”赦す”ということは、なんと難しいことでしょうか。
赦すことの出来ない弱さを抱え苦しんでいる人をも神は慈しんでくださる、
そのような内容のお説教でした。
この日の主日ミサは、勝谷司教と語学研修で来日中の張 雲喆神父(チャン・ウンチュル師、韓国・大邱大司教区)の共同司式により行われました。
勝谷司教のお説教の大要をご紹介します。
『今日の福音書、いろいろポイントはありますが、やはり「隣人を愛し、敵を憎めと命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」という言葉が私たちに突き刺さってきます。
実は先週、司教総会がありました。その中で話題になったことが二つありました。それはまさに愛するということです。人に強要することは出来ない。特に自分が相手にひどい損害を与えたとき。特に人格的な取り返しのつかない傷を与えたときに、赦してくださいということの難しさです。
二つのことというのはこのハンセン病患者への謝罪が不十分だという指摘を受け、もう一度謝罪しなおすか、いやむしろそれよりも、実際私たちが真剣に謝罪の意向を示すために今後の取り組みの、あるいは今後の啓蒙活動を続けて、実際の活動をとおして理解してもらえることのほうが必要でないか。結局、言葉だけであとは何も変わらないほうが悪いのではないか。実際、今後の取り組みを含めて検討したのがひとつです。その背景には、ここでは説明出来ませんが、難しい問題をたくさん抱えています。気遣いない多くの問題を抱えています。
もう一つは、未成年に対する性的虐待の問題です。これに対しても私たちはただただ謝罪するだけです。その反面見えて来たもう一つの大きな課題は、教会で被害に受けた人たちはほとんどが信者です。信者ですから当然その信仰から、まさに今日の敵を愛することは赦すことの同義語になることです。何とか赦したいと努力して、それも何年も何十年もその苦しみを抱えながら、赦すことの出来ない。いや本人は赦すと言ったとしても心はそうなっていない。多くの場合はフラッシュバックしたときの思い。どうしようもない憎しみがあるいは相手に対する嫌悪感、そういうものは理屈では拭い去ることは出来ないのです。いくらあなたを赦しますと言ったとしても、心と身体がそれを拒否しているのです。ですからそういう人たちに対して、加害者を赦してくださいということはとうてい言えない、難しいことです。この未成年に対する虐待の専門家、クリスチャンの専門家を呼んで話しを聞いたのですが、教会の中で行われることは悪気のない隠蔽工作です。その多くの場合は何十年も前に起こっていることです。あるいは何年も経って子供の時は、何が起こっているのか分からない。それが、大人になって自分が何をされたのか、そのとき自分が感じていたことがフラッシュバックされてくるのです。それを誰にも相談出来ずに教会の誰かに打ち明ける時に、「昔のことだから相手のことを赦しましょう。」「あなたのために一緒に祈りましょう。」「祈りが解決してくれます。」そのような言葉ほど残酷にその人を、二次被害といいますけれど、傷つけることがあるのです。安易にあなたのために祈りましょうとか、ましてや相手を赦すことがクリスチャンの務めですよと言うならば、苦しみの中に追い込むのです。
赦したい、しかし赦せないから苦しむのです。赦さなければならないという思いを抱きながら、赦しなさいと言われると、赦すことの出来ない自分は神の教えに反している。そういう自分を神は受け入れてくれない。更に深い失意と絶望な中に追い込んでしまうことになるのです。私たちはそれに気づかず、安易にそのようなことを言いますが、赦そうとしても赦せない、その人の苦しみに対して安易に教会の掟や奨めを持ち出して、それで簡単に解決しようとする、そういう傾向はとても危険なのです。むしろ私たちは、その赦すことの出来ない、苦しんでいるその人に寄り添って、そういう態度が必要なわけです。
では神様は私たちにいったいどのようなまなざしを向けてくださっているのか。今日の福音書は、敵を愛せよ…これは掟ではない。守らなかったら地獄に落ちるとか、そういうことを指摘されているわけではない。むしろ招きなさい。何故ならば神がそのような方だからで、ある意味での解説になります。神は善人も悪人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。これは悪人に対してという意味もありますが、また今言ったように、敵を愛せよ、愛することの出来ない弱さ。それを抱え込む私たちに対しても、神はそういう私たちを愛し、受け入れてくださっている。この神の広い慈しみの世界に接したときに、初めて私たちは赦すことが出来る存在になるかもしれません。
でもそれは、赦すことが神から愛される条件ではありません。人を赦すことが出来るように苦しんでいる私たちを神は、その私をこそ愛してくださっていることに気づくことが大切です。そして、私たちは人と接するときと同じように、教会の掟や奨めに人を当てはめようとするのではなく、むしろそれを出来ずにいる人たちのために、寄り添っていく。そして、そこに働かれる神の恵みが私たちに本当に感じることが出来るように。それをとおして初めて、その恵みの中で私たちは神が完全であられるように完全な者として、変えさせられる。しかし、徐々に徐々に。
それを信頼しながら私たちは互いに、そういう人たちを含めて、共同体として関わりを見直していく必要があると思っています。』