2020年2月10日月曜日

年間第5主日

この日の福音は、山上の説教の「八つの幸い」に続く箇所が朗読されました。

この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『今日の福音は、マタイの福音書にある5つの説教集のうちの最初の説教集の最初のところです。「幸いなる人」と「地の塩、世の光」が最初にくるお話です。この(聖書と典礼)脚注を読んでいて、不思議に思った説明があって、そうかなと思うのですが、イエスの弟子となった人は皆、無学な漁師である。ここに集まった群衆は、いろいろな病気や苦しみに悩む者と書いてありますが、そうなのかなと思います。
 確かに最初の弟子の召命は4人。漁師ですが、漁師ばっかりが弟子なのか、みんなが漁師だった 。それと無学というのもちょっと変だなと思います。漁師の子が無学なら、大工の子イエスだって無学ですよ。大工だけが知識があって、漁師は致死がないとは差別です。そしてイエスの回りに集まったのは病人だけで、悩みにある人たちだけだったのか。もしそういう人ばっかりだったら、罪人や徴税人を何故仲間に入れるんだと言っていた人たちは、自分たちを差しおいて同じになるということになりますからね。イエスの回りに集まったのは普通の人たちだったのですね。 その中に変な人たちが入っているのは嫌だ。それでなんであの人たちを仲間に入れるんだと、そういうふうにとらえた方がごく自然。
そういうふうにとらえて見ると、人は無学ではないと思うのです。

 何をもって無学というのか。学問がなかったのです。たしかにそうかもしれない。20世紀のなかぐらいまで義務教育は無いわけで、ヨーロッパはそうです。そういう人たちを無学と言ってしまうと、すべての人が無学になってしま。だから普通の人ですし、また 聖書を読んでみると、大工だったイエスが集会に来て指名されて聖書を読まされて、聖書について話しをするわけです。イエスだけが特別だったわけでなくて、そういうシナゴークに来て礼拝する人たちは、指されるかどうか。神父みたい人が指すわけですから、みんなが読めないといけないし、たいてい読んだところは説明することが常識ですから、礼拝に来る人は聖書をある程度読めたし、聖書について感じたことを語れるのです。それを無学と言うのは何をもって言うのか、分からなくなってしまいます。無学というと文盲みたいな表現で誤解をよぶ表現かなと思います。

 何故こんなことを言うかというと、山上の垂訓の最初のところで、イエスは回りに集まった人たちを前にして、山に上に登って座って話し始めます。そして、その人たちに向かって、幸いな人たちと呼びかけるのです。あなたたちの中には漁師の人もいるでしょう、苦しんでいる人もいるでしょう。でも幸いな人たちと言うのです。同じようにあなた方は地の塩であり光である。全体の意味がとらえられないと、この後厳しい話しが始まるわけだから、マタイはまずみんなを盛り上げ、おだてあげるのです。イエス様の褒め言葉を差し置いて、厳しい律法の話しを聞かせるわけです。だから回りに集まって来た人たちも普通の人たちだったのです。
 どうも聖書の説明は誤解を生みそうな感じがするのです。何でそういう人たちが幸いで、塩味がして輝くのか。そこが問題です。輝きなさい、塩味を持ちなさい。そういうことをしないと幸いでありませんよとか、そういう教えではありませんよ。もう、ここに集まって来ている人たちに向かって、あながたは幸ですよ、塩味があるし輝いていると言ったわけです。何故輝いていたかということです。この福音書を読む人たちも聞く人たちも、  マタイがこう書いたのは 聞く人たちが同じように幸いな人たちですし、塩味があり輝いている。奨めの言葉ではない。呼びかけです。では、何が輝かない人たちとキリストの弟子たちとの違いがあるかというと、ずっと後の方にも出てくるのですが、マタイは少しアレンジしていますが、マルコの方がもっと生々しく。イエスの評判がナザレに伝わった時に、家族が人をやらなければ何かおかしいと、急いでやって来るわけです。そして、あなたの家族が来ています。お母さんも来ているし、親戚も来ている。そのときに私の身内とは誰かというわけです。そこで、自分を取り巻いている人たちにも向かって、この人たちが身内だと言うわけですね。そこでは身内がどうということでなくて、古い民族と新しい民族、新約の民と古い民の違いを語るわけです。天の御父の意思を知って行おうとする人が、自分たちの仲間だと。そこには身分とかは全然なくて神の意思を知って行う、それが新しい民族のアイデンティティなんだと。ですから、そうやって生きていれば、どういう状況にあっても幸いな人たちだし、塩味はしているし輝いている。どうも雀のことのように理解して、あなた方は輝いていない、塩味がしないからそうでなければならないというようみたいにとらえるかもしれないが、そうではない。キリストの弟子たちはみんな、そういう意味ではみんな輝いているのです。 
 だから、そのことを自覚すると自己疲弊してそうではないと否定する必要はない。もしキリスト者であれば塩味がしているはずだし、輝いているはず。ですから無理して隠すなと言うわけです。輝いているのに升の下に置く人はいないし、せっかく光が灯されているのに升を被せて消してしまう人はいないでしょう。敢えて消す人はいないでしょう。それから寝台の下に光が見えないように隠して見えないようにする人はいないでしょう。光が輝いていると言うことは、部屋を照らすために高いところに置くのです。元々輝いているのです

  往々にして道徳的にとらえると、そこまで未熟だからと考えて自己卑下してしまうかもしれないが、そうではなくて、我々のアイデンティティはここにあるということ。我々はこの世界の中で輝いているはずなんだ。信じているから、キリストの弟子だから。そういう意味で自分自身を新たに見直してみる。キリストから見て幸いな人たち、たとえ苦しんでいるかもしれない。犠牲になって虐げられているかもしれない。でも、幸いなんだ。そして、塩味がしているし、そのおかれた場所の中で輝いているんだ。それが私たちなんだ。 キリストのこの言葉を素直に私たちは受け止めて、認めていくことが大切なんだと思います。』