2021年6月26日土曜日

6月27日 年間第13主日

 レイ神父様の福音メッセージを、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ レイ神父】


6月27日 年間第13主日ー キリストの癒しの力と秘跡

第一朗読は、悪魔のねたみにより、死と病がこの世に入ったと書いてあります。この死と病の悲劇に神がなされたことは、罪以外は私たちと同じであるご自分の息子を世に送られたことです。

今日の福音で、イエスの中にある神の働きの力を出血で苦しむ女と少女を死から呼び戻した話で知ります。病と死は人間の堕落した部分の状態です。実際、私自身の家族の病と死の身近かな経験は、単に敬虔な話以上に、福音書にある同じような話を理解する助けになりました。現代の類似話は、聖人への祈りの答えとなった奇跡や、ルルドのような場所での経験です。

これはおそらく現代の病に対する反映でしょう。身体より心的な病の治癒により多くなされています。近年の偉大な聖者たちを見ると、彼らは今の時代に必要なことを考えています。マザーテレサの最も貧しく、病み、死んでいく人たちへの偉大な働き。アルスの癒し、聖ジャン・ヴィアンネに倣った、ピオ神父の告解での大いなる癒しの力。体と魂への癒しは共にイエスに向けられました。見て信じられることよりもっと難しいことは何であったでしょう―「あなたの罪は許された」また、「起きて歩きなさい」は?

癒しの求めの一面は信仰です。その神からの賜物とは、創造主から必要な治癒を、そのすべてが満ちた命を求めることです。これは書物の中で神の言葉として見出され、そしてイエスが私たち教会に残されたもの、ことに秘跡の儀式でご自身をお与えになったことです。洗礼において信じ、希望し、愛し、堅信では聖霊の賜物で力づけられ、何よりもご聖体を祝う精神的な食物としてイエスご自身をいただきます。ゆるしの秘跡と塗油において、秘跡の中に戻られます。婚姻と叙階の秘跡を通して共同体として私たちは維持され成長します。神の秘跡としてのイエスの人間性と、キリストの秘跡としての教会を語るとき、秘跡の意味はさらに高まります。

今日の福音で、長患いからの癒しと若い子どもの死からの生還が語られます。年老いた者の死ですら忘れられることがあります。家族には直ぐにすべきことがあり嘆き悲しむのは先延しになっても、親しい家族や友人の死に際しての感情や体の反応の影響は、やがて必ず私たちに来ます。

これは、受難と死と復活を目撃したイエスに最も近かった人々でも同じことでした。イエスが天の父のもとに戻るために彼らから離れるとき、悲しみと喪失と心配の思いが、聖霊降臨の約束を待つ階上でもありました。聖霊は、導き手、慰め主、守り人として訪れます。キリストのうちにある神の深い啓示が私たちの存在のもっとも奥深いところで伝えられるからです。

今日の第二朗読で聖パウロが語るように、神の愛は個人として共同体として伴に、お互いの関係性のうちに見出されなければなりません。経済危機や政治家たちの金銭スキャンダルは父の昔の政治スローガン、「公平な分配と、まずは必要な人々へ」を思い出させます。古い考えかもしれませんが、必要ではなく欲望に根差した現在の文化よりも、それはむしろ福音により近いものだと思います。秘跡はこの時代、来たるべき三位一体の生活を分かち合うのを待ち望むとき、「諸国を癒す」モデルを確かに与えてくれます。



【聖書朗読箇所】


万物の造り主である神よ、

  あなたの栄光は、すべてのいのちのうちに輝いています。

  きょう語られるキリストのことばをとおして、

  わたしたちがいのちの意味を悟り、いのちのパンをいただいて、

  生きる喜びを新たにすることができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 知恵の書 1章13~15、2章23~24節


神が死を造られたわけではなく、

命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。


生かすためにこそ神は万物をお造りになった。

世にある造られた物は価値がある。

滅びをもたらす毒はその中になく、

陰府(よみ)がこの世を支配することもない。

義は不滅である。


神は人間を不滅な者として創造し、

御自分の本性の似姿として造られた。

悪魔のねたみによって死がこの世に入り、

悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである。



第2朗読 コリントの信徒への手紙二 8章7、9、13~15節


あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、

わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、

この慈善の業においても豊かな者となりなさい。


あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。

すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。

それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。


他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、

釣り合いがとれるようにするわけです。

あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、

いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、

こうして釣り合いがとれるのです。


「多く集めた者も、余ることはなく、

わずかしか集めなかった者も、

不足することはなかった」と書いてあるとおりです。



福音朗読 マルコによる福音書 5章21~43節


イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、

大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。


会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、

イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。

「わたしの幼い娘が死にそうです。

どうか、おいでになって手を置いてやってください。

そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」

そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。

大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。


さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。

多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、

全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。


イエスのことを聞いて、群衆の中に紛(まぎ)れ込み、

後ろからイエスの服に触れた。

「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。

すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。

イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、

群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。


そこで、弟子たちは言った。

「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。

それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」

しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺(あた)りを見回しておられた。

女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、

震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。

イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。

安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」


イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。

「お嬢さんは亡くなりました。

もう、先生を煩(わずら)わすには及ばないでしょう」

イエスはその話をそばで聞いて、

「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。


そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネ

のほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。

一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が

大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。

「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」

人々はイエスをあざ笑った。


しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、

子供のいる所へ入って行かれた。

そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。

これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。

少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。

それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。


イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、

また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。


2021年6月19日土曜日

6月20日 年間第12主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音への一言  湯澤神父】

2021年6月20日 年間第12主日(マルコ、4章33~41節)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  疲れ切ったイエス様は弟子たちと共に、一日中相手にしていた群衆から、離れます。教えるために使っていたその船で。しかし、激しい風が吹いてきて、船は水浸しになります。弟子の中の漁師たちはこの風がどういうものか知っています。恐怖に囚われた彼らは船の艫の方で寝ているイエス様を起こします。「船が沈みます。私たちがどうなっても構わないのですか。ここまで連れてきたのはあなたです」。これは、危機が迫った時に神の民が神様に叫ぶ、旧約聖書によく出てくる言い回しです。

  このお話は典型的な奇跡物語で、「イエス様は何者なのか」「そのイエス様をあなたは信頼するか」が問われています。しかし、福音書はキリストを知らない人のために書かれた本ではなく、キリストを信頼している信徒に向けて書かれたものです。するとここで問われていることの意味合いが少わかってきます。

  弟子たちと眠っているイエス様が乗っている船は、教会を暗示しています。事実、今日までの教会の歴史を見ると、教会は様々な混乱に翻弄されてきました。存続さえ危ぶまれるほどの危機に見舞われたこともあります。共にいるはずのイエス様が沈黙を守っていることもたびたびです。私たちがどうなってもよいとでも言うのでしょうか。今の私たちが経験しているコロナの現実もその一つかもしれません。イエス様は一緒にいるのに、嵐に翻弄されている私たちはどうなってもよいのでしょうか。なぜ黙っているのでしょうか。

  ではこの出来事は何を言わんとしているのでしょうか。おそらくイエス様は言うでしょう。私はあなた方を、人を漁るために呼んだ。実際イエス様が向かったのは異邦人の国(ゲラサ人の土地)です。異邦人への宣教がどれだけ危険に満ち、困難かマルコの教会の信徒で知らない人はいないでしょう。そこでイエス様は言うのです。「なぜ怖がるのか。また信じないのか」。マタイでは、「信仰の薄い者たち」と叱責しています。あなた方は信じ切れていないというのです。ルカでは、「あなた方の信仰はどこにあるのか」、つまり、信仰はあってもあらぬ方向を向いている。自分たちの身の安全に向いているのかもしれません。マルコでは、弟子たちが自分たちの立場も、目的も、使命も、イエス様が共にいることも分かっていない、と言うのです。

  私たちとどこか似ていませんか。信徒として呼ばれた意味と使命、その意味に生き、その使命を果たすために今このコロナという嵐の中に派遣されている。そして、そのためにイエス様が共にいる。そうしたことがまだわからず、信じ切れていない。そうイエス様は言っています。では、どうしたらいいのでしょうか。それはイエス様を見るほかありません。「今ここにイエス様がいたら、どうしていただろう」。イエス様の在り方を手本にして、イエス様の問いを我がものとして一度振り返ってみましょう。     湯澤民夫


【聖書朗読箇所】


天と地の主である神よ、

  大きな変化を遂げる現代社会にあって、

  教会はいつもあなたの力強いことばに導かれています。

  きょう心を合わせて祈るわたしたちが、あらゆる悪の力を退け、

  ゆるぎない信仰をつちかうことができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 ヨブ記 38章1、8~11


主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。


海は二つの扉を押し開いてほとばしり

母の胎から溢れ出た。

わたしは密雲をその着物とし

濃霧をその産着としてまとわせた。


しかし、わたしはそれに限界を定め

二つの扉にかんぬきを付け

「ここまでは来てもよいが越えてはならない。

高ぶる波をここでとどめよ」と命じた。



第2朗読 コリントの信徒への手紙二 5章14~17節


(皆さん、)キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。

わたしたちはこう考えます。

すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、

すべての人も死んだことになります。


その一人の方はすべての人のために死んでくださった。

その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、

自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。


それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。

肉に従ってキリストを知っていたとしても、

今はもうそのように知ろうとはしません。


だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。

古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。



福音朗読 マルコによる福音書 4章35~41節


その日の夕方になって、

イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。


そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。

ほかの舟も一緒であった。


激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。

しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。

弟子たちはイエスを起こして、

「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。


イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。

すると、風はやみ、すっかり凪になった。


イエスは言われた。

「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

弟子たちは非常に恐れて、

「いったい、この方はどなたなのだろう。

風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。


2021年6月12日土曜日

6月13日 年間第11主日

年間第11主日(6/13)

松村神父様の 福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ 松村神父】

年間第11主日 福音のメッセージ

日本の農家は畑に畝を作り、種を丁寧に土に納めて肥料や土をかぶせ、水を撒いてその成長を願う。しかしイエスの時代の種まきは土地一面に種を投げ撒き、足で踏みつけて土の中に埋める手法をとっていたとある資料で見たことがある。不均等にまかれたそれぞれの種は競合する種の成長に負けないように自ら水を求めて根を伸ばし、太陽の光を受けるために茎や葉を伸ばし生き延びる。そして収穫の時にその成果が明らかにされる。多くの実を結ぶものが勝者となる。これほど植物の生存意欲はすさまじいほどのものである。クムランで出土した死海文書の中の一詩編にもこの植物の生存競争を題材にして信仰を勝ち取ることが描かれているものがある。それはたぶんマカバイ戦争(マカバイ記を参照)を背景に、信仰者の取る道が描かれたのだろう。

そこに着眼した信仰の視点は、私たちにとって多くの学びとなるだろう。イエスの希望はわたしたちが多くの実を結ぶこと。しかも毒麦ではなく正しい麦として、その実りを証しすること。しっかりと根を張り、しっかりと養分を受け、他者と比較勝負することではなく、自らが太陽に向けて自らを伸ばすことに他ならない。そしてそれを収穫していただくことに私たちも誇りとし、天の御父にとっては喜びとなる。このような人々の集まりこそがイエスが託された教会となり、神の国の礎となる。

今日の福音の強調点は、成長しようと努力する私たちの信仰と、その成果の刈り入れが中心なのだろう。実り多い収穫の数は、世界におけるキリストの平和の実現をあらわし、刈り入れは次に引き継がれる種として、永続的に続く平和の補償を意味していると読み取りたい。そのためにも、自分の世代で完結する信仰のあり方ではなく、次に続くあり方へと変容させていかなければならない。それと同時に伝えることの難しさを実感する。

私たちは次の世代にどのような信仰とキリストの平和を残していけるのだろうか。改めて自己実現ではなく、いつの時代も次に続く道を作らねばならないことと、具体的にどのように何を伝えようかと振り返らされた今日の福音だった。同時に実現に向けた具体的対応に視点を置くことも教会の課題となるだろう。なぜならば種は自ら選り好みできずに撒かれるからである。撒かれる土地そのものを見てイメージを持つことが大切なのだろう。



【聖書朗読箇所】


あなたに望みをおく者の力である神よ、

  わたしたちの祈りに耳を傾け、

  あなたから離れては何もできないわたしたちを

  恵みの力で強めてください。

  わたしたちがあなたのことばを守り、

  心も行いもみ旨にかなうものとなりますように。

   集会祈願より


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第1朗読 エゼキエル書 17章22~24節


主なる神はこう言われる。

わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、

高くそびえる山の上に移し植える。


イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、

うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。


そのとき、野のすべての木々は、

主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせることを知るようになる。」

主であるわたしがこれを語り、実行する。



第2朗読 コリントの信徒への手紙二 5章6~10節


それで、わたしたちはいつも心強いのですが、

体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。

目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。


わたしたちは、心強い。

そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。

だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。


なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、

善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、

報いを受けねばならないからです。



福音朗読 マルコによる福音書 4章26~34節


また、イエスは言われた。

「神の国は次のようなものである。

人が土に種を蒔いて、

夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、

どうしてそうなるのか、その人は知らない。

土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。

実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」


更に、イエスは言われた。

「神の国を何にたとえようか。

どのようなたとえで示そうか。

それは、からし種のようなものである。

土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、

蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」


イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。

たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

2021年6月6日日曜日

キリストの聖体

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】


キリストの聖体  第10日曜日  2021. 6. 6.             ウルバン神父


“取りなさい。これは私の体である”

“都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男の人に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。「弟子たちと一緒に過ぎ越しの食事をする私の部屋はどこか」”と。

水をくむのは女の子の仕事でした。男がするわけはない。それはあまり恥ずかしい。二人の弟子はすぐその男の人を見て、静かについて行ってある家に入るのを見た。その家はバルナバの兄弟マリアとその息子ヨハネ・マルコの家でした。これからのことを若いマルコは一生忘れませんでした。若者は玄関から流れ来た声を聞いた:“私達の先生の部屋はどこにあるのか”と。ナザレの先生がここへ、ぼくの家へ? 驚いて、嬉しくて、落ち着かないで夜が来ることを待っていました。

夜になった。玄関に声がした:“シャロム”と。あたたかい男らしい声でした。暗いから、姿を見ることができなかった。二階への階段を登る足音が聞こえただけでした。二階に何があるだろうと思っていた。興奮のうちに事の次第を待っていました。夜遅く上から賛美の歌が聞こえた後、みなはまた階段から降り来て、暗い夜に消えてしまいました。その時、家の子は何をしたでしょうか。ついて行こうと決めて、体にマントを掛けて夜に出た。

ゲッセマネの庭でした。木の下に隠れて、3人の弟子が寝てしまって、イエスが土の上に平伏して、恐れで震え、顔から血と汗が流れるのを見た。裏切る者が兵隊を連れて来てイエスに接吻した時声が聞こえた。“友よ、接吻しながら私を裏切るのか”。その時、弟子達はみなイエスを置き去りにして逃げ去った。“ある若者が素肌に亜麻布一枚をまとって、イエスの後について来ていた。人々が捕らえようとすると、彼は亜麻布を脱ぎ捨て、裸で逃げ去った。”この夜の体験は一生マルコの心に刻み付けられていた。

ペンテコステの日が来て、皆は一つになって母の家で集まっていた時、燃える炎のような舌が現らわれ、マルコの上にも留まった。その時彼が喜びに溢れて、イエスが本当に生きていることを知った。彼も新しい葡萄酒に酔っているように見えた。

その後、油ランプに照らされた部屋で皆が集まった時、若いマルコが声を聴いた。“一同が食事をしている時、イエスはパンを取り、賛美を捧げて、これを裂き、弟子達に与えて仰せになった「取りなさい。これは私の体である」。あの夜、母の家の二階で何があったかが分かりました。感動のうちに彼は命のパンを取って、イエスと共にいた。

このごろ御ミサはなかなかありませんが、それでもイエスが居られ、私たちを待っています。ある日の夕方、一人の女の方が手にバスケットを持って薄暗い聖堂に入って来ました。バスケットの中に泣いている子がいた。若い母が静かに輝いていた聖体ランプに向かって行って、聖櫃の前にバスケットを置いて、しばらくの間聖堂に座って待っていた。次第に赤ん坊は静かになってイエス様の前で寝てしまった。それで女性は寝ていた子のバスケットを取って家へ帰った。ご聖体の中でイエスは私とあなたをも待っています。



【聖書朗読箇所】


恵み豊かな父よ、

  御子キリストは、その死を記念するとうとい秘跡を

  教会に残してくださいました。

  主のからだを受け、救いの力にあずかるわたしたちが、

  主の死を告げ知らせることができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 出エジプト記 24章3~8節


モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を

民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、

「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。


モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに

祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。

彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物を

ささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。


モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を

祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。

彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」

と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。

「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいて

あなたたちと結ばれた契約の血である。」



第2朗読 ヘブライ人への手紙 9章11~15節


けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司として

おいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、

すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、

雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、

ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。


なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、

汚(けが)れた者たちに振りかけられて、

彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、

まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして

神に献(ささ)げられたキリストの血は、わたしたちの良心を

死んだ業(わざ)から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。


こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。

それは、最初の契約の下で犯された罪の贖(あがない)いとして、

キリストが死んでくださったので、召された者たちが、

既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。



福音朗読 マルコによる福音書 14章12~16、22~26節


除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠(ほふ)る日、

弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、

どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。


そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。

「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。

その人について行きなさい。

その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。

『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする

わたしの部屋はどこか」と言っています。』

すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、

そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」


弟子たちは出かけて都に行ってみると、

イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、

賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。

「取りなさい。これはわたしの体である。」


また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。

彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。

「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。

はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、

ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」

一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。