2020年9月19日土曜日

年間第25主日

松村神父様から「敬老の日」の祝福をいただきました。

この日の「福音のメッセージ」と併せてご紹介します。

【敬老の日の祝福メッセージ 松村神父様】

「敬老の日」を迎えるにあたり、今日ミサに来ている方々をとおして、全ての皆さんを祝福したいと思います。

 若い時代は、物事を自分に身に付けるために、勉強したり、いろいろな技術を身に付けたりと一生懸命頑張ります。そして中堅になってくると今度は、身に付けたものをどのように良い質で提供できるか、たくさん受けた愛を今度は人々にもたらす為に、家族や職場や友人たちに対して良い愛を伝えようと切磋琢磨するわけです。高齢になると、今度はどんどんいろいろなものが削ぎ落とされていき、いろいろな支障がおき、出来ることも出来なくなっていくということは当然あります。しかし、それは今まで身に付けた事が出来なくなったことであって、核になる部分が無くなったわけではありません。

 先日、病者訪問に行ったときにお話ししたことですが、このことは「竹の成長」に例えられるかもしれません。竹の子は土から芽を出すと、どんどん大きなり、外側は固くなり、やがて天高く伸びていきます。竹はそれで終わりかというとそうではなく、切られた後、中にある節や空洞があることで、人々に豊かなものを提供してくれます。私も子供の頃に水鉄砲を作ったり、流しソーメンをしたりしました。それは竹細工のように表面だけの良さではなく、中にも素晴らしい使い方が残っているということでしょうか。

 私たちは竹のように、いらなくなったものが削ぎ落とされて無くなっていくように思えるけれども、最後に残った空洞の中にある素晴らしさ、実はこれが高齢の方々の一つの使命なのかなと思います。

 日本は2030年には超高齢化社会を迎えようとしています。そして教会も同様です。そんな中、これからの社会はますます高齢の方々の働きが重要になってくるのではないかと思います。もちろんそこには、教会に来られなくなるという悲しさもあります。

 先ほどもお話したように「見える形でしか見えない教会」ではなく、教会に来られない、来ていない方々の中にある信仰というものを、私たちは大事にしていかなければなりません。


【福音のメッセージ】


マタイによる福音書 20章1~16節

松村繁彦

今日の福音はなんと理不尽な話だろうか?と誰もが叫ぶ聖書の話ではあります。しかしそんな話がなぜ堂々と聖書に、ましてや福音(喜びの知らせ)として描かれているのかを考えれば、私たちに伝えようとしていることが見えてきます。皆さんが今日の福音を自分にとっての喜びの知らせとして受け取るには、ある固定概念を捨て去らない限り理解できないことでしょう。その固定概念とは“一般(社会常識)”と“嫉妬と妬み”です。もちろん常識を否定するつもりはありませんし、人と比べることが悪いことでもありませんが、私たちはあまりにもそれに縛られすぎていることもあるでしょう。私たちは社会の中で生きる者として常識を持たなければ「皆と共に歩む」ことは出来ませんが、そこに潜む人の弱さとして、人と比べて優位に立つことで安心したいという誘惑にかられます。それは比較が正しい評価ではなく自己満足な評価に陥ってしまいます。

ぶどう園に送る雇用者は労働の量や質や成果で評価はしていないというのが今日のメッセージなのでしょう。それは雇用者と労働者の間だけで行われる信頼された契約に基づくもので、二人の間にある深い絆を示しています。一人一人意欲も違えば目的も違い、背負っている課題も違えば能力も違いますが、朝にも昼にも夕方にも人を見つけては“①近寄り”声をかけ、“②ふさわしい対価”を約束し、“③行きなさい”と派遣します。ふさわしいというのは他の者との比較に基づく“正当性”ではなく雇用者による望みの“義”であり、雇用者の権威によって労働の場へ“送り出し”をします。これは一人一人弟子が選ばれる召命の物語として捉えると、私たちが選ばれた理由が見えてきます。神に選ばれた喜び、「あなたを!」と名指しされて派遣されている喜びを、至らなく限界のある自分に目を留められたことに、感謝と自信と雇用主への誇りをもって人生を歩んでいきたいものです。

聖母マリアの賛歌にある「目を留めてくださった(ルカ1:48)」という喜びの言葉を思い起こしましょう。嫉妬や妬みに陥る時に、先週の“赦しの指導”を思い起こしましょう。

この一週間が皆さんにとって前向きなものとなりますように。場は離れていたとしても心を一つにして共に歩んでまいりましょう。