ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。
【福音メッセージ】 年間第4主日 A年 2023年1月29日 ウルバン神父
“心の貧しいあなたがた ”
朝早くの事であった。イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いて、草に座って、朝日が昇るのを見て、朝の涼しさと静けさを味わっていた。湖は美しく朝日の光に輝いていた。人の足音が聞こえた。一人、また一人、だんだん多くの人があちこちから近付いて来た。イエスは立って、人の間を歩いていた。多くの人がイエスに触れようとしたが、イエスは嫌な顔をしなかった。かえって、一人ひとりを優しい目で見ていた。その姿から、力のような事が流れ出た。羊飼いに抱かれた傷のある子羊が静かになるように、人の心も静かになってきた。イエスは群衆を見て、山に登られて、腰を下ろした。
群衆を見たとは、大切な言葉です。どこかに立って、腕を組んで、嫌な、軽蔑があるような顔の表情で群衆を見たファリザイ派の人々のように。‘実に、イスラエルの泥がここに揃っている’と表す顔で。いえ。しばらくの間、愛に溢れる顔でイエスは群衆を見回していた。何を見たでしょうか。人々の心の中の暗闇、悲しみ、深い失望と疲れ。多くの人は遠くから、夜の時に歩きながら、やっとここに着いた。森の中で水を探し求めて、喘ぎさまよう鹿のように、乾いている心を満たす水、命の水を待っていた。貧しい服を着ている人、ボロボロの心を持っている自分は本当に神様に忘れられて、捨てられているのでしょうか。自分にも救いがあるでしょうかと悩んで、餓えた心と大きな目でイエスを見ていた。人々の心の疲れと孤独はイエスの心に深く響いていた。‘私はあなた達と共に悲しむ、共に泣く、共に喜ぶ。来て、私は安らぎを与える’とイエスの顔が現した。見て、私もあなたも群衆の中にいるのです。私の生活にも疲れと暗闇があり、貧しい心に餓えと乾きがある。本当に、僕も群衆の中の一人だ。あの方は私をも優しい目で私の方へ見て、待っているでしょう。私にも手を伸ばしているでしょうか。あたしも受け入れてもらいたい、愛されたい。
そこでイエスは口を開き教えられた。洗者ヨハネのように話したでしょうか。‘蝮の子らよ、神の怒りから逃れると思うのか’。イエスの優しい言葉は深く心に響いた。‘心の貧しいあなた方は幸いである。天の国はその人たちのものである’。‘今悲しむあなた達は幸いである、あなた達は慰められる’。
その時、多くの人の目の前に門が開かれて、光を見た。‘死の淵に住んでいる私達にも救いがあるか’、と驚いていた。この言葉は油のように心に入って、多くの傷は癒されるようになった。人の目は益々大きくなって、涙が流れて、顔が喜びに溢れた。乾いた土が水を吸って、すべてが生きるようになって、暗闇の雲が消え、群衆が生き生きして来た。‘私達はゴミではない、屑ではない。私達も貧しくても愛されている’と。聖書の言葉は実現された。‘悲しみの内に出て種をまく人は、束を持って喜びのうちに帰って来る’、と言うような有様になった。イエスの言葉には本当にパワーがあって、権威がある。群衆はサァァと、手を天に上げて喜びに踊った。今日もイエスが生きておられ、私達にいう。‘御覧なさい、あなたも私について来れば、もう暗闇を歩まない。光の中に生きる’。
【聖書朗読箇所】
わたしたちの神である父よ、
心を尽くしてあなたに仕える喜びと、
すべての人を愛する恵みをお与えください。
集会祈願より
第1朗読 ゼファニヤの預言 (ゼファニヤ2章3節,3章12-13節)
主を求めよ。
主の裁きを行い、苦しみに耐えてきた
この地のすべての人々よ
恵みの業を求めよ、苦しみに耐えることを求めよ。
主の怒りの日に
あるいは、身を守られるであろう。
わたしはお前の中に
苦しめられ、卑しめられた民を残す。
彼らは主の名を避け所とする。
イスラエルの残りの者は
不正を行わず、偽りを語らない。
その口に、欺く舌は見いだされない。
彼らは養われて憩い
彼らを脅かす者はない。
第2朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 (1コリント1章26-31節)
兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。
人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、
能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。
ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、
力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。
また、神は地位のある者を無力な者とするため、
世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、
このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、
義と聖と贖いとなられたのです。
「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
福音朗読 マタイによる福音 (マタイ5章1-12a節)
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。
腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、
迫害され、 身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、
あなたがたは幸いである。
喜びなさい。大いに喜びなさい。
天には大きな報いがある。」