2021年3月20日土曜日

四旬節第5主日

 松村神父様からいただきました四旬節第5主日の福音メッセージを、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。                                                                                                           




【福音メッセージ 松村神父様】

小さな子どもたちには一般的な話として次のように伝える。

皆さんが健やかに、そして元気に育つために、お父さんは一緒に遊んで体力を養ったり、社会の出来事を教えてくれたり、賢く生きるために伝承をいろいろと伝えてくれる。お母さんは肌のぬくもりのすばらしさで癒しを現し、美味しい食事を通して体の仕組みを伝えてくれる。“家族は生きた小さな学校です”と。もちろん現代ではその立場や役割は変わることもあるが、家族は小さな学校である事に間違いはない。大前提として子どもが要求する以前に親はまず子どもにいろいろなことを伝え、与える。これに順応しない子どもは怒られるが、上手に対応する子どもは褒められる。家族に対する子どもの反省や喜びはここに示され、生き方、育ち方に大きな変化がおきる。平和に、喜びをもって活き活きと生きるとはどういうことかが育てられる。

これは神とイスラエルの民との契約の仕組みと一緒である。出エジプト記において神が民を導き、それに従い、シナイ山で契約を受け、その契約に従うならば祝福があり、そうでなければ呪いが来る。この契約を神が破ることはなく、いつも民から破る。その結果が旧約聖書の随所に描かれている。

神そのものでるイエスご自身は十字架上の死をもって、御父に向けて私たちのために神へ救いを求める生贄として、御父との契約を再度結び直す。自己奉献により契約の申請を行った。神はそのイエスの行いによって聖霊を送り私たちに救いの道を与えられた。御父は既に律法は与えられていたにもかかわらず、イエスをこの地上に送り、そのあり方を示したがイエスさらに救いを求め、イエスの十字架の死を見る者には平和と喜び、活き活きと生きるための霊を送るように求め、それらを通して救いの道を示された。何重にも重ねられた神の愛がそこにはあり、そのしつこさと執念に改めて自分の愛の足りなさを感じる。イエスの歩みには愛と赦しをとおして自己奉献の生き方が示され、私たちの歩み方にくさびを打ったのだ。ついつい不満が漏れる私たちの生活ではあるが、愛と赦しと自己奉献を徹底的に行うと、人を生かす生き方へと変えられ、“認める”行為によって人は愛を受けていることに気づかされる。子どもがどのようにすると喜び自信を持って歩むか?を考えてみる単純さの中に、私たちの信仰の歩み方も見えてくる。このことを自分の生活に振り返ることも回心の一つであろう。

神は私たちといつも契約を結び、互いに守りたがっている神。このことは難しく感じるが、私はこの契約である律法を生きることとは単純に“他者を肯定”し、“応援する”ということなのだろうと捉える。それは天地創造の時に、神は創造するたびに『神はそれを見て、よしとされた』からである。



【聖書朗読箇所】

父である神よ、

  ひとり子イエスはあなたへの愛と従順を貫き、

  すべての人の救いのために、すすんで受難の道を歩まれました。

  わたしたちも、あたなたに対する信頼をもって、

  恐れることなく主の道を歩むことができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 エレミア書 31章31~34節


見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と

新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。

この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取って

エジプトの地から導き出したときに結んだものではない。

わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、

彼らはこの契約を破った、と主は言われる。


しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と

結ぶ契約はこれである、と主は言われる。

すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、

彼らの心にそれを記す。

わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、

「主を知れ」と言って教えることはない。

彼らはすべて、小さい者も大きい者も

わたしを知るからである、と主は言われる。

わたしは彼らの悪を赦(ゆる)し、再び彼らの罪に心を留めることはない。



第2朗読 ヘブライ人への手紙 5章7~9節


キリストは、肉において生きておられたとき、

激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、

御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、

その畏(おそ)れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。


キリストは御子であるにもかかわらず、

多くの苦しみによって従順を学ばれました。

そして、完全な者となられたので、

御自分に従順であるすべての人々に対して、

永遠の救いの源となりました。



福音朗読 ヨハネによる福音書 12章20~33節


さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た

人々の中に、何人かのギリシア人がいた。

彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、

「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。

フィリポは行ってアンデレに話し、

アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。


イエスはこうお答えになった。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。

だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

自分の命を愛する者は、それを失うが、

この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、

わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。

わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」


「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。

『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。

しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。

父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。

「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」


そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、

ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。

イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、

わたしのためではなく、あなたがたのためだ。

今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。

わたしは地上から上げられるとき、

すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、

こう言われたのである。