2020年2月2日日曜日

主の奉献

キリスト者は、洗礼によって全てを神に任せ自らを奉献しています。
そして新しいいのちに生きるもの、聖霊を受けて復活のいのちに生きるものとされています。


湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『ルカは福音書を書くにあたって、旧約の代表的な夫婦であるアブラハムとサラをモデルにして、ザカリアとエリザベトの話から始めていくわけですが、この老夫婦にタイアップするのが今日の朗読箇所に出てくるシメオンとアンナという高齢な二人でした。福音の後半部は読みませんでしたが、このシメオンとアンナ、そしてザカリアとエリザベトの話は、サムエル期におけるサムエル誕生の話と重なって来ることになるわけで、巧妙に構成された内容でいろいろな意味がそこに含まれています。
これほど緻密に作られていながら、学者によるとルカは律法を読み違えているのではないかという指摘があります。二つの事を混同しているというのです。
それは「律法に定められた彼らの”清め”・・・」という箇所の”清め”という規定については、お産をする生んだ母親は汚れているので、男の子が生まれると1週間、女の子の場合は2週間過ぎたら”清め”のために、鳩や羊、牛等を捧げるというものです。
それともう一つ今日の祝日に関係している「初めての男の子を奉献する」という律法の規定は、”清め”とは別な規定であるわけです。奉献といっても実際に殺してしまうとどうにもならないので、何らかの代価で贖われて親の元に戻されるということです。
今日のルカの福音箇所では、”清め”と”奉献”という別々な二つの規定が混同されて扱われているという指摘です。

さて、今日はこの奉献について少し考えてみたいと思います。
創世記の中で、アブラハムはようやく授かったイサクを神に捧げよと言われ、山で捧げようとするわけです。イサク以外に跡継ぎがいないにも関わらず、そのイサクを殺さなければならないという出来事です。いざ殺す段階になったらストップがかかって羊が贖うものとして身代わりになり、長男を殺さなくてすんだわけです。
この出来事もキリストのことと関わってくるわけです。キリストは律法に従って、40日目に奉献され、何らかの代価を払って贖われて家族の元に戻されます。
これはある意味でキリストの十字架と関わってきます。キリストは十字架に架かって自己奉献するのですが、その代わりに神がもう一度、新しい命、復活のいのちを与えて(贖って)くれる。このように奉献をみていくと、キリストの死と復活がそこに見えてきます。
このように、単に律法に従ったというだけではなく、将来のキリストの最後を見るとき、奉献と重なってきます。それが福音として今日の冒頭箇所に凝縮され書き込まれており、私たちは「主の奉献」の祝日を祝うことになるわけです。
確かにイエスは男の子に生まれたことで律法に従い奉献される必要があったと思いますし、律法に忠実であったということをルカは強調して書き留めたかったのでしょうけれど、それだけではなくて、将来のキリストの姿がそこに見える、ということです。
ただ、もともと神の子でありながら、奉献される必要があるのだろうかということを考えると、この奉献ということは、キリストにとって必要というよりは、十字架がそうであったように、我々にとって重要な意味を持っていたと理解することができるわけです。

私たちは洗礼にあたって、基本的に神を信頼する信仰するということがあって洗礼を受けるわけですが、それは自分自身を全面的に神に任せ奉献するということです。
そして、それによって新しいいのち、聖霊を受けて復活のいのちに生きるものとされていきます。私たちの洗礼こそ奉献そのものであるわけです。

現在、奉献生活というと、修道生活のことを指すようになってしまいましたが、そうではありません。
奉献生活というのは信者の生活そのものが奉献生活であり、それがあって初めて修道生活が成り立つわけです。洗礼の奉献がなければ奉献生活というものは有り得ません。
ですから、信徒が奉献されているものであるということが全ての基礎になっており、非常に重要なことです。しかし、あまり皆さん意識しないし、自分が奉献生活をしているとは思っていないようです。シスターやブラザーのことであり、あまり関係ないと思っているかもしれませんが、そうではありません。
もっと、自分が神に奉献され神に買い戻されたもの、新しいいのちに生きるものとされているということを意識していいだろうと思います。もっと自分を奉献されたものとして誇りに思っていいだろうと思います。
その最初として、この新しいキリスト者、新しい神の最初の人として、キリストは自らを子供の時に奉献しました。その完全な奉献は十字架の奉献になるわけですが、その意味で私たちの模範として、主の奉献となったわけです。ですから、この主の奉献の祝日は、キリストの祝日というよりも、キリスト者である私たち一人一人の祝日と言っていいだろうと思います。そして主の奉献を祝う時に、我々自身もキリストと同じように神に捧げられたもの、あるいは自分で捧げたということを、そして、神によって買い戻されたもの、復活のいのちに生きるものとされたことを意識していいのではないかと思いますし、日々意識して生活していいのでないかと思います。
奉献生活を修道者だけに任せるのではなくて、実は自分達なんだということを意識して、生活そのものが神に対する信頼の生活になっていくように努めていくときに、本来の意味での奉献生活になるということを、常に忘れないで意識していっていいのではないかと思います。』