは洗礼にあたって、基本的に神を信頼する信仰するということがあって洗礼を受けるわけですが、それは自分自身を全面的に神に任せ奉献するということです。
そして、それによって新しいいのち、聖霊を受けて復活のいのちに生きるものとされていきます。私たちの洗礼こそ奉献そのものであるわけです。
現在、奉献生活というと、修道生活のことを指すようになってしまいましたが、そうではありません。
奉献生活というのは信者の生活そのものが奉献生活であり、それがあって初めて修道生活が成り立つわけです。洗礼の奉献がなければ奉献生活というものは有り得ません。
ですから、信徒が奉献されているものであるということが全ての基礎になっており、非常に重要なことです。しかし、あまり皆さん意識しないし、自分が奉献生活をしているとは思っていないようです。シスターやブラザーのことであり、あまり関係ないと思っているかもしれませんが、そうではありません。
もっと、自分が神に奉献され神に買い戻されたもの、新しいいのちに生きるものとされているということを意識していいだろうと思います。もっと自分を奉献されたものとして誇りに思っていいだろうと思います。
その最初として、この新しいキリスト者、新しい神の最初の人として、キリストは自らを子供の時に奉献しました。その完全な奉献は十字架の奉献になるわけですが、その意味で私たちの模範として、主の奉献となったわけです。ですから、この主の奉献の祝日は、キリストの祝日というよりも、キリスト者である私たち一人一人の祝日と言っていいだろうと思います。そして主の奉献を祝う時に、我々自身もキリストと同じように神に捧げられたもの、あるいは自分で捧げたということを、そして、神によって買い戻されたもの、復活のいのちに生きるものとされたことを意識していいのではないかと思いますし、日々意識して生活していいのでないかと思います。
奉献生活を修道者だけに任せるのではなくて、実は自分達なんだということを意識して、生活そのものが神に対する信頼の生活になっていくように努めていくときに、本来の意味での奉献生活になるということを、常に忘れないで意識していっていいのではないかと思います。』
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