2020年1月13日月曜日

1月12日(日)主の洗礼

神の子であるキリストは、なぜわざわざ洗礼を受ける必要があったのでしょうか?


この日の森田神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日の洗礼をもって公生活が始まります。イスラエルの人々にメシアが来たことが初めて知らされて、人々はメシアの到来を聖霊と洗礼者ヨハネの証によって知るようになります。ある人々は今日のところを疑問に思って「何故、わざわざイエス様は洗礼を受けられたのだろうか?」。洗礼者ヨハネが行っていたのが悔い改めの洗礼ですね。「イエス様は悔い改める必要も清められる必要もないのに、パフォーマンスだったのでしょうか?」というような意味ありの質問でした。昔からこのような質問があって、最近では言われませんが、伝統的に聖人たちやむかしの聖なる学者たちはこう考えていました。「イエス様は洗礼の水を清めるために洗礼を受けられた。」と言うことです。イエス様が清められるのではなくて、将来洗礼に使われるであろうすべての水を清めるつもりで洗礼を受けられたという解釈があって、けっこう教会の典礼の中では繰り返し言わているのです。聞いたことがあるかどうか分かりませんが、その答えを聞いて質問する人は納得していました。
  洗礼者ヨハネは自分こそ洗礼を受けるべきだと、これは本当に正しいことだったのですが、イエス様の答えは「正しいことをすべて行うのは我々に相応しいことです。」と、ちょっと不思議な答えでした。洗礼者ヨハネの考えこそ正しいのではないかということにイエス様は「正しいことすべてを行うのは相応しいことです。」とおっしゃいました。
 神様のおっしゃる正しさと私たちが言う正しさとはだいぶ違います。私たちの世界では正しさや 正義は人によって違うのです。正しさを主張しぶつかったり戦争したりします。対立した方からの正しさというものがあります。そして、日本人が主張する正しさと韓国人が主張する正しさは違って争う。トランプ大統領の言う正しさだけあって、アフリカの人が支援することもあるのです。私たちの世界では正しさというものが違って、それぞれに正しいと思っているのですが、それが争いを引き起こすことがおうおうにあります。
  イエス様がおっしゃる正しさは、洗礼を受ける必要がなかったのに、ある意味で自分自身は全人類の代表の方ですね。ここに罪をすべて押し込めて、十字架に磔にして人類の罪の赦しをもたらす。こういうおつもりがありました。ですから、こういう広い意義も含めた正しさであって、よくよく考えたら本当に素晴らしいことだと思います。正しさ、正義のみを見ていると、罪ある人間の罪を罰するのも正しさのひとつとなっています。
罪を罰し、良いことを褒める。報いを与える。これが一般的に言う正しさであり、法律の正しさであり、私たちみんなそれを正しいと思うのです。         
 しかし、神様の正しさは愛に満ちた正しさ。そして人間の犯したすべての罪を、裁くべきところですが、だからといってすべてチャラのしてしまうということもしない。正義が保たれなければ秩序が壊れていきます。そこで、御ひとり子を人としてお生まれさして、全人類の代表です。神の子であり、真のまったき人である。私たちと変わらない人となる。
そして彼がすべての罪を背負って十字架に架かってくださった。それによって罪の償いという人類の果たすべきことが、イエス様において果たされる。正義が満たされ、それによって神様は人類を自分の子、神の子として愛することができる。親となることができた。
  罰すべき正義の中に自らの自己犠牲というものが入って人類を愛した。これは神の正しさであって、私たちの考える超える正しさであって、私たちはこういう神様の正しさを学びながら、あるいは自分自身の身に置き換えながら、この世の中で神様の正しさというものを実現しなければ、今後それぞれの人が自分がもっとも正しい、これで良いだろう。善意で主張することによって争いが起こるのを止められなくなってしまう。
  もう一方、神様からの視点にたって、それぞれの正しさを満たすために、誰かが間に入り和解の使者、仲介をする使者、自己犠牲をする使者、主イエスに倣う使者によって和解がもたらされる。これが聖書の思想なのです。イエス様がご自分の身体によって敵対する者を和解させられた。そこをおっしゃっているわけです。

 そう言いますと今日の洗礼は、これから生け贄に捧げようとしている自分の身体をまず清める。そういう意味合いも入っているかもしれません。そしてイエス様は私たちが正しいと思うところをはるかに超えて、普通ならばメッセージを神の教えを天から響かせれば良かったのです。あるいは必要に応じて現れて神の教えを説けば良い。それでも十分だったと分かりませんが。しかし、イエス様は女性からお生まれになったのです。赤ちゃんの時から人であられた。そして、公生活の前、隠れた謎の30年間。漁師となり,漁師に育てられたり、いろいろな苦しい体験をしながら、そこから苦しみながらいろいろなことを悟っていく。成長していく、成熟していく。そういう私たちがたどる全く同じ人生を30年辿られていったのですね。神の子だからすべてを免除されて、すべてを始めから悟っていたわけでなくて、同じようにすべてにおいて私たちと同じであった。罪以外は。聖書が述べています.

  そのようにして私たちは、イエス様が私たちと辿った人生とまったく同じ経験をしてこられた。その中で苦しみを共にしてこらえながら神の国を実現されていったと、思うときに、凄い親しさを感じるわけです。私たちの人生もすべてが尊い。成人となった大人が尊いのみならず、イエス様が赤ちゃんとなり、幼児となり、そのすべての時代が尊く意味がある。祝福されたものになっています。イエス様の秘密の30年間の中に、本当に人間のすべてを祝福しよう。そういう意味があるのではないかと思います。
 そして、死刑囚になったのです。冤罪です。冤罪で死刑になっていった。冤罪となった人たちとまったく同じ立場になり、そして国家により死刑に宣告されてしまった。つまり、行政(司法)によって有罪にくだされた人になってしまった。十字架の上では「御父よ、何故私をお見捨てになったのですか。」と失望の叫びです。見捨てられたようなところまで享有してくださった。ですから自分は見捨てられたと思う人たちと同じ立場になられた。
そこまで降りていかれたと思います。
 お生まれになった時から貧しいところに生まれ、ヘロデ王から命を狙われて難民になっていったのです。そのように単に人間になったのみならず、そのもっとも社会の隅々、片隅のところにまで光が届く。冤罪の人にも、絶望する人にもイエス様の光が届いていく。
そういう意味があったのではないかと思うのです。
 そう考えた時に、イエス様のおっしゃる正しさというのは、本当に愛に満ちた正しさであって、私たちひとり一人が考えたり、主張したりする正しさを超えて、正しさの極致、
誠実と誠実が最高に至る姿勢という生き方をつらぬかれました。ですからイエス様の言葉というものは様々な思いやりと正義と愛に満たされた言葉が語られます。語る口調は素晴らしい口調。イエス様のまなざしも、すべてそういった思いに満たされたまなざしになっていく!その一挙手一投足、しぐさ、そういうものがすべて満たされた人になっていったと思われます。神様はそういうイエス様を見て、今まで旧約聖書でだれにもおっしゃったことのない天からの声を語られます。「これは私の愛する子。私の心に適うもの。」本当にそのような方だったのだと強く思います。

  今日は正しいことをすべて行う、正しいことの意味。洗礼者ヨハネの正しさを超えて、私たちが一般に考える正しさを超えて、愛のある正しさ。敵対する者を和解させる正しさ。罰せられるべき者が救われる者になれる行動する正しさ。そういうものであることを学びます。私たちも神様の正しさ、人となられた神様の正しさ。すべての人の隅々にまでいきわたる、常にご自身の人生をそれに捧げられた。そういう正しさから学んで、私たちも社会で、本当に正しさというものを追い求めたいと思います。』