「悔い改めよ。天の国は近づいた」
すべての人に対してキリストは召命を呼びかけられました。
この日の司式は湯澤神父様でした。
お説教の大要をご紹介します。
『今日のマタイ福音書は、イエスの宣教活動の始まりの時です。今日の朗読箇所に選ばれた後半の半分は省略しても(読まなくても)良いという印がついていますので、省略しようと思ったのですが、省略するとあまり意味が分からなくなる。
イエスの宣教の最初のきっかけは「悔い改めよ。天の国は近づいた」という呼びかけです。マルコによる福音書ですとこの後に、事実の宣言と同時に「福音を信ずるように」という言葉が続きますが、(両者は)同じです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」というこの言葉は、洗礼者ヨハネが言っていた言葉と同じです。それではこの意味合いが同じかと言うと、少し違っていると思います。天の国は近づいたという「国」βασιλεία(バシレイア)という言葉は支配という意味合いで、テリトリー (territory)という感覚はないのです。ここからここまでという、国境線があってその国境線が近づいて来たということではなくて、それぞれの人たち、あるいはその世界に対する神の支配が強まってきたというふうに、理解したほうが良いです。ひとり一人の心の中に神が支配するようになってきた。そういう時代が来たわけだから、神の方に心を向けなさいという呼びかけなのです。
それに付随して4人の人たちを呼び寄せたという出来事。元々のマルコの福音書も宣教活動の最初にこの4人の弟子たちを呼ぶのです。マルコの福音書の前半の対象はすべてのに向けられた話しです。後半のエリコ、カイザリアからエルサレムに向かう旅は、弟子たちへ向けられた説教、言葉です。一般的にすべての人に向けられた言葉、一番最初のところはこのことです。つまり、弟子たちばかりではなくすべての人に対してキリストは呼びかけた。その中から、4人の人を選んだのです。往々にしてこの4人の人を選ぶ、呼んだことを、司祭とか修道者の召命に限定して理解する傾向がありますが、そうではないのです。すべての人に対しての召命、呼びかけです。「すべての人に対する召命」と前提にしないと司祭とか修道者の召命はあり得ない。すべての人がキリストからこのように弟子になるように呼びかけられている。これが基礎になって初めてほかのすべての召命が意味をもってくることになるのです。
まず、キリストの召命、あるいは神の召命、呼びかけ、それに対する応えていく召命というのは、まずキリストを信ずる者の召命です。せまく理解する必要は全然ないのです。それは教会の歴史がそれを狭めてしまった。召命の祈りというと、聖職者や修道者の召命の祈りしかしない。間違いです。召命はすべてのキリスト者に向けられている。すべてのキリスト者が呼びかけに応えて共同体をつくるように呼ばれた、集まって来たということです。この呼ばれて応えた人の中でキリストの活動はそれを土台として始まります。ですから宣教にしても何にしても、そういう背景がないとキリストの個人的なプレーで終わってしまうのです。そうではない。常にこの共同体、呼ばれた信徒、あるいは弟子たちの集まりがあって、その中でキリストの活動があるわけです。そのことを踏まえたときに、私たちは召命という問題を自分の人たちに制限することは必要ないし、自分たちのこととしてまず考えないといけないのです。私たちはひとり一人、このペトロと同じように呼びかけられている、私について来なさい。人を漁どる漁師にしよう。それに応えて集まってきたのがキリスト者、全部のキリスト教だった。そういうふうにしないと、そのほかの召命は意味がない。
そういう意味で私たちは召命を自分ものとして取り戻さなければならない。司教様はいつも言っている「信徒中心の教会」ですが、召命は信徒のもの。司祭とか修道者のものではない。まず自分たちが信徒中心の教会をつくるとしたら、この召命を自分のものとして取り戻さなければならない。私たちはそのように呼ばれたのです。それに応えたのです。
応えた以上は、応え続ける状態にあるということ。つまり責任があるのです。レスポンシブル(responsible)を分解すると応えられるresponseと出来るableという合成語ですから、責任というのは応えられる。キリストの呼びかけに応えられるようになっている人たちがキリスト教です。キリスト教徒の責任はそこにあるのです。
そして何のために呼ばれたかというと、人を漁る漁師。キリストの福音を伝えるために呼ばれている。ひとり一人が福音を伝えるために呼ばれている。そういう意味で私たちは
何百年の間、召命を司祭とか修道者に制限して自分たちのものではないと。それは信徒のものを取り上げた司祭、修道者が悪いのでしょうが。だから、自分のものとして取り戻さなければならない。信徒はひとり一人、それに応えられる責任、能力を取り戻さなければならない。どう応えられるかというと、人を漁る宣教、権利。それを取り戻す。大変のようですが自分たちの権利です。キリスト教徒の権利として、もう一度この召命、そして使命を(英語では両方ミッションmissionと言う。)取り戻していかなければならない。
マタイやマルコの福音書では、キリストの宣教を最初に置いたのです。非常に意味のあることです。特殊な人のためではないのです。そういう意味で私たちは、召命とその使命
を取り戻して、それに生きるようにしていかなければならないし、その自覚を持つ必要があると思います。』