2021年3月27日土曜日

受難の主日

今日から聖週間です。

勝谷司教様の司式により「受難の主日」ミサが行われました。

残念ながらコロナ禍のため信者全員による枝を持っての聖堂への入場は割愛されました。

 



湯澤神父様から、3月28日 「受難の主日」にあたって福音への一言をいただきましたので、聖書朗読箇所と併せて紹介します。


【福音への一言 湯澤神父様】

2021年3月28日 受難の主日

(マルコ、11章1~10節、15章1~30節)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

聖週間に入る今日は、マルコの福音書から二つの個所が朗読されます。一つはエルサレム入城の場面、もう一つは受難の場面です。この二つの場面には、ガリラヤからエリコへ向かう旅でイエス様が教えたこと、つまり、本当のメシアの姿と彼に従う弟子の在り方が要約されています。マルコは、『列王記』や『ゼカリアの預言』など、旧約聖書の多くの書物を駆使しながら描いていますので、かなりドラマチックになっていますが、それだけに殺されて行く王といういわば「大いなる逆説」が浮き彫りにされます。

イエス様の教えは、三重になっており、メシアの受難と弟子の在り方という形で、一段ずつ詳しく説明されていきます。第一段目では、イエス様は、自分のように「己を捨て御父の使命に生きるメシア」(Mc.8.34)に従う在り方を求めています。第二段目では、弟子たちが世の終わりに君臨すると信じているメシアの本当の姿は、むしろ「一番後の者」「仕える者」(Mc.9.35)だと教え、イエス様はこのあり方を弟子にも求めました(Mc.9.37)。第三段目で、イエス様は、メシアの本当の姿とは、「僕」「奴隷」「購いとして自分の命を与える者」(Mc.10.43-45)だと教え、それを受け入れられるか(イエス様が飲む杯を飲み、洗礼を受けられるか)と弟子に問いかけます(Mc.10.38)。

ロバに乗り、歓呼の内にエルサレムに入城するイエス様は、あたかも即位式のためにラバに乗って歓呼の叫びの内にエルサレムに入城した『列王記』のソロモン王のようですが、多くの人の「贖い」として、十字架の上で「ユダヤ人の王」の名の下で殺害されるのです。これによって、イエス様は、「ユダヤ人の王」の名のもとの「最低の者」「仕える者」「僕」「奴隷」「贖い」「身代金」「人質」こそが本当のメシア、キリストの姿であることを示したのです。私たちは今日、二か所の福音を聞きながら、まさにこの「大いなる逆説」を思い描くのです。

今日の二つの福音を通して、イエス様は、「私が受ける杯を飲むことができるか」と問いかけています。私たちは、ヤコブやヨハネのように(Mc.10.39)、洗礼の時に「はい」と答えたはずです。そして、私たちは、エリコで目が見えるようにしていただいた盲人のように(Mc.10.52)、王として入城し、十字架の上で亡くなられたイエス様のこの「大いなる逆説」を生きようと、イエス様に同行してきたはずです。

毎年繰り返される聖土曜日の典礼の中で、私たちは信仰宣言をもって「洗礼の約束の更新」をします。その時、司祭はこう祈ります。「神の恵みによって、私たちがいつまでも主イエス・キリストに留まることができますように」。これは、あの「大いなる逆説」を生きようとしながらイエス様に同行できるようにと願う、私たちの祈りです。このことを心に留めながら、今日から始まる聖なる一週間を過ごしましょう。     湯澤民夫



【聖書朗読箇所】

全能永遠の神よ、
  あなたは人類にへりくだりを教えるために、救い主が人となり、
  十字架をになうようにお定めになりました。
  わたしたちが、主とともに苦しみを耐えることによって、
  復活の喜びをともにすることができますように。
   集会祈願より


第1朗読 イザヤ書 50章4~7節

主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え
疲れた人を励ますように言葉を呼び覚ましてくださる。

朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし
弟子として聞き従うようにしてくださる。
主なる神はわたしの耳を開かれた。
わたしは逆らわず、退かなかった。

打とうとする者には背中をまかせ
ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。

主なる神が助けてくださるからわたしはそれを嘲りとは思わない。
わたしは顔を硬い石のようにする。
わたしは知っているわたしが辱められることはない、と。


第2朗読 フィリピの信徒への手紙 2章6~11節

キリストは、神の身分でありながら、
神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、
人間と同じ者になられました。

人間の姿で現れ、
へりくだって、死に至るまで、
それも十字架の死に至るまで従順でした。

このため、神はキリストを高く上げ、
あらゆる名にまさる名をお与えになりました。

こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、
イエスの御名にひざまずき、
すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、
父である神をたたえるのです。


福音朗読 マルコによる福音書 14章1~15章47節

さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。
彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。

イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。 この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。
イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。
貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。
はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。
彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。

除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。
その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』
すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。
一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」
弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。
人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。
しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。
イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。

一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、
彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。
誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。
再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。
イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。
イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。
ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。
人々は、イエスに手をかけて捕らえた。
居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。
そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。
わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」
弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、
亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。

人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。
ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。
祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。
多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである。
すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。
「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」
しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。
そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」
しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。 イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、 天の雲に囲まれて来るのを見る。」
大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。
諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。
それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った。

ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、
ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」
しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。
女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。 ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」
すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。
するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。

・・・*・・・*・・・*・・・*・・・*・・・

夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。
ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。
そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。
ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」
しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。

ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。
さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。
群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。
そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。
祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。
祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。
そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。
群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」
ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。
ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。
そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、
「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。
また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。
このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。

そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。
そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。
没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。
それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、/その服を分け合った、 だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。
イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。
罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。
(†底本に節が欠落 異本訳)こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。
そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、
十字架から降りて自分を救ってみろ。」
同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。
メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。
ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。
しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。
この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。

既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、
アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。
ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。
そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。
ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。
マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。

2021年3月24日水曜日

札幌教区 終身助祭叙階式および朗読奉仕者選任式

 3月24日(水)午後2時  札幌カテドラル カトリック北一条教会において、勝谷司教様の司式により、札幌教区 終身助祭叙階式および朗読奉仕者選任式が執り行われました。

非公開のため、約20名の司祭と、家族、修道者、教会信徒など50名程が参加しました。

おめでとうございます。

  • 終身助祭叙階者 ジョルジュ 桶田 達也 氏(当教会出身)
  • 朗読奉仕者選任者 ペトロ 千葉 充 神学生

桶田助祭は、小野幌・江別・大麻教会の担当助祭として赴任されることが決まりました。




叙階式での勝谷司教様のお説教をご紹介します。

『勝谷司教説教(終身助祭に向けて)

 札幌教区の信者の皆さん、そしてご親族・友人の皆さん、桶田さんは間もなく助祭団に加えられます。彼がどのような奉仕の務めを行うために叙階されるのかを共に考えてみましょう。

 叙階を受ける者は聖霊のたまものに強められ、神のことばと祭壇に奉仕し、愛のわざに励み、すべての人に仕えて、司教とその司祭団を助けます。また、祭壇に奉仕する者となって福音を告げ知らせ、ささげものを準備し、主の御からだと御血を信者に授けます。さらに、助祭の奉仕職には、司教から命じられたことに従って、信者にも信者でない人にもよい勧めを与え、聖なる教えを伝え、祈りを司式し、洗礼を授け、結婚に立ち会って祝福を与え、死に臨む人にキリストの聖なる糧を授け、葬儀を司式します。助祭は、使徒たちから伝えられた按手によって聖別され、祭壇にいっそう固く結ばれて、司教あるいは主任司祭の名によって、愛のわざに奉仕する者になります。したがって、このすべての務めを神の助けによって果たし、仕えられるためではなく仕えるために来られたキリストのまことの弟子であることを示すものが助祭なのです。 

 ところで、助祭に叙階される桶田達也さん、これらの奉仕の務めに対してどのように行動したらよいかを身をもって主は示してくださいました。助祭は弟子たちの中で、仕える者となられたイエス・キリストの役務者ですから、心から神のみ旨を行い、主に仕えるように、人々にも愛と喜びをもって仕えてください。だれも二人の主人に仕えることはできません。ですから、あらゆる汚れと貪欲は、偶像に仕えることであると考えてください。

 あなたは、かつて使徒たちによって愛のわざに奉仕する者として選ばれた人々のように、人望があつく、聖霊と知恵に満たされた者でなければなりません。信仰に根ざし、これを土台にして、キリストの役務者、神の秘義を人々にもたらす者にふさわしく、神と人々の前で汚れのない者、非の打ちどころのない者として自らを示してください。また、福音の告げる希望から目をそらさないでください。あなたは、福音を聞くだけではなく、福音に奉仕しなければならないのです。清い心で信仰の秘義を保ち、口でのベ伝える神のことばを行いで示してください。こうして聖霊によって生かされるキリストの民は、神のみ旨にかなう清いささげものとなり、あなたも終わりの日に主を迎えて、「忠実な良いしもべだ。よくやった。主人と一緒に喜んでくれ」という主のことばを聞くことができるでしょう。』

2021年3月20日土曜日

四旬節第5主日

 松村神父様からいただきました四旬節第5主日の福音メッセージを、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。                                                                                                           




【福音メッセージ 松村神父様】

小さな子どもたちには一般的な話として次のように伝える。

皆さんが健やかに、そして元気に育つために、お父さんは一緒に遊んで体力を養ったり、社会の出来事を教えてくれたり、賢く生きるために伝承をいろいろと伝えてくれる。お母さんは肌のぬくもりのすばらしさで癒しを現し、美味しい食事を通して体の仕組みを伝えてくれる。“家族は生きた小さな学校です”と。もちろん現代ではその立場や役割は変わることもあるが、家族は小さな学校である事に間違いはない。大前提として子どもが要求する以前に親はまず子どもにいろいろなことを伝え、与える。これに順応しない子どもは怒られるが、上手に対応する子どもは褒められる。家族に対する子どもの反省や喜びはここに示され、生き方、育ち方に大きな変化がおきる。平和に、喜びをもって活き活きと生きるとはどういうことかが育てられる。

これは神とイスラエルの民との契約の仕組みと一緒である。出エジプト記において神が民を導き、それに従い、シナイ山で契約を受け、その契約に従うならば祝福があり、そうでなければ呪いが来る。この契約を神が破ることはなく、いつも民から破る。その結果が旧約聖書の随所に描かれている。

神そのものでるイエスご自身は十字架上の死をもって、御父に向けて私たちのために神へ救いを求める生贄として、御父との契約を再度結び直す。自己奉献により契約の申請を行った。神はそのイエスの行いによって聖霊を送り私たちに救いの道を与えられた。御父は既に律法は与えられていたにもかかわらず、イエスをこの地上に送り、そのあり方を示したがイエスさらに救いを求め、イエスの十字架の死を見る者には平和と喜び、活き活きと生きるための霊を送るように求め、それらを通して救いの道を示された。何重にも重ねられた神の愛がそこにはあり、そのしつこさと執念に改めて自分の愛の足りなさを感じる。イエスの歩みには愛と赦しをとおして自己奉献の生き方が示され、私たちの歩み方にくさびを打ったのだ。ついつい不満が漏れる私たちの生活ではあるが、愛と赦しと自己奉献を徹底的に行うと、人を生かす生き方へと変えられ、“認める”行為によって人は愛を受けていることに気づかされる。子どもがどのようにすると喜び自信を持って歩むか?を考えてみる単純さの中に、私たちの信仰の歩み方も見えてくる。このことを自分の生活に振り返ることも回心の一つであろう。

神は私たちといつも契約を結び、互いに守りたがっている神。このことは難しく感じるが、私はこの契約である律法を生きることとは単純に“他者を肯定”し、“応援する”ということなのだろうと捉える。それは天地創造の時に、神は創造するたびに『神はそれを見て、よしとされた』からである。



【聖書朗読箇所】

父である神よ、

  ひとり子イエスはあなたへの愛と従順を貫き、

  すべての人の救いのために、すすんで受難の道を歩まれました。

  わたしたちも、あたなたに対する信頼をもって、

  恐れることなく主の道を歩むことができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 エレミア書 31章31~34節


見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と

新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。

この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取って

エジプトの地から導き出したときに結んだものではない。

わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、

彼らはこの契約を破った、と主は言われる。


しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と

結ぶ契約はこれである、と主は言われる。

すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、

彼らの心にそれを記す。

わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、

「主を知れ」と言って教えることはない。

彼らはすべて、小さい者も大きい者も

わたしを知るからである、と主は言われる。

わたしは彼らの悪を赦(ゆる)し、再び彼らの罪に心を留めることはない。



第2朗読 ヘブライ人への手紙 5章7~9節


キリストは、肉において生きておられたとき、

激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、

御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、

その畏(おそ)れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。


キリストは御子であるにもかかわらず、

多くの苦しみによって従順を学ばれました。

そして、完全な者となられたので、

御自分に従順であるすべての人々に対して、

永遠の救いの源となりました。



福音朗読 ヨハネによる福音書 12章20~33節


さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た

人々の中に、何人かのギリシア人がいた。

彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、

「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。

フィリポは行ってアンデレに話し、

アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。


イエスはこうお答えになった。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。

だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

自分の命を愛する者は、それを失うが、

この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、

わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。

わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」


「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。

『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。

しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。

父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。

「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」


そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、

ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。

イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、

わたしのためではなく、あなたがたのためだ。

今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。

わたしは地上から上げられるとき、

すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、

こう言われたのである。

2021年3月13日土曜日

四旬節第4主日

 ウルバン神父様からいただきました3月14日 四旬節第4主日の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。


【四旬節第4主日 福音メッセージ from ウルバン神父様】



四旬節 第4日曜日                       3月14日


暗い夜のことでした。

夜になってエルサレムの町は静かになりました。ある人は何回も振り向きながら町の道を密かにまた急いで歩きました。人に見られるのを恐れていました。その夜ナザレのイエスがどこで泊まっているかを知っていました。あの方の弟子は公に、堂々と友と歩いているのに、人の目をおそれるこの弱虫の私を受け入れてくれるでしょうかと、心配しながらその家に近づきました。もう一回心配そうに振り向きながらドアをノクしました。このような私を軽蔑するでしょうか。イエスを見た時、イエスの顔に軽蔑とか嫌がりの様子は全くありませんでした。かえってあの方は戸惑うことなしに、暖かい心で友のようにニコデモを受け入れられました。

これはイエスの驚くべき姿です。その時でも、今でも、人を退けることをしません。どんな生活の状態であっても、どんな暗闇から主を探そうとしても、どんな重荷を背負っても、いつも手を広げて受け入れます。

ニコデモはイエスの寛大さに感動しました。どこでも大群衆に尊ばれるこの方は、今の夜遅くまで私一人に、暗い夜に来た私に、こんなに時間を尽くしていただけるのは信じられないことでしょう。彼は不思議そうな目でイエスを見つめて、深く感動しながら、その言葉を聞いていました。

 “人の子は裁くために遣わされたのではなく、救うために来ました、一人も滅びないように、永遠の命を得させるためである”。ニコデモは心から安心して喜んでいました。“悪を行うものはみな明るみに出るのを恐れるが、真理を行うものは光のほうに来る”と。イエスの言葉が一つ一つ心の中に流れ込みながら、ニコデモの心は温まりました。“私もいつか光に出られるでしょうか。やはり光に出たい”と心の中で考えを抱きながらイエスと別れて、暗い夜に消えてしまいました。

何か月後のことでした。イエスは何回も転びながら最後の力を絞ってゴルゴタの丘を登った。周りに立っている人々はイエスをあざ笑って罵った。群衆の中に一人の男が立っていました。事の流れを見て、心を痛みながらイエスの最後の言葉を聞いていました。“私は乾く”、“父よ、彼らを許してください”。“エリ、エリ、レマ サバクタニ、わが神よ、わが神よ、なぜ私を見捨てたのか”。“父よ、あなたの手に私の霊を委ねます”。最後に兵隊の幹部の言葉:“まことに、この方は神の子でした”と心の中に響いていました“。太陽の力が消えて地震が起こった時、人々は恐れて消えた。

その時、“彼は光に出ました”。イエスの体を降ろすために彼は十字架にはしごをかけて、人の見える前ではしごを登りました。弟子たちがみな遠くまで逃げた時、ニコデモはイエスの血だらけな体を自分の腕にもって抱きました。 

ウルバン神父 



【聖書朗読箇所】


聖なる父よ、

  あなたは御子の苦しみと死によって、

  ゆるしの恵みをもたらしてくださいました。

  キリストを信じる人々が、信仰と愛に満たされ、

  主の過越(すぎこし)を迎えることができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 歴代誌下 36章14~16, 19~23節


祭司長たちのすべても 民と共に諸国の民の

あらゆる忌むべき行いに倣って罪に罪を重ね、

主が聖別されたエルサレムの神殿を汚した。

先祖の神、主は御自分の民と御住まいを憐(あわ)れみ、

繰り返し御使いを彼らに遣わされたが、

彼らは神の御使いを嘲(あざ)笑い、

その言葉を蔑(さげす)み、預言者を愚弄した。

それゆえ、ついにその民に向かって主の怒りが燃え上がり、

もはや手の施(ほどこ)しようがなくなった。


神殿には火が放たれ、エルサレムの城壁は崩され、

宮殿はすべて灰燼(かいじん)に帰し、

貴重な品々はことごとく破壊された。

剣を免れて生き残った者は捕らえられ、バビロンに連れ去られた。

彼らはペルシアの王国に覇権(はけん)が移るまで、

バビロンの王とその王子たちの僕(しもべ)となった。

こうして主がエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し、

この地はついに安息を取り戻した。

その荒廃の全期間を通じて地は安息を得、七十年の年月が満ちた。


ペルシアの王キュロスの第一年のことである。

主はかつてエレミヤの口を通して約束されたことを成就するため、

ペルシアの王キュロスの心を動かされた。

キュロスは文書にも記して、国中に次のような布告を行き渡らせた。

「ペルシアの王キュロスはこう言う。

天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜(たまわ)った。

この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることを

わたしに命じられた。

あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、上って行くがよい。

神なる主がその者と共にいてくださるように。」



第2朗読 エフェソの信徒への手紙 2章4~10節

憐(あわ)れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、

その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちを

キリストと共に生かし、― あなたがたの救われたのは恵みによるのです ―

キリスト・イエスによって共に復活させ、

共に天の王座に着かせてくださいました。


こうして、神は、キリスト・イエスにおいて

わたしたちにお示しになった慈しみにより、

その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。

事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。

このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。

行いによるのではありません。

それは、だれも誇ることがないためなのです。


なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、

しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、

キリスト・イエスにおいて造られたからです。

わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。



福音朗読 ヨハネによる福音書 3章14~21節


<イエスは言われた。>

そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、

人の子も上げられねばならない。

それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。


神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

神が御子(みこ)を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、

御子によって世が救われるためである。

御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。

神の独り子の名を信じていないからである。


光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、

光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。

悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、

光の方に来ないからである。

しかし、真理を行う者は光の方に来る。

その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」


2021年3月6日土曜日

四旬節第3主日

 3月7日(日)四旬節第3主日 レイ神父様の福音メッセージを、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。(英語版も掲載しています)




【福音メッセージ レイ神父様】

ヨハネによる福音書 2章13-25

 この福音書の話を聞いた人は誰もが少し驚いてしまうと思います。イエスが鞭を持ち人々を怒りを含んだ声と絶望感で追い出した話など聞いたことがありません。イエスらしくありません。私たちが大いに期待する辛抱強くやさしく憐れみ深い人が、突然自制心を失ったかに見えるからです。他に考えられることはありますか?いえ、ないのです。あなたたちは見過ごしたかもしれませんがイエスはある理由を語ります。

 初めて神殿に上った少年イエスのことを覚えていますか?父母と一緒でしたが神殿に心を奪われてしまい、そこに留まったのです。両親は帰って行きましたが、イエスがいないことに気がつき、走り戻ってきました。そこで見たのは、イエスが年上の人たちと質問したり答えたりしながら座っている姿でした。

 私たちの教会において神殿の意味にこれ以上のものはありません。それは神のシェキナーと呼ばれたもので、そこはこの世における神の最高の居場所、神の住む最も神聖な場所であり、神に礼拝がなされる大切な場所でした。多くの苦しみ、砂漠や辛い状況をくぐり抜けてきた一群の人々が最後にたどり着いた小さな選ばれし土地。そこに神殿、美しい神殿が建てられ、神のシェキナーが栄光のうちにきらめき、はるか遠くから訪れたすべての参拝者はこの世で神の最高の居場所である素晴らしい神殿を見たのです。

 さて成人となったイエスはその神殿に入り、そこで何が起こっていたのかを目撃します。そこで商売がされ人々は貧欲に金儲けをしています。何のために?父なる神のシェキナーのために?「父の、父の家を家畜市場にしてはダメだ!」イエスはこんなのは決してされるべきではないと大声で訴える少年です。怒りでほとんど許すことができません。そこで鞭を手に人々を蹴散らします。もちろんこの人たちだけが追い出されるべきではなく、そこを仕切っていた人々が問題なのです。これを許可していた祭司長たちが分っているべきだったのです。場所をわきまえず金儲けをしようとしていた欲深い小者たち。イエスはそれを承知していたので答えはとても不思議なものでした。祭司長たちが来て「なんでこんなことをするのか、どんな権威があるのか?」と言うとイエスは不思議なお答えをされます。「この神殿を壊してみよ。三日で立て直してみせる。」

 イエスはご自分の体のことを話しておられたのです。周りにいる人々をご覧になりながら、悟っていまた。もしこのようなことが神の神殿でされたなら、イエスの心の底にあった大きな恐れは本当でした-いつの日か人々は彼を捕らえ生贄とし丘の上で磔にする。そして生まれた日と同様にはっきりとわかっておられたに違いありません。

自分が来たのは、何と悲しい・・・

しかし、聖書にあるご自分の話と神のシェキナーをご存知でした。神、父ご自身がイエスを送り、その命と引き換えに世の罪を贖い、そして人類と神との新しい関係の、世界の果てまで到る章を開くことを知っておられました。なぜなら自分がメシアであることを理解し始めていたからです。父の選ばれし者、神のシェキナーの平和と喜びを再びもたらす者、そしてそれは地の果てまで届いて行くのです。

そのように福音記者は彼のこのことを書き記します。

 イエスが過ぎ越し祭の間イスラエルにいた時、多くの人々はイエスのされていることを見て彼の名を信じ始めました。しかしイエスは彼らをすべてご存知でしたし、人間の性分を語る必要もないので敢えて彼らを信用されようとしませんでした。神ご自身が人間となります。人間であることが何を意味するのか、苦痛に耐え、期待は打ち砕かれ、最後に死に直面することを彼が知らなかったとは誰も言わないでしょう。イエスは心の中でそれを知っていました。これがイエスの大きな気持ちのわけです。「どうして、どうして愛することを学べないのか。なぜこのような行いをするのか、どうして先に行かねばと思うのか、なぜ人々は傷つけ合うのか?なぜ人々は神の偉大な寛大さを腐った市場に変えてしまうのか?」神への愛がイエスを突き動かします。十字架上から言われたように、神への愛が理解をします。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです。」

 そうです、今日、私たちはここでイエスに出会います。ここで自身の人生を見つめ始めます。メシアがこの教会で私たちのところに来られたからです。私たちと一緒にいるために来られたのです。私たちを勇気づけるために、癒すために来られたのです。神のシェキナーは今やイエスそのものです。そしてこのことは今日の朗読の意味です。「救い主はどこにいますか?」あなたの中に、たがいの中に、共同体の中に、そしてここにおられます。次に私たちは何をしようとするでしょうか?イエスの時代の人々のように「しるしを見せてください、奇跡をおこしてください、派手にいろいろやってください」と催促しますか?

いいえ、イエスはわかりやすく言われました。「今日、明日、いつも、そして世の終わりまであなたと一緒いる。」あなたの人生とは何でしょうか。それはイエスと共に歩き、語り、感化されることです。そうすることであなたも人生を喜びと、平和と、そしてなによりも新しい愛と共に、神に向かってではなく、イエスに向かってでもなく、お互いに向かって歩むことができるのです。


Gospel: John 2:13-25  

I’m sure you, as everybody who hears this gospel, are a bit surprised. And never have we heard Jesus taking a whip and driving people out and anger in his voice and almost desperation. It is so unlike him, the one who is patient and kind and forgiving and all these things that we expect of him, and, all of a sudden, it seems that he’s lost a gigantic temper. Is there any way out of this? No, there isn’t. And he tells you – you might have missed it – he tells you one of the reasons why.

Do you remember the little boy Jesus, who went to the temple for the first time? He went with his mother and his father. And he was so fascinated by the temple that he stayed there. And his parents went away and then they realised they’d lost him and they came running back and they found him sitting in the temple with the elders, asking and answering questions.

We have nothing like the meaning of the temple in our church. The temple was what they call the Shekinah of God, where God was most present in this world, where God lived in the Holy of Holies, where God was worshipped and treasured by a people who went through so much pain, through deserts and some terrible conditions, to finally get to the little place, the chosen land, and build a temple, a beautiful temple, a temple where the Shekinah of God could blaze in glory to all the visitors that would come from far, far away to see this wonderful temple where God was most present in the whole world.

And now grown to manhood, Jesus walks into the temple and he sees what has happened to it. He sees a shopping area. He sees people hungry with greed to make money. And to make it on what? The Shekinah of his Father? And he says, “You have taken my Father’s house, my Father’s house, and you’ve turned it into a cattle market. How could you do that?” He’s a little boy complaining in a great voice, that this should never have been done. And he is almost unforgivable in his anger. And he does take up a whip and he does drive them out. And, of course, these are the people who don’t deserve the whip or the driving out. It’s those who are in charge, the high priests who allowed this to take place in their temple, they should have known better. These are only greedy little people trying to make money and don’t care where they try to make it.

And Jesus knows that and that’s why his answer is so strange. When the chief priests come up to him and say, “How dare you do this! By what authority do you do it?” and he says, very strange, he says, “Destroy this temple and in three days I will raise it up again.”

And he was talking about his body. He was talking about — he knew, he looked at them and he looked at the people around him — if they could do this to God’s temple, then the great fear that he had within his heart was true: one day they would take him and he would be the sacrifice and they would drive him up a hill and they would crucify him. And he must have seen that as clear as the day he was born.

And how sad, he who came…

But he also knew his Scriptures and he knew the Shekinah of God. He knew that God Himself, his Father, was sending him to lay his life down that he might redeem the world and to open another chapter in God’s relationship with mankind, a chapter that would reach the farthest ends of the earth.

For he began to understand that he was the Messiah, the Chosen One of his Father, who would bring back the peace and joy of the Shekinah of God and it would go into the farthest ends of the earth.

And so it is that the writer says this of him,。

While he was in Jerusalem for the feast of Passover,
many began to believe in his name
when they saw the signs he was doing.
But Jesus would not trust himself to them because he knew them all,
and did not need anyone to testify about human nature.

God Himself becomes man. No one can say that he does not know what it means to be a human being, to suffer pain, to have expectations shattered and, finally, to have to face death. He knew that in his heart.

And this is the cause of his great feeling. “Why, why, why can they not learn to love? Why must they act this way? Why must they feel they must get ahead? Why must they hurt each other? Why must they take the great goodness of God Himself and turn it into a rotten market place?”

The love of God drives him on. The love of God allows him to understand just as he said from the cross, “Father, forgive them. They know not what they do.”

Yes, this is where we meet him today. This is where we begin to look into our own lives.

Because the Messiah has come to us in this church. He has come to be with us. He has come to encourage us. He has come to heal us. The Shekinah of God is now Jesus himself.

And this is the meaning of the reading today.

When you say, “Where is the Messiah?” He is in you, in each other, in the community, and he is here.

And what are we to do? Challenge him as the people of his own time did and said, “Show us signs, show us miracles, do some razzle dazzle”?

No. He just said very simply, “I am with you, today, tomorrow, all days, even to the consummation of the world." And what is your life? Your life is to walk with him and talk with him and let him influence you, so that you too can walk through life with joy, with peace, and, most of all, with a new love, not for God, not for Jesus, but for each other.



【聖書朗読箇所】

信じる者の力である神よ、
あなたは、祈り、節制、愛のわざによって、
  わたしたちが罪に打ち勝つことをお望みになります。
  弱さのために倒れて力を落とすわたしたちを、
  いつもあわれみをもって助け起こしてください。
   集会祈願より

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第1朗読 出エジプト記 20章1~17節

神はこれらすべての言葉を告げられた。
「わたしは主、あなたの神、
あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

あなたはいかなる像も造ってはならない。
上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、
いかなるものの形も造ってはならない。
あなたはそれらに向かってひれ伏したり、
それらに仕えたりしてはならない。
わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。
わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、
幾千代にも及ぶ慈しみを与える。

あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。

安息日を心に留め、これを聖別せよ。
六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、
いかなる仕事もしてはならない。
あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、
あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。
六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、
七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して
聖別(せいべつ)されたのである。

あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、
主が与えられる土地に長く生きることができる。
殺してはならない。
姦淫(かんいん)してはならない。
盗んではならない。
隣人に関して偽証してはならない。
隣人の家を欲してはならない。
隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」


第2朗読 コリントの信徒への手紙一 1章22~25節

ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、
わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。
すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、
異邦人には愚かなものですが、
ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、
神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。


福音朗読 ヨハネによる福音書 2章13~25節

ユダヤ人の過越祭が近づいたので、
イエスはエルサレムへ上って行かれた。
そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、
座って両替をしている者たちを御覧になった。
イエスは縄で鞭(むち)を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、
両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」
と書いてあるのを思い出した。

ユダヤ人たちはイエスに、
「あなたは、こんなことをするからには、
どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。
イエスは答えて言われた。
「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
それでユダヤ人たちは、
「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、
あなたは三日で建て直すのか」と言った。
イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。

イエスが死者の中から復活されたとき、
弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、
聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

イエスは過越祭(すぎこしさい)の間エルサレムにおられたが、
そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。
しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。
それは、すべての人のことを知っておられ、
人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。
イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。