2023年1月28日土曜日

1月29日 年間第4主日

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 年間第4主日 A年 2023年1月29日 ウルバン神父

“心の貧しいあなたがた ”

朝早くの事であった。イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いて、草に座って、朝日が昇るのを見て、朝の涼しさと静けさを味わっていた。湖は美しく朝日の光に輝いていた。人の足音が聞こえた。一人、また一人、だんだん多くの人があちこちから近付いて来た。イエスは立って、人の間を歩いていた。多くの人がイエスに触れようとしたが、イエスは嫌な顔をしなかった。かえって、一人ひとりを優しい目で見ていた。その姿から、力のような事が流れ出た。羊飼いに抱かれた傷のある子羊が静かになるように、人の心も静かになってきた。イエスは群衆を見て、山に登られて、腰を下ろした。

群衆を見たとは、大切な言葉です。どこかに立って、腕を組んで、嫌な、軽蔑があるような顔の表情で群衆を見たファリザイ派の人々のように。‘実に、イスラエルの泥がここに揃っている’と表す顔で。いえ。しばらくの間、愛に溢れる顔でイエスは群衆を見回していた。何を見たでしょうか。人々の心の中の暗闇、悲しみ、深い失望と疲れ。多くの人は遠くから、夜の時に歩きながら、やっとここに着いた。森の中で水を探し求めて、喘ぎさまよう鹿のように、乾いている心を満たす水、命の水を待っていた。貧しい服を着ている人、ボロボロの心を持っている自分は本当に神様に忘れられて、捨てられているのでしょうか。自分にも救いがあるでしょうかと悩んで、餓えた心と大きな目でイエスを見ていた。人々の心の疲れと孤独はイエスの心に深く響いていた。‘私はあなた達と共に悲しむ、共に泣く、共に喜ぶ。来て、私は安らぎを与える’とイエスの顔が現した。見て、私もあなたも群衆の中にいるのです。私の生活にも疲れと暗闇があり、貧しい心に餓えと乾きがある。本当に、僕も群衆の中の一人だ。あの方は私をも優しい目で私の方へ見て、待っているでしょう。私にも手を伸ばしているでしょうか。あたしも受け入れてもらいたい、愛されたい。

そこでイエスは口を開き教えられた。洗者ヨハネのように話したでしょうか。‘蝮の子らよ、神の怒りから逃れると思うのか’。イエスの優しい言葉は深く心に響いた。‘心の貧しいあなた方は幸いである。天の国はその人たちのものである’。‘今悲しむあなた達は幸いである、あなた達は慰められる’。

その時、多くの人の目の前に門が開かれて、光を見た。‘死の淵に住んでいる私達にも救いがあるか’、と驚いていた。この言葉は油のように心に入って、多くの傷は癒されるようになった。人の目は益々大きくなって、涙が流れて、顔が喜びに溢れた。乾いた土が水を吸って、すべてが生きるようになって、暗闇の雲が消え、群衆が生き生きして来た。‘私達はゴミではない、屑ではない。私達も貧しくても愛されている’と。聖書の言葉は実現された。‘悲しみの内に出て種をまく人は、束を持って喜びのうちに帰って来る’、と言うような有様になった。イエスの言葉には本当にパワーがあって、権威がある。群衆はサァァと、手を天に上げて喜びに踊った。今日もイエスが生きておられ、私達にいう。‘御覧なさい、あなたも私について来れば、もう暗闇を歩まない。光の中に生きる’。



【聖書朗読箇所】


わたしたちの神である父よ、

 心を尽くしてあなたに仕える喜びと、

 すべての人を愛する恵みをお与えください。

集会祈願より



第1朗読 ゼファニヤの預言 (ゼファニヤ2章3節,3章12-13節)


主を求めよ。

主の裁きを行い、苦しみに耐えてきた

この地のすべての人々よ

恵みの業を求めよ、苦しみに耐えることを求めよ。

主の怒りの日に

あるいは、身を守られるであろう。

わたしはお前の中に

苦しめられ、卑しめられた民を残す。

彼らは主の名を避け所とする。

イスラエルの残りの者は

不正を行わず、偽りを語らない。

その口に、欺く舌は見いだされない。

彼らは養われて憩い

彼らを脅かす者はない。



第2朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 (1コリント1章26-31節)


兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。

人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、

能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。

ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、

力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。

また、神は地位のある者を無力な者とするため、

世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。

それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。

神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、

このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、

義と聖と贖いとなられたのです。

「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。



福音朗読 マタイによる福音 (マタイ5章1-12a節)


イエスはこの群衆を見て、山に登られた。

腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。


そこで、イエスは口を開き、教えられた。


「心の貧しい人々は、幸いである、

 天の国はその人たちのものである。


悲しむ人々は、幸いである、

 その人たちは慰められる。


柔和な人々は、幸いである、

 その人たちは地を受け継ぐ。


義に飢え渇く人々は、幸いである、

 その人たちは満たされる。


憐れみ深い人々は、幸いである、

 その人たちは憐れみを受ける。


心の清い人々は、幸いである、

 その人たちは神を見る。


平和を実現する人々は、幸いである、

 その人たちは神の子と呼ばれる。


義のために迫害される人々は、幸いである、

 天の国はその人たちのものである。


わたしのためにののしられ、

迫害され、 身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、

あなたがたは幸いである。


喜びなさい。大いに喜びなさい。

天には大きな報いがある。」 

2023年1月21日土曜日

1月22日 年間第3主日

 山谷神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてお送りします。

(療養のため札幌を離れられた湯澤神父様に替わり、山谷神父様のメッセージを月に一度お届けします。)


ヨハネス ドゥンス・スコトゥス 山谷篤 神父様のご紹介(札幌司教区ホームページより)

叙階年:2000・ フランシスコ会(OFM) 司祭   北十一条教会 ・ 札幌フランシスコ修道院 ・ 光明社 ・ 北二十六条教会 ・ 花川教会 ・主任代行司祭(小教区管理者)


【福音メッセージ】 年間第3主日(神のことばの主日) A年 2023年1月22日 山谷神父

クリスマスもお正月も終わって、普通の日々が戻ってきました。教会の典礼も緑色の年間という日常に戻っています。洗礼者ヨハネは荒れ野という人が住まない非日常的な場所から「悔い改めよ、天の国は近づいた」宣教しました。今日の福音はイエスの宣教の始まりを描いていますが、同じ「悔い改めよ、天の国は近づいた」と宣べ伝えていますが、場所はガリラヤという人々が住む日常的な場面へと移っています。

同じメッセージを洗礼者ヨハネとイエスは語りますが、場所の違いはメッセージの中身の違いを示しているように思います。つまり悔い改めの内容が、イエスの場合、より日常生活と結びついたメッセージになっているのではないでしょうか。

マタイはイエスが宣教をしたガリラヤという土地を、第一朗読にあるイザヤの預言と結びつけて特別な意味を見出しています。そこは闇に住む人々の暮らす場所であり、天の国から最も遠い場所です。そのガリラヤにイエスは退かれたと書かれています。退くという言葉はネガティブに聞こえますね。洗礼者ヨハネが逮捕され、天の国は近づくどころか遠ざかってしまった、イエスは夢破れて故郷のガリラヤに失意のうちに帰っていったような印象を持ちます。しかし、マタイは、イエスがガリラヤへと退かれたのは、むしろ闇に住む人々に神の光が注がれて行くためなのだと。そこに神のご計画を見ているのです。

闇に住む人々に対する「天の国は近づいた、悔い改めよ」というメッセージは、決して「お前たちが悪い、ちゃんとしなさい、悪行を捨てろ」という意味の悔い改めではないでしょう。

このイエスの悔い改めの意味を示す出来事が続く、ペトロたちの召命のお話しに描かれています。ペトロたちが捨てたのは悪行ではなく、網を捨てました。網は彼らの生活を支えているものの象徴です。つまり、自分が頼りにしているものを捨てるということです。この網を捨てることで、神を頼りに生きる生活へとペトロたちは招かれたのです。イエスの説く悔い改めとは、洗礼者ヨハネのように罪からの悔い改めと言うよりは、むしろ神に信頼して生きる生き方への転換を意味しているのです。ここにイエスとともに信仰に生きる歩みが始まって行くのです。

福音は全ての人がペトロのように今の仕事をやめて教会のために働けとは言っていません。ペトロたちの召命は極端な例であり、それはある意味で象徴的な召し出しです。むしろ、私たちにも、それぞれの日常の中で、神に従って生きる歩みを見出すようにとペトロたちの召命物語は問いかけています。

先日、新聞に片づけコンサルタント近藤まりえさんの記事が載っていました。家の中を片付けるときに考えるのは、何を捨てるかではなく、何を残すのかをまず決めて行くことだと言います。それは、自分が大切にしているものは何かという、自分の内面を見つめて行くことで、そこから新しい自分を発見して行くのだということです。ペトロの召命もそのように見ると、網を捨てますが、それは自分が本当に大切にしているものを見出したということではないでしょうか。それが私たちにも見えた時、私たちの内に光が差し込むのです。私たちは日常の中で、何を大切にし、何を捨てずに生きたいのでしょうか。今日の福音は「捨てる」から見るのではなく、「残す」からあらためて問いかけてみてはいかがでしょう。



【聖書朗読箇所】


全能永遠の、神である父よ、

  わたしたちの行いがいつもみ旨にかなうように導いてください。

  御子キリストのうちにあって豊かな実を結ぶことができますように。

集会祈願より



第1朗読 イザヤの預言 (イザヤ8章23b-9章3節)


先に

ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが

後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた

異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。


闇の中を歩む民は、大いなる光を見

死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。

あなたは深い喜びと

大きな楽しみをお与えになり

人々は御前に喜び祝った。

刈り入れの時を祝うように

戦利品を分け合って楽しむように。

彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を

あなたはミディアンの日のように

折ってくださった。



第2朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 (1コリント1章10-13,17節)


兄弟たち、

わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。

わたしの兄弟たち、

実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。

あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。

キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。

パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。

あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。

なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、

言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。



福音朗読 マタイによる福音 (マタイ4章12-23節)


イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。

そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。

「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、

暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」

そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。

彼らは漁師だった。

イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。

二人はすぐに網を捨てて従った。

そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。

この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。

2023年1月15日日曜日

年間第2主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてお送りします。

【福音メッセージ】 年間第2主日 A年 2023年1月15日 松村神父



ある書物を見ると、洗礼者ヨハネは多くの人を洗礼へと招き、ヨルダン川で次々に水に浸し洗礼を授けていた。そのうちの一人がイエスであったと描かれている。そのため、最初からイエスを救い主と認識していたわけではないようだ。しかしヨハネとイエスの間で洗礼前の受け答えが他の人物とも違い、独特な感覚に覆われ、その感覚はイエスを水に浸したところで今日の福音の出来事となった。洗礼者ヨハネの目には鳩の姿を取った聖霊が見え、天が開け御父の声が耳にしっかりと届いた。その時にこの方こそ自分が待ち焦がれていた人であったと確信に変わった。多くの人は自分たちの社会を変えてくれる改革者としての救い主を求めていたが、ヨハネが求めていた救い主はイザヤの預言にある、この世の罪を取り除く者、私たちの罪を担い神にその身を捧げる者。小手先の生活の救いではなく、人間の根本からの救いを成し遂げる主から私たちに送られた「主の僕」であった。だからこそ「悔い改めよ」と語っていたのだ。やっと来てくれたという思いで、自分の役割が完成したヨハネは、誰よりも救いに最初にあずかったものなのでしょう。

 主の奉献の時にもシメオンは同じ思いだったのでしょう。自分の役割を終えて、その働きに終止符が打たれる。やっと「この身を去らせてくださる」とささやく。イエスの十字架の時にも「成し遂げられた」とその息を御父に返し、息を引き取った。そこには完成させられる安堵と喜び、委ねられる嬉しさがあったのではないだろうか。

今日の福音を読んで、自分で何かを成し遂げよう!とか、何かの功績を残そう!という人間の弱さに、改めて向き直された。自分に向いているとどうしても富に執着してしまう。それはかえって多くの確執を生む。不十分であっても、引き継いでいくことの大切さが語られているのではないか。ここ最近葬儀が続いていたが、故人の成し遂げたという想いは不十分だったのではなかったか。でも残された家族がその遺志を継ぐことを誓い、大切にすることで、亡くなられた方は慰められる。誰かが正しい完成に向かって動いてくれるという想いは、主によって完成するのだろう。大切なことは引き継ぐこと、委ねる事。洗礼者ヨハネは無残にも殺害され殉教するが、イエスは洗礼者ヨハネを大切に語り続けた。御父を通して繋がれたものの絆は、永遠に続く。

洗礼者ヨハネはイエスと出会い、気づかされ、使命の完成を確認し、それを後から来たものにゆだねて身を引いていき、語り続けることを通してイエスを守っていった。人生をかける人との出会いは、かけがえのないもので、その人の為に「神の小羊」同様に誰かのために身を捧げていければと思う。自ら身代わりになる覚悟はなかなかできる事ではない。でももし自分が誰かに助けられ、身代わりになっていて今の自分がいるとするなら、感謝の言葉しか出てこない。このような関係が全世界に広がる事こそ、主の平和の完成なのだろうと思う。

洗礼による力は、私たちの想いを凌駕し、すべてを可能としてくださる。だから主イエスに対する信仰を正しく理解したい。愛することとは何か。どれだけイエスが私たちを愛してくれたのかを思う時に、私たちはイエスに近づくことが出来るのだろう。



【聖書朗読箇所】


天地万物を治められる神よ、

  あなたの民の祈りをいつくしみをもって聞き入れ、

  世界に平和への道を示してください。

集会祈願より



第1朗読 イザヤの預言 (イザヤ49章3,5-6節)


(主は)わたしに言われた あなたはわたしの僕、イスラエル

あなたによってわたしの輝きは現れる、と。

主の御目にわたしは重んじられている。

わたしの神こそ、わたしの力。今や、主は言われる。

ヤコブを御もとに立ち帰らせ イスラエルを集めるために

母の胎にあったわたしを 御自分の僕として形づくられた主は こう言われる。

わたしはあなたを僕として ヤコブの諸部族を立ち上がらせ

イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。

だがそれにもまして わたしはあなたを国々の光とし

わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。



第2朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 (1コリント1章1-3節)


神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、

コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を

呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、

召されて聖なる者とされた人々へ。

イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。

わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。



福音朗読 ヨハネによる福音 (ヨハネ1章29-34節)


(そのとき、)ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。

わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」

そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」


2023年1月4日水曜日

1月8日 主の公現

レイナルド神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】


主の公現 - マタイによる福音書2章1-12節 2023年1月8日

「公現」とは「現れる」ということを意味します。「主の公現」とは、イエスが3人の占星術の学者の前に現れただけではなく、象徴的に全世界に救い主が本当に現れたということなのです。この学者たちはユダヤの国ではない外国から旅し、イエスが全ての人びとのために来て、イエスを礼拝するようにと呼ばれているのを現わしているのです。

これらの学者は星を学んだ「賢者」であり救い主がやって来るというユダヤ人の考えを知っており当時の知恵にたいへん精通してましたからそのメシア信仰に興味を持っていたことでしょう。

神はキリストへの礼拝に招くために学者たちがよく知っているもの、星を用いました。彼らは星をよく理解しており、この新しく珍しい星をベツレヘムの上に見た時、なにか特別なことが起こるのだと気づきました。ですからここで私たちが学ぶことは、神はご自身に私たちを呼ばれるとき、私たちが見慣れているものを用いられるということです。神さまがあなたを呼ぶ時に使われる「星」を見つけましょう。案外近くにあるものです。

次に注目するのは、賢者たちは救い主である幼子の前でひれ伏したということです。身を投げ完全に降伏した形で礼拝し、私たちに完璧な模範をしました。この外国からの占星学者たちがこのように深遠な方法でキリストを礼拝しに来ることができたのですから、私たちも同じようにすべきです。文字通りこの日、祈るときに占星学者たちをまねてひれ伏したり、少なくとも祈る間心の中でそのようにしてみませんか。あなた自身を完全にゆだね礼拝しましょう。

最後になりますが、賢人たちは黄金、乳香、没薬を携えてきました。私たちの主へのこの3つの贈り物は、この幼子が罪から私たちを救うために死んでいく聖なる王であると彼らが認めたことを表しています。黄金は王のため、乳香は神にささげる生贄のために、そして没薬は死者に使われます。このようにして彼らの礼拝はこの子が誰であるかという真実に基づいています。私たちが正しくキリストを礼拝しようとするには、この3つの方法で讃えるべきです。

今日はこの賢者たちのことを黙想し、あなた方の模範の象徴として見ましょう。あなた方はこの世界の知らないところから救世主を探すようにと呼ばれています。あなたをみもとに招くために神さまは何を使われているでしょう? 神さまを見つけた時には、ひれ伏して謙虚に従い、彼が誰かという真実を全てためらわずに認めましょう。



【聖書朗読】


すべての民の光である父よ、

   あなたはこの日、

   星の導きによって御ひとり子を諸国の民に示されました。

   信仰の光によって歩むわたしたちを、

   あなたの顔を仰ぎ見る日まで導いてください。

   集会祈願より


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第1朗読 イザヤ書 60章1~6節


起きよ、光を放て。

あなたを照らす光は昇り

主の栄光はあなたの上に輝く。


見よ、闇は地を覆い

暗黒が国々を包んでいる。

しかし、あなたの上には主が輝き出で

主の栄光があなたの上に現れる。


国々はあなたを照らす光に向かい

王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。


目を上げて、見渡すがよい。

みな集い、あなたのもとに来る。

息子たちは遠くから

娘たちは抱かれて、進んで来る。


そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き

おののきつつも心は晴れやかになる。

海からの宝があなたに送られ

国々の富はあなたのもとに集まる。


らくだの大群

ミディアンとエファの若いらくだが

あなたのもとに押し寄せる。

シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。

こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。



第2朗読 エフェソの信徒への手紙 3章2,3b,5~6節


あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、

あなたがたは聞いたにちがいありません。


秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。


この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、

今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。


すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、

約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、

同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。



福音朗読 マタイによる福音書 2章1~12節


イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。

そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、

言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。

わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」


これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。

エルサレムの人々も皆、同様であった。


王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、

メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。

彼らは言った。

「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。


『ユダの地、ベツレヘムよ、

お前はユダの指導者たちの中で

決していちばん小さいものではない。

お前から指導者が現れ、

わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」


そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、

星の現れた時期を確かめた。


そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。

わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。


彼らが王の言葉を聞いて出かけると、

東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。

学者たちはその星を見て喜びにあふれた。


家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。

彼らはひれ伏して幼子を拝み、

宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。


ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、

別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。


2023年1月3日火曜日

1月1日 神の母聖マリア

 新年明けましておめでとうございます。

元旦ミサを司式されました勝谷司教様のミサ説教の内容を書き起こしましたのでご紹介します。



【勝谷司教様 元旦ミサお説教】

今日の福音書に出てくる羊飼いたち。また様々な出来事を体験し思い巡らすマリア。これらの言葉は非常に象徴的な意味を持っています。まず何よりもこの羊飼いの告げられたこと、救い主がお生まれになったというメッセージ。他の誰にも示されず、その羊飼いたちに示されたということは何を意味してるのか。私たちは現代的に考えれば、特にこの羊飼いという人たちが差別された人たちとは思わないかもしれません。しかし、当時の常識から言うと徴税人や娼婦と同様、羊飼いというのは忌み嫌われる人たち、決して救いの対象になると考えられていない人たちです。その彼らに救いの誕生が告げられ、真っ先にこの救い主を探し出したのは彼らであるということは、私たちにとっても非常に象徴的な意味を与えていると思います。

 そしてまた、マリア自身神の子を宿すということから始まり、その後のマリアの生活というものは苦難に満ちたもの、苦難の連続でした。神の子を宿すというので神から守られ順風満帆な生活を歩んでいくことができるのかと思うと、そうではなくこの世のいわゆる闇と言われるような力がいっしんに迫ってくる。その中で翻弄され、逃げ惑うような生活に追い込まれていくわけです。人口調査のために身重でありながら長い旅に出かけざるをえなかったこともそうですし、また出産の時に宿が全く見つからない、誰も助けてくれない。この家畜小屋を見つけたというのは、いよいよもうどうしようもなくなった。もう最後の最後の選択であったに違いないわけです。そのような困難の中で、この非衛生的で非常に臭い家畜小屋で子供を産まざるを得なかった、そしてその家畜が餌にする藁やその飼い葉桶で寝かせざるを得なかった。

 私たちはクリスマスということを考えると、とてもロマンチックなイメージでその馬小屋のシーンを眺めますけれども、現実で考えるならばそのようなとてもとても悲惨な状態だったわけです。その後のことを考えても、このヘロデの迫害を逃れてエジプトに難民として逃避行をせざるを得なかった。この苦難の連続の中でもあれ、一体その苦しみに何の意味があるのか。神の御旨に対してこの不平を述べたということは、聖書は一言も書いておりません。むしろそれらに全て心に留め思い巡らせていた、いま自分にとっては意味が分からない、この厳しい現実が襲いかかってくる苦難、必ずそこにおいて神の助けがある。そして、それを通してそれを意味あるものとして、必ず導いてくださる。これがマリアの中にあった強い確信ではないかと思います。

 では、今は現実の世界の中で生きている私たちの事を考えてみるならば、同様に私たちの生活に襲いかかってくる様々な苦難、代表的なものを言えば特にこのパンデミック19と言われる新型コロナ感染症、そしてその中で翻弄されている最中に起こった世界の戦争の闇。これらは一体何がどういう意味があるのか。なぜ人類が克服したと思ったようなこのような形態の戦争が、今この現実に起こっているのか。私たちは全く理解できないまま、その中で翻弄されているわけです。

 教皇様は今日、「世界平和の日メッセージ」を全世界に向かって発表なさいました。その中で書かれていることは、特にこのパンデミックがもたらしたもの、というのは社会構造や経済構造の最も弱い部分、打撃を与え底辺にいる方は特にその影響を顕著に受けている。弱者や困窮者、いろんな意味でそのことは言えるんですけれども、私自身も個人的に感じたことです。十分注意したつもりでありながら、昨年コロナにかかってしまいました。でもその時、ちょうどお盆でした。ちょうど七波がピークを越えた時期で、保健所も対応に追われ、発熱センター含めそこに私たちを紹介してくれる安心サポートセンター、そこに電話をして、発熱外来に行って PCR 検査をしてくるように調整をされるんですけれども、その最初の入口であるこのサポートセンターに全く繋がらない。何度電話しても全然繋がらない中で、39度の高熱で3日間どこにも連絡が取れないまま、ただ一人寝てるしかないという状況だった。お盆で事務局もお休みでして、その中でネットを通してその登録をすることができますと言うんですけれども、その前に簡易検査キットであっても陽性反応を示すことが必要なのです。施設にある学園法人がたくさんの抗原検査キットを用意してましたけれども、陰性しか出なかったのです。陽性にならなければネットで登録することはできないので、ただ一人で3日間寝続けるしかない状態だったわけです。

 たまたま一家そろってコロナにかかった私の親戚が、札幌市から支給された抗原検査キットがあったので持ってきてもらって、それで検査したところ陽性が出たのです。陽性が出れば確実に感染しているということで、そのために登録をネットを通してしなければならなかったんです。

 その時、つくづく思ったんですけれども、私自身は弱者ではないにも関わらず、状況によってはそのようになり得る。もし自分の中にこのネットにアクセスするスキルがなければ全くのお手上げ状態。もし周りに助けてくれる人がいない独居老人であれば、ネットにアクセスできない人は死ぬしかないと私は本当にそう思いました。そういうセーフティネットという仕組みがあの時なければ、私が八方手を尽くし探しても全く入られなかったのですから、一般の人であるならば絶対不可能だということを感じます。そういった意味では人ごとではなく、社会的に弱い立場に置かれている人は、どういう状態になってしまうのか。私は三日間でしたけれども、それ事態非常に不安であり、心細い思いをしていました。でも、私以上に不安の中におかれる方が、特にこの札幌ではたくさんおられると私は感じました。

 そういった意味で、また別な形でもっと様々なそのシステムの狭間に置かれて苦しんでいる人たちがたくさんいますけれども、なかなか私たちの目には見えない、あるいはそういう人たちがいることはわかっていても、他人事のように感じてしまう。私自身がそういう体験しなければ、そういうこととして感じることはなかったと私も思います。けれども、そういった意味ではもっと心のめいや感度を高めて、私たちはまわりを眺めなければならないのではないかということをつくづく感じさせられました。

 その中で教皇様がおっしゃっているのは、私たちは一人で救われるのではないということ、このコロナ禍を克服して行く時にそこに書いてあることは、「ともにという言葉を改めて中心に据えるよう、このコビット19の経験から、全ての人、民族、国家に訴える強い意識が芽生えました。平和を築き正義を守り普通な出来事を乗り越えるにはまさしく共にあること。兄弟愛と連帯のあること、それが必要なのです。事実パンデミックに最大の効果を発揮した対応は難局に対応するために社会集団公的機関と企業国際機関がここの利害をわきにおいて一致団結したことでした。兄弟的で私欲のない愛から生まれる平和だけが個人の社会、世界の危機を克服できるのです。私たちがこの兄弟愛をもって連帯するようにという強い訴えかけです。しかし、このコロナのウイルス、まだ私たちは3年間の戦いを通して、それなら今言ったような様々な負の側面を経験しながらも、何かそこから希望を見出すような、新しい人類の方向性を見いだせるような、そういった指針というものを得ることができるような希望が持てます。

 しかし、教皇様は続けます。コビット19のワクチンは開発されましたが、戦争終結のための有効な解決策はまだ見つかっていません。戦争のウィルスは生体を犯すウイルスよりも克服が困難です。それは戦争が人間の外から来るのではなく、罪によって腐敗した人間の心の中から生じるものだからです。今このように述べながら、私たちは先ほど言ったように個人や国家の利益ではなくて、共通善に照らして共同体意識を持って、愛に知らされたものとなり、そしてこの世界に立ち向かっていかなければならないことを強く訴えています。このように現実の社会の中では克服困難と思えるような出来事が次々と起こって、私たちに襲いかかってきますけれども、しかし私たち信仰者はその中にあって常に一人で戦っているのではない、教皇様の言うように連帯して、共に兄弟愛を持って支え合いながら進んでいる時に、必ず希望を見出すことができる。そして、今までと違ったあの地平の上から新しい世界を眺めることができる。このコロナ禍を克服した後、教皇様が最初に言われていたことですけれども、昔に戻るということを意味するのではない、必ずそれを超えた時に新しいやり方、私たちは新しくなって新しい自分たちのあり方を見出していかなければならない、それを今、私たちはそれをするように求められているということを強く言われています。

 札幌教区の現状についても少し触れたいなとは思ってましたけれども、ちょっと長い話になるので、おさめておきますけれども、今年の「年頭司牧書簡」もシノドスをテーマとしたことを書いていて、札幌教区の宣教司牧のプランについては何も書かれていません。しかし、皆さんご存知のように司祭の高齢化が非常に進み、宣教司牧が非常に困難な状況になっています。どうしても司牧というものが頭に浮かぶのですが、どんなに司祭が少なくなっても、どんなに教会が高齢化の波が押し寄せて来ても、まず私たちが据えなければならないのは宣教の視点だと思います。

 昨年の年頭司牧書簡にも書きましたが、キリシタン時代はまさに教会に司祭がいなかった時期に逆に教勢が増していったのです。信者の数は迫害後にピークになるのです。誰が宣教をしたのか。信徒たちです。その時にあの困難な生活の中で強い共同体を作り、確かにそれは地下に潜った人もたくさんありましたけれども、しかし共に互いに支え合うという強い共同体の中から、どんどんその教勢を増していたという現実があります。困難な現実の中においてこそ、何か違う神の力が働き、それを実現していく信徒の力によるものでした。

 先ほど香部屋で冗談めいて話していたんですけれども、私は夏に黙想会に行った時に、ある鍾乳洞にちょっと訪問して、そこにたくさん小さな石があったのです。綺麗な石だったのですが、これを子供が侍者をやった時にいつもご褒美を何か渡していたんですけれども、何もなくなったのでそんな時たくさんその石を仕入れました。そして、それを今も持って歩いてます。ずいぶんたくさんの地方の教会を歩きましたけれども、ちっとも減っていません。つまりもう子供が侍者をやっている教会はないのです。頭の白い、ちょっと薄くなっちゃって…。それが現実で、帯広の地区では一人も司祭がいないという状況が続き、今も臨時の対応でなんとか保っています。

 そんな中で厳しい現実が押し寄せてくる中で、しかしこれは何かそれの中で工夫して、そういう状況であるからこそ、私たちはそれに対応していくために、新しいあり方や活性化の種となっているのではないかと私は期待しています。

 そういった意味ではこの困難な状況、望ましくない状況ではありますけれども、しかし必ずこの状況を通して神がどこかに私たちを導いてくださるに違いない。今日の福音の中のマリアのようにその意味は未だわからないけれども、しかしそれに神の御旨として受けとめ、心に留めておく、それが私たちにとって大切な今の姿勢ではないかと思います。

 心の中にとめ、思い巡らし、そしてその中で意味を見出して、将来への道すじを踏み出して、その恵みを求めながらこのミサを続けていきたいと思います。


【聖書朗読】


いのちの源である神よ、

   あなたはおとめマリアを御子の母として選び、

   救い主を人類に与えてくださいました。

   聖母を通して御子キリストを迎えるわたしたちに、

   救いの喜びを味わわせてください。

   集会祈願より


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第1朗読 民数記 6章22~27節


主はモーセに仰せになった。


アロンとその子らに言いなさい。

あなたたちはイスラエルの人々を祝福して、

次のように言いなさい。


主があなたを祝福し、あなたを守られるように。


主が御顔を向けてあなたを照らし

あなたに恵みを与えられるように。


主が御顔をあなたに向けて

あなたに平安を賜るように。


彼らがわたしの名をイスラエルの人々の上に置くとき、

わたしは彼らを祝福するであろう。



第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 4章4~7節


しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、

しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。


それは、律法の支配下にある者を贖い出して、

わたしたちを神の子となさるためでした。


あなたがたが子であることは、

神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、

わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。


ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。

子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。



福音朗読 ルカによる福音書 2章16~21節


そして急いで行って、

マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。


その光景を見て、

羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。


聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。


しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、

思い巡らしていた。


羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、

神をあがめ、賛美しながら帰って行った。


八日たって割礼の日を迎えたとき、

幼子はイエスと名付けられた。

これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。