2023年1月21日土曜日

1月22日 年間第3主日

 山谷神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてお送りします。

(療養のため札幌を離れられた湯澤神父様に替わり、山谷神父様のメッセージを月に一度お届けします。)


ヨハネス ドゥンス・スコトゥス 山谷篤 神父様のご紹介(札幌司教区ホームページより)

叙階年:2000・ フランシスコ会(OFM) 司祭   北十一条教会 ・ 札幌フランシスコ修道院 ・ 光明社 ・ 北二十六条教会 ・ 花川教会 ・主任代行司祭(小教区管理者)


【福音メッセージ】 年間第3主日(神のことばの主日) A年 2023年1月22日 山谷神父

クリスマスもお正月も終わって、普通の日々が戻ってきました。教会の典礼も緑色の年間という日常に戻っています。洗礼者ヨハネは荒れ野という人が住まない非日常的な場所から「悔い改めよ、天の国は近づいた」宣教しました。今日の福音はイエスの宣教の始まりを描いていますが、同じ「悔い改めよ、天の国は近づいた」と宣べ伝えていますが、場所はガリラヤという人々が住む日常的な場面へと移っています。

同じメッセージを洗礼者ヨハネとイエスは語りますが、場所の違いはメッセージの中身の違いを示しているように思います。つまり悔い改めの内容が、イエスの場合、より日常生活と結びついたメッセージになっているのではないでしょうか。

マタイはイエスが宣教をしたガリラヤという土地を、第一朗読にあるイザヤの預言と結びつけて特別な意味を見出しています。そこは闇に住む人々の暮らす場所であり、天の国から最も遠い場所です。そのガリラヤにイエスは退かれたと書かれています。退くという言葉はネガティブに聞こえますね。洗礼者ヨハネが逮捕され、天の国は近づくどころか遠ざかってしまった、イエスは夢破れて故郷のガリラヤに失意のうちに帰っていったような印象を持ちます。しかし、マタイは、イエスがガリラヤへと退かれたのは、むしろ闇に住む人々に神の光が注がれて行くためなのだと。そこに神のご計画を見ているのです。

闇に住む人々に対する「天の国は近づいた、悔い改めよ」というメッセージは、決して「お前たちが悪い、ちゃんとしなさい、悪行を捨てろ」という意味の悔い改めではないでしょう。

このイエスの悔い改めの意味を示す出来事が続く、ペトロたちの召命のお話しに描かれています。ペトロたちが捨てたのは悪行ではなく、網を捨てました。網は彼らの生活を支えているものの象徴です。つまり、自分が頼りにしているものを捨てるということです。この網を捨てることで、神を頼りに生きる生活へとペトロたちは招かれたのです。イエスの説く悔い改めとは、洗礼者ヨハネのように罪からの悔い改めと言うよりは、むしろ神に信頼して生きる生き方への転換を意味しているのです。ここにイエスとともに信仰に生きる歩みが始まって行くのです。

福音は全ての人がペトロのように今の仕事をやめて教会のために働けとは言っていません。ペトロたちの召命は極端な例であり、それはある意味で象徴的な召し出しです。むしろ、私たちにも、それぞれの日常の中で、神に従って生きる歩みを見出すようにとペトロたちの召命物語は問いかけています。

先日、新聞に片づけコンサルタント近藤まりえさんの記事が載っていました。家の中を片付けるときに考えるのは、何を捨てるかではなく、何を残すのかをまず決めて行くことだと言います。それは、自分が大切にしているものは何かという、自分の内面を見つめて行くことで、そこから新しい自分を発見して行くのだということです。ペトロの召命もそのように見ると、網を捨てますが、それは自分が本当に大切にしているものを見出したということではないでしょうか。それが私たちにも見えた時、私たちの内に光が差し込むのです。私たちは日常の中で、何を大切にし、何を捨てずに生きたいのでしょうか。今日の福音は「捨てる」から見るのではなく、「残す」からあらためて問いかけてみてはいかがでしょう。



【聖書朗読箇所】


全能永遠の、神である父よ、

  わたしたちの行いがいつもみ旨にかなうように導いてください。

  御子キリストのうちにあって豊かな実を結ぶことができますように。

集会祈願より



第1朗読 イザヤの預言 (イザヤ8章23b-9章3節)


先に

ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが

後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた

異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。


闇の中を歩む民は、大いなる光を見

死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。

あなたは深い喜びと

大きな楽しみをお与えになり

人々は御前に喜び祝った。

刈り入れの時を祝うように

戦利品を分け合って楽しむように。

彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を

あなたはミディアンの日のように

折ってくださった。



第2朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 (1コリント1章10-13,17節)


兄弟たち、

わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。

わたしの兄弟たち、

実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。

あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。

キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。

パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。

あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。

なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、

言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。



福音朗読 マタイによる福音 (マタイ4章12-23節)


イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。

そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。

「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、

暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」

そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。

彼らは漁師だった。

イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。

二人はすぐに網を捨てて従った。

そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。

この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。