2021年3月13日土曜日

四旬節第4主日

 ウルバン神父様からいただきました3月14日 四旬節第4主日の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。


【四旬節第4主日 福音メッセージ from ウルバン神父様】



四旬節 第4日曜日                       3月14日


暗い夜のことでした。

夜になってエルサレムの町は静かになりました。ある人は何回も振り向きながら町の道を密かにまた急いで歩きました。人に見られるのを恐れていました。その夜ナザレのイエスがどこで泊まっているかを知っていました。あの方の弟子は公に、堂々と友と歩いているのに、人の目をおそれるこの弱虫の私を受け入れてくれるでしょうかと、心配しながらその家に近づきました。もう一回心配そうに振り向きながらドアをノクしました。このような私を軽蔑するでしょうか。イエスを見た時、イエスの顔に軽蔑とか嫌がりの様子は全くありませんでした。かえってあの方は戸惑うことなしに、暖かい心で友のようにニコデモを受け入れられました。

これはイエスの驚くべき姿です。その時でも、今でも、人を退けることをしません。どんな生活の状態であっても、どんな暗闇から主を探そうとしても、どんな重荷を背負っても、いつも手を広げて受け入れます。

ニコデモはイエスの寛大さに感動しました。どこでも大群衆に尊ばれるこの方は、今の夜遅くまで私一人に、暗い夜に来た私に、こんなに時間を尽くしていただけるのは信じられないことでしょう。彼は不思議そうな目でイエスを見つめて、深く感動しながら、その言葉を聞いていました。

 “人の子は裁くために遣わされたのではなく、救うために来ました、一人も滅びないように、永遠の命を得させるためである”。ニコデモは心から安心して喜んでいました。“悪を行うものはみな明るみに出るのを恐れるが、真理を行うものは光のほうに来る”と。イエスの言葉が一つ一つ心の中に流れ込みながら、ニコデモの心は温まりました。“私もいつか光に出られるでしょうか。やはり光に出たい”と心の中で考えを抱きながらイエスと別れて、暗い夜に消えてしまいました。

何か月後のことでした。イエスは何回も転びながら最後の力を絞ってゴルゴタの丘を登った。周りに立っている人々はイエスをあざ笑って罵った。群衆の中に一人の男が立っていました。事の流れを見て、心を痛みながらイエスの最後の言葉を聞いていました。“私は乾く”、“父よ、彼らを許してください”。“エリ、エリ、レマ サバクタニ、わが神よ、わが神よ、なぜ私を見捨てたのか”。“父よ、あなたの手に私の霊を委ねます”。最後に兵隊の幹部の言葉:“まことに、この方は神の子でした”と心の中に響いていました“。太陽の力が消えて地震が起こった時、人々は恐れて消えた。

その時、“彼は光に出ました”。イエスの体を降ろすために彼は十字架にはしごをかけて、人の見える前ではしごを登りました。弟子たちがみな遠くまで逃げた時、ニコデモはイエスの血だらけな体を自分の腕にもって抱きました。 

ウルバン神父 



【聖書朗読箇所】


聖なる父よ、

  あなたは御子の苦しみと死によって、

  ゆるしの恵みをもたらしてくださいました。

  キリストを信じる人々が、信仰と愛に満たされ、

  主の過越(すぎこし)を迎えることができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 歴代誌下 36章14~16, 19~23節


祭司長たちのすべても 民と共に諸国の民の

あらゆる忌むべき行いに倣って罪に罪を重ね、

主が聖別されたエルサレムの神殿を汚した。

先祖の神、主は御自分の民と御住まいを憐(あわ)れみ、

繰り返し御使いを彼らに遣わされたが、

彼らは神の御使いを嘲(あざ)笑い、

その言葉を蔑(さげす)み、預言者を愚弄した。

それゆえ、ついにその民に向かって主の怒りが燃え上がり、

もはや手の施(ほどこ)しようがなくなった。


神殿には火が放たれ、エルサレムの城壁は崩され、

宮殿はすべて灰燼(かいじん)に帰し、

貴重な品々はことごとく破壊された。

剣を免れて生き残った者は捕らえられ、バビロンに連れ去られた。

彼らはペルシアの王国に覇権(はけん)が移るまで、

バビロンの王とその王子たちの僕(しもべ)となった。

こうして主がエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し、

この地はついに安息を取り戻した。

その荒廃の全期間を通じて地は安息を得、七十年の年月が満ちた。


ペルシアの王キュロスの第一年のことである。

主はかつてエレミヤの口を通して約束されたことを成就するため、

ペルシアの王キュロスの心を動かされた。

キュロスは文書にも記して、国中に次のような布告を行き渡らせた。

「ペルシアの王キュロスはこう言う。

天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜(たまわ)った。

この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることを

わたしに命じられた。

あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、上って行くがよい。

神なる主がその者と共にいてくださるように。」



第2朗読 エフェソの信徒への手紙 2章4~10節

憐(あわ)れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、

その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちを

キリストと共に生かし、― あなたがたの救われたのは恵みによるのです ―

キリスト・イエスによって共に復活させ、

共に天の王座に着かせてくださいました。


こうして、神は、キリスト・イエスにおいて

わたしたちにお示しになった慈しみにより、

その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。

事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。

このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。

行いによるのではありません。

それは、だれも誇ることがないためなのです。


なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、

しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、

キリスト・イエスにおいて造られたからです。

わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。



福音朗読 ヨハネによる福音書 3章14~21節


<イエスは言われた。>

そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、

人の子も上げられねばならない。

それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。


神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

神が御子(みこ)を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、

御子によって世が救われるためである。

御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。

神の独り子の名を信じていないからである。


光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、

光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。

悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、

光の方に来ないからである。

しかし、真理を行う者は光の方に来る。

その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」