湯澤神父様からいただきました主日メッセージ「福音の一言」をご紹介します。
2020年9月27日日曜日
年間第26主日
2020年9月19日土曜日
年間第25主日
松村神父様から「敬老の日」の祝福をいただきました。
この日の「福音のメッセージ」と併せてご紹介します。
【敬老の日の祝福メッセージ 松村神父様】
「敬老の日」を迎えるにあたり、今日ミサに来ている方々をとおして、全ての皆さんを祝福したいと思います。
若い時代は、物事を自分に身に付けるために、勉強したり、いろいろな技術を身に付けたりと一生懸命頑張ります。そして中堅になってくると今度は、身に付けたものをどのように良い質で提供できるか、たくさん受けた愛を今度は人々にもたらす為に、家族や職場や友人たちに対して良い愛を伝えようと切磋琢磨するわけです。高齢になると、今度はどんどんいろいろなものが削ぎ落とされていき、いろいろな支障がおき、出来ることも出来なくなっていくということは当然あります。しかし、それは今まで身に付けた事が出来なくなったことであって、核になる部分が無くなったわけではありません。
先日、病者訪問に行ったときにお話ししたことですが、このことは「竹の成長」に例えられるかもしれません。竹の子は土から芽を出すと、どんどん大きなり、外側は固くなり、やがて天高く伸びていきます。竹はそれで終わりかというとそうではなく、切られた後、中にある節や空洞があることで、人々に豊かなものを提供してくれます。私も子供の頃に水鉄砲を作ったり、流しソーメンをしたりしました。それは竹細工のように表面だけの良さではなく、中にも素晴らしい使い方が残っているということでしょうか。
私たちは竹のように、いらなくなったものが削ぎ落とされて無くなっていくように思えるけれども、最後に残った空洞の中にある素晴らしさ、実はこれが高齢の方々の一つの使命なのかなと思います。
日本は2030年には超高齢化社会を迎えようとしています。そして教会も同様です。そんな中、これからの社会はますます高齢の方々の働きが重要になってくるのではないかと思います。もちろんそこには、教会に来られなくなるという悲しさもあります。
先ほどもお話したように「見える形でしか見えない教会」ではなく、教会に来られない、来ていない方々の中にある信仰というものを、私たちは大事にしていかなければなりません。
マタイによる福音書 20章1~16節
松村繁彦
今日の福音はなんと理不尽な話だろうか?と誰もが叫ぶ聖書の話ではあります。しかしそんな話がなぜ堂々と聖書に、ましてや福音(喜びの知らせ)として描かれているのかを考えれば、私たちに伝えようとしていることが見えてきます。皆さんが今日の福音を自分にとっての喜びの知らせとして受け取るには、ある固定概念を捨て去らない限り理解できないことでしょう。その固定概念とは“一般(社会常識)”と“嫉妬と妬み”です。もちろん常識を否定するつもりはありませんし、人と比べることが悪いことでもありませんが、私たちはあまりにもそれに縛られすぎていることもあるでしょう。私たちは社会の中で生きる者として常識を持たなければ「皆と共に歩む」ことは出来ませんが、そこに潜む人の弱さとして、人と比べて優位に立つことで安心したいという誘惑にかられます。それは比較が正しい評価ではなく自己満足な評価に陥ってしまいます。
ぶどう園に送る雇用者は労働の量や質や成果で評価はしていないというのが今日のメッセージなのでしょう。それは雇用者と労働者の間だけで行われる信頼された契約に基づくもので、二人の間にある深い絆を示しています。一人一人意欲も違えば目的も違い、背負っている課題も違えば能力も違いますが、朝にも昼にも夕方にも人を見つけては“①近寄り”声をかけ、“②ふさわしい対価”を約束し、“③行きなさい”と派遣します。ふさわしいというのは他の者との比較に基づく“正当性”ではなく雇用者による望みの“義”であり、雇用者の権威によって労働の場へ“送り出し”をします。これは一人一人弟子が選ばれる召命の物語として捉えると、私たちが選ばれた理由が見えてきます。神に選ばれた喜び、「あなたを!」と名指しされて派遣されている喜びを、至らなく限界のある自分に目を留められたことに、感謝と自信と雇用主への誇りをもって人生を歩んでいきたいものです。
聖母マリアの賛歌にある「目を留めてくださった(ルカ1:48)」という喜びの言葉を思い起こしましょう。嫉妬や妬みに陥る時に、先週の“赦しの指導”を思い起こしましょう。
この一週間が皆さんにとって前向きなものとなりますように。場は離れていたとしても心を一つにして共に歩んでまいりましょう。
2020年9月12日土曜日
年間第24主日メッセージ
年間第24主日のテーマは「ゆるし」です。
レイ神父様から届きました主日メッセージをご紹介します。
『赦しは善きことです
憎みや憤りは、熱心に善い行いをしようとしても、それを食べてしまう心の癌です。厳しい正義を掲げても難問題の解決には充分ではありません。相手の目を取っても、己の失った目を直すことにはならず、そして復讐は憤りを本当に解決することにはならないからです。しかし、赦しはそれを得、保つのは困難な徳です。今日、ペテロがイエスにたずねた中でその問題を感じ取ることができます。「何回赦すべきでしょうか?」イエスがいわれた「七回」は「人間らしく可能な限りたくさん赦す」というおおよそ象徴的な赦しの意味に使われていますが、イエスはまださらに先まで行くようにすすめます。なぜなら神は「七十七倍」(或は七の七十倍)赦されるからです。赦しとは単に頻度とか回数ではなく、むしろそれは神の終わることのない赦しの気持ちを映すのです。神の赦しには限界はありません。
今日の第一朗読で描かれているように(シラ書27章30節ー28章7節)神の寛大さを忘れるのはたやすいことです。正に私たち自身の死の現実にさえ、行動規範としての神の慈悲深い約束について各自は用心深くしていません。自分勝手な交わりでお互いを苦しめる傷の内に神の寛大さを見ることはたやすくありません。パウロは今日私たちに言います。私たちは互いに作用し合い、影響し合う。しかしそれは善き事のためです。(ロマ書14章7-9節)
今日のたとえ話からわかることは、神から受けとった赦しを最初に正しく認識しなければ、私たちは赦すことは出来ません。次の3つの場面を思い起こしてください。
1)神の寛大さの口座において、私たちは支払い不能、負債があり、借り越しをしております。神は生命、自由、規範、希望をふんだんに私たちにお与えになりました。私たち自身の資産では何も成し遂げることはできません。私たちは何一つ持っていません。「私がいなければ、あなた方は何事もできない。」
2)私たちは己の重要性にふんぞり返っています。「私に借りを返しなさい!」不寛容、自分本位、許しがたい、そして横柄であるかもしれません。隣人を傷つけ、その人も私たちを傷つけるでしょう。人生を乱暴に押し分けて生きることもあります。いとも簡単に恨み、赦さないかもしれません。
3)「神の寛大さ」という究極の事実は決して単純なものではありません。神は盲目ではありません。不寛容は赦され得ません。赦しは私たちが赦されているということを認識したときにのみ訪れます。赦しの中で私たちは赦されます。他人に抱く浅薄な思いは、憎悪の柄を握って進むのではなく、穏やかな赦しの内に速やかに消滅させるべきです。そうすることで初めて方程式が理解できます。破産状態では請求は出来ないと。
それでは、心から赦しましょう。もし自分の訴訟が棄却されて法廷を去り、そして赦すことをしないなら、次に起こることは、直ちに私たち自身が罪を問われ法廷に戻るはめになるということです。(アイルランドカトリック中央協議会より引用)
Pax et Bonum 平和と善き事を』
Pardoning is good for us
Hatred and resentment are moral cancers that eat away at our enthusiasm to do good. An appeal to strict justice is not enough to solve the dilemma, since taking out another’s eye does not really cure the loss of one’s own eye, and revenge cannot really settle the account of a grievance.
But forgiveness is a hard virtue to gain and to maintain. We can feel the problem in the question Peter asks of Jesus today: “How many times must I forgive?” And although his proposal of “seven times” is used as a round symbolic willingness to forgive “as much as it is humanly possible to forgive,” Jesus suggest we must go further still, since God forgives “seventy seven times” (or seventy times seven times.) Forgiveness is not a question of just how often or how many times, rather it reflects God’s unending willingness to pardon. There are no limits to his forgiveness.
It is so easy to forget God’s goodness, as our first reading illustrates today. (Eccl 27:30-28:7) Even the stark reality of our own death does not keep each of us alert to God’s gracious promise of salvation as the guiding principal of our actions. It is not easy to see the goodness of God in the hurt we inflict on each other in our selfish interactions. Paul tells us today that we do influence each other. We affect each other. But is it for the good (Rom 14:7-9.)
Our parable today shows that we are incapable of forgiving without first appreciating the forgiveness we have received from God. Notice the three scenes:
(1) We are insolvent, indebted, overdrawn in our account with God’s goodness. God has given us
freely life, freedom, integrity and hope. We are incapable of achieving anything by our own resources- we have none! “Without me you can do nothing.”
(2) We are puffed-up with our own importance: “Pay me what you owe me!” We can be intolerant, demanding, inexcusable and arrogant. We can be unkind and unforgiving. We can injure our neighbour, and he can hurt us. We can elbow our way roughly through life. We can so easily hold a grudge, and refuse to forgive.
(3) The ultimate reality “God’s goodness” is never simple-minded. God is not blind. The unforgiving cannot be forgiven. Forgiveness only comes from realising that we have been forgiven. In pardoning we are pardoned. Our tenuous hold on others must quickly be consumed not by following our hatred to the hilt, but by pardoning in gentle forgiveness. Only so can we realise the equation: Insolvency cannot make demands!
And so let us forgive from our hearts, for if we leave the court with our own suit dismissed, and fail to forgive, then we find ourselves immediately rearranged and in the dock as the guilty accused![Association of catholic priests.ie]
Pax et Bonum
2020年9月6日日曜日
年間第23主日 福音への一言
湯澤神父様から、9月6日年間第23主日メッセージ「福音への一言」をいただきましたので、ご紹介します。