2023年1月3日火曜日

1月1日 神の母聖マリア

 新年明けましておめでとうございます。

元旦ミサを司式されました勝谷司教様のミサ説教の内容を書き起こしましたのでご紹介します。



【勝谷司教様 元旦ミサお説教】

今日の福音書に出てくる羊飼いたち。また様々な出来事を体験し思い巡らすマリア。これらの言葉は非常に象徴的な意味を持っています。まず何よりもこの羊飼いの告げられたこと、救い主がお生まれになったというメッセージ。他の誰にも示されず、その羊飼いたちに示されたということは何を意味してるのか。私たちは現代的に考えれば、特にこの羊飼いという人たちが差別された人たちとは思わないかもしれません。しかし、当時の常識から言うと徴税人や娼婦と同様、羊飼いというのは忌み嫌われる人たち、決して救いの対象になると考えられていない人たちです。その彼らに救いの誕生が告げられ、真っ先にこの救い主を探し出したのは彼らであるということは、私たちにとっても非常に象徴的な意味を与えていると思います。

 そしてまた、マリア自身神の子を宿すということから始まり、その後のマリアの生活というものは苦難に満ちたもの、苦難の連続でした。神の子を宿すというので神から守られ順風満帆な生活を歩んでいくことができるのかと思うと、そうではなくこの世のいわゆる闇と言われるような力がいっしんに迫ってくる。その中で翻弄され、逃げ惑うような生活に追い込まれていくわけです。人口調査のために身重でありながら長い旅に出かけざるをえなかったこともそうですし、また出産の時に宿が全く見つからない、誰も助けてくれない。この家畜小屋を見つけたというのは、いよいよもうどうしようもなくなった。もう最後の最後の選択であったに違いないわけです。そのような困難の中で、この非衛生的で非常に臭い家畜小屋で子供を産まざるを得なかった、そしてその家畜が餌にする藁やその飼い葉桶で寝かせざるを得なかった。

 私たちはクリスマスということを考えると、とてもロマンチックなイメージでその馬小屋のシーンを眺めますけれども、現実で考えるならばそのようなとてもとても悲惨な状態だったわけです。その後のことを考えても、このヘロデの迫害を逃れてエジプトに難民として逃避行をせざるを得なかった。この苦難の連続の中でもあれ、一体その苦しみに何の意味があるのか。神の御旨に対してこの不平を述べたということは、聖書は一言も書いておりません。むしろそれらに全て心に留め思い巡らせていた、いま自分にとっては意味が分からない、この厳しい現実が襲いかかってくる苦難、必ずそこにおいて神の助けがある。そして、それを通してそれを意味あるものとして、必ず導いてくださる。これがマリアの中にあった強い確信ではないかと思います。

 では、今は現実の世界の中で生きている私たちの事を考えてみるならば、同様に私たちの生活に襲いかかってくる様々な苦難、代表的なものを言えば特にこのパンデミック19と言われる新型コロナ感染症、そしてその中で翻弄されている最中に起こった世界の戦争の闇。これらは一体何がどういう意味があるのか。なぜ人類が克服したと思ったようなこのような形態の戦争が、今この現実に起こっているのか。私たちは全く理解できないまま、その中で翻弄されているわけです。

 教皇様は今日、「世界平和の日メッセージ」を全世界に向かって発表なさいました。その中で書かれていることは、特にこのパンデミックがもたらしたもの、というのは社会構造や経済構造の最も弱い部分、打撃を与え底辺にいる方は特にその影響を顕著に受けている。弱者や困窮者、いろんな意味でそのことは言えるんですけれども、私自身も個人的に感じたことです。十分注意したつもりでありながら、昨年コロナにかかってしまいました。でもその時、ちょうどお盆でした。ちょうど七波がピークを越えた時期で、保健所も対応に追われ、発熱センター含めそこに私たちを紹介してくれる安心サポートセンター、そこに電話をして、発熱外来に行って PCR 検査をしてくるように調整をされるんですけれども、その最初の入口であるこのサポートセンターに全く繋がらない。何度電話しても全然繋がらない中で、39度の高熱で3日間どこにも連絡が取れないまま、ただ一人寝てるしかないという状況だった。お盆で事務局もお休みでして、その中でネットを通してその登録をすることができますと言うんですけれども、その前に簡易検査キットであっても陽性反応を示すことが必要なのです。施設にある学園法人がたくさんの抗原検査キットを用意してましたけれども、陰性しか出なかったのです。陽性にならなければネットで登録することはできないので、ただ一人で3日間寝続けるしかない状態だったわけです。

 たまたま一家そろってコロナにかかった私の親戚が、札幌市から支給された抗原検査キットがあったので持ってきてもらって、それで検査したところ陽性が出たのです。陽性が出れば確実に感染しているということで、そのために登録をネットを通してしなければならなかったんです。

 その時、つくづく思ったんですけれども、私自身は弱者ではないにも関わらず、状況によってはそのようになり得る。もし自分の中にこのネットにアクセスするスキルがなければ全くのお手上げ状態。もし周りに助けてくれる人がいない独居老人であれば、ネットにアクセスできない人は死ぬしかないと私は本当にそう思いました。そういうセーフティネットという仕組みがあの時なければ、私が八方手を尽くし探しても全く入られなかったのですから、一般の人であるならば絶対不可能だということを感じます。そういった意味では人ごとではなく、社会的に弱い立場に置かれている人は、どういう状態になってしまうのか。私は三日間でしたけれども、それ事態非常に不安であり、心細い思いをしていました。でも、私以上に不安の中におかれる方が、特にこの札幌ではたくさんおられると私は感じました。

 そういった意味で、また別な形でもっと様々なそのシステムの狭間に置かれて苦しんでいる人たちがたくさんいますけれども、なかなか私たちの目には見えない、あるいはそういう人たちがいることはわかっていても、他人事のように感じてしまう。私自身がそういう体験しなければ、そういうこととして感じることはなかったと私も思います。けれども、そういった意味ではもっと心のめいや感度を高めて、私たちはまわりを眺めなければならないのではないかということをつくづく感じさせられました。

 その中で教皇様がおっしゃっているのは、私たちは一人で救われるのではないということ、このコロナ禍を克服して行く時にそこに書いてあることは、「ともにという言葉を改めて中心に据えるよう、このコビット19の経験から、全ての人、民族、国家に訴える強い意識が芽生えました。平和を築き正義を守り普通な出来事を乗り越えるにはまさしく共にあること。兄弟愛と連帯のあること、それが必要なのです。事実パンデミックに最大の効果を発揮した対応は難局に対応するために社会集団公的機関と企業国際機関がここの利害をわきにおいて一致団結したことでした。兄弟的で私欲のない愛から生まれる平和だけが個人の社会、世界の危機を克服できるのです。私たちがこの兄弟愛をもって連帯するようにという強い訴えかけです。しかし、このコロナのウイルス、まだ私たちは3年間の戦いを通して、それなら今言ったような様々な負の側面を経験しながらも、何かそこから希望を見出すような、新しい人類の方向性を見いだせるような、そういった指針というものを得ることができるような希望が持てます。

 しかし、教皇様は続けます。コビット19のワクチンは開発されましたが、戦争終結のための有効な解決策はまだ見つかっていません。戦争のウィルスは生体を犯すウイルスよりも克服が困難です。それは戦争が人間の外から来るのではなく、罪によって腐敗した人間の心の中から生じるものだからです。今このように述べながら、私たちは先ほど言ったように個人や国家の利益ではなくて、共通善に照らして共同体意識を持って、愛に知らされたものとなり、そしてこの世界に立ち向かっていかなければならないことを強く訴えています。このように現実の社会の中では克服困難と思えるような出来事が次々と起こって、私たちに襲いかかってきますけれども、しかし私たち信仰者はその中にあって常に一人で戦っているのではない、教皇様の言うように連帯して、共に兄弟愛を持って支え合いながら進んでいる時に、必ず希望を見出すことができる。そして、今までと違ったあの地平の上から新しい世界を眺めることができる。このコロナ禍を克服した後、教皇様が最初に言われていたことですけれども、昔に戻るということを意味するのではない、必ずそれを超えた時に新しいやり方、私たちは新しくなって新しい自分たちのあり方を見出していかなければならない、それを今、私たちはそれをするように求められているということを強く言われています。

 札幌教区の現状についても少し触れたいなとは思ってましたけれども、ちょっと長い話になるので、おさめておきますけれども、今年の「年頭司牧書簡」もシノドスをテーマとしたことを書いていて、札幌教区の宣教司牧のプランについては何も書かれていません。しかし、皆さんご存知のように司祭の高齢化が非常に進み、宣教司牧が非常に困難な状況になっています。どうしても司牧というものが頭に浮かぶのですが、どんなに司祭が少なくなっても、どんなに教会が高齢化の波が押し寄せて来ても、まず私たちが据えなければならないのは宣教の視点だと思います。

 昨年の年頭司牧書簡にも書きましたが、キリシタン時代はまさに教会に司祭がいなかった時期に逆に教勢が増していったのです。信者の数は迫害後にピークになるのです。誰が宣教をしたのか。信徒たちです。その時にあの困難な生活の中で強い共同体を作り、確かにそれは地下に潜った人もたくさんありましたけれども、しかし共に互いに支え合うという強い共同体の中から、どんどんその教勢を増していたという現実があります。困難な現実の中においてこそ、何か違う神の力が働き、それを実現していく信徒の力によるものでした。

 先ほど香部屋で冗談めいて話していたんですけれども、私は夏に黙想会に行った時に、ある鍾乳洞にちょっと訪問して、そこにたくさん小さな石があったのです。綺麗な石だったのですが、これを子供が侍者をやった時にいつもご褒美を何か渡していたんですけれども、何もなくなったのでそんな時たくさんその石を仕入れました。そして、それを今も持って歩いてます。ずいぶんたくさんの地方の教会を歩きましたけれども、ちっとも減っていません。つまりもう子供が侍者をやっている教会はないのです。頭の白い、ちょっと薄くなっちゃって…。それが現実で、帯広の地区では一人も司祭がいないという状況が続き、今も臨時の対応でなんとか保っています。

 そんな中で厳しい現実が押し寄せてくる中で、しかしこれは何かそれの中で工夫して、そういう状況であるからこそ、私たちはそれに対応していくために、新しいあり方や活性化の種となっているのではないかと私は期待しています。

 そういった意味ではこの困難な状況、望ましくない状況ではありますけれども、しかし必ずこの状況を通して神がどこかに私たちを導いてくださるに違いない。今日の福音の中のマリアのようにその意味は未だわからないけれども、しかしそれに神の御旨として受けとめ、心に留めておく、それが私たちにとって大切な今の姿勢ではないかと思います。

 心の中にとめ、思い巡らし、そしてその中で意味を見出して、将来への道すじを踏み出して、その恵みを求めながらこのミサを続けていきたいと思います。


【聖書朗読】


いのちの源である神よ、

   あなたはおとめマリアを御子の母として選び、

   救い主を人類に与えてくださいました。

   聖母を通して御子キリストを迎えるわたしたちに、

   救いの喜びを味わわせてください。

   集会祈願より


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第1朗読 民数記 6章22~27節


主はモーセに仰せになった。


アロンとその子らに言いなさい。

あなたたちはイスラエルの人々を祝福して、

次のように言いなさい。


主があなたを祝福し、あなたを守られるように。


主が御顔を向けてあなたを照らし

あなたに恵みを与えられるように。


主が御顔をあなたに向けて

あなたに平安を賜るように。


彼らがわたしの名をイスラエルの人々の上に置くとき、

わたしは彼らを祝福するであろう。



第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 4章4~7節


しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、

しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。


それは、律法の支配下にある者を贖い出して、

わたしたちを神の子となさるためでした。


あなたがたが子であることは、

神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、

わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。


ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。

子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。



福音朗読 ルカによる福音書 2章16~21節


そして急いで行って、

マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。


その光景を見て、

羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。


聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。


しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、

思い巡らしていた。


羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、

神をあがめ、賛美しながら帰って行った。


八日たって割礼の日を迎えたとき、

幼子はイエスと名付けられた。

これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。