2014年1月26日日曜日

年間第3主日

今日のマタイ福音書(マタイ4・12-23)では、イエスの宣教開始を伝えています。

今日の主日ミサを司式された祐川神父様のお説教の一部をご紹介します。


『先週の木曜日に、かでる2・7で行われた北海道知的障がい福祉協会の研修会に講師として呼ばれて行ってきました。何故私が?と思ったのですが、環境が整っていないフィリッピンで福祉活動を行っていることから、という理由だったのでお引き受けしました。その講演では、福祉活動は「しなければならないこと」、「できること」、「やりたいこと」、この3点をバランス良く行っていくことが大切です、というお話をしました。福祉活動は当初は理想を掲げてやっていても、ややもすると、「しなければならないこと」のウェイトが高くなってしまい、「何のためにやっているのか」という最も大切なことを見失ってしまうからです。また、障害者はいわゆる「handicapped persons by society」であり、社会によってハンディキャップを負わされていると理解することが大切です。

さて、今日のマタイ福音書では、イエス様の宣教活動の開始が書かれており、その中で、漁師だったペトロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネをイエス様が弟子になるよう誘う場面が出てきます。そして彼らに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われます。彼らは漁師であり、魚を取るプロですが、人間の扱いではプロではありません。
何故、イエス様はそのような彼らを弟子に誘ったのでしょうか?
もしこれが企業であれば、決して優秀とはいえない人材を採用したイエス様は、社長としては失敗としかいいようがないはずです。
また、彼ら以外にも、当時は軽蔑の対象であった職業である徴税人のマタイ、過激派にも例えられる熱心党のシモン、後にイエス様を裏切ることになるユダ、そして本来では最も近づけてはならないはずの迫害の中心人物であったパウロさえも招き入れました。
しかし、イエス様のこの行いこそが、あるがままを受け入れるというイエス様の愛の教えを如実に現していると言えます。そして初代教会から現在の教会に至るまでの根底にもこの姿勢が貫かれていますが、第2朗読「使途パウロのコリントの教会への手紙」では、理想を持ってスタートしたはずの初代教会も大きな問題を抱えていたことが書かれています。
そして、2000年後の今日の教会においても様々な問題があります。札幌教区でも司祭不足は一向に解消されず、特に人口が多い札幌市からの司祭はここ何十年も誕生していないという現実があります。

明日、明後日と新司教が誕生してから初めての全道司祭会議が行われ、いよいよ新体制の具体的なスタートがきられます。勝谷司教様のモットー「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」、そして年頭書簡で示された「司祭中心の教会から信徒中心の教会へ」というテーマを念頭に入れ、神様が欠点だらけの私たちを教会に招いてくれたことの意味と、これから私たちが出来ることは何か?ということを考えていきましょう。』

御ミサの後、運営委員会が行われました。
下記のことが話し合われました。

【お知らせ】

  • H26年度教会総会日程:第一候補(5月18日)、第二候補(5月11日)
  • 2月9日(日)ミサの後、今年2回目の雪割りを予定しています。
  • 3月の上旬から3週間ほど、祐川神父様がフィリピン イースタービレッジに行かれる予定です。
  • 信徒による電話当番の簡単な対応マニュアルを用意することになりました。
  • 教会内でのコミュニケーションを深めることの助けとして「名札」を付ける取り組みをすることになりました。最初は運営委員会メンバーが率先して始めることにしました。
  • 4月12日(土)第15回カテドラルコンサートを行うことになりました。開演予定 15:00、内容 フランソワ・クープラン ルソン・ド・テネーブル全曲演奏会、出演:ソプラノ 小林木綿・陣内麻友美、オルガン 廣野嗣雄、ヴィオラ・ダ・ガンバ 宇田川貞夫

2014年1月19日日曜日

年間第2主日 - 神の子羊 -

A年の年間主日が、今日からはじまります。
今日のミサ聖祭は、祐川神父様の司式により行われました。
神父様のお説教の一部をご紹介します。


今日の福音朗読(ヨハネ 1・29-34)の冒頭部では、自分の方へイエスが来られるのを見た洗礼者ヨハネが、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と言いました。
「神の子羊」の意味するところは何でしょうか?
旧約聖書において一貫して流れている神の子羊のイメージとしては3つあります。
一つめは、Ⅱサムエル記12章で、罪を犯したダビデに神が遣わした預言者ナタンが、ダビデに対して語った出来事の中に出てくる「愛される子羊」です。
二つ目は、レビ記1章で、祭壇に捧げられる子羊、すなわち「犠牲と苦難の子羊」です。
そして、三つ目は、イザヤ53章で、民の罪を贖う主の僕の比喩に出てくる「栄光の子羊」です。
これから行われる聖体拝領の前に、平和の賛歌の中で「神の子羊」がうたわれます。
今日のミサ聖祭は、この「神の子羊」のことを念頭に入れ進めていきたいと思います。


閉祭のお知らせの中で、神父様から次のようなお話がありました。

1月2日から10日まで、高校生とスタッフの合計13名で、私が施設長を務めているフィリピンのイースタービレッジで過ごしてきました。
勝谷司教様から、2014年 年頭司牧書簡が示され、「司祭中心の教会から信徒中心の教会へ」というテーマが掲げられています。
この教会は、司教座聖堂ですので司教様は比較的身近におられますが、そのこととは別に、一小教区として、司教様の考えをじかに聞く機会を設けてはいかがでしょう?
というお話がありました。


ミサの後、第一次”雪割り”を行いました。日中も気温は氷点下だったので、硬く締まった雪氷を排雪するのに難儀しました。


聖堂の窓の下も排雪しました。




2014年1月12日日曜日

主の洗礼

今日は「主の洗礼」の祝日です。マタイ福音書(3・13-17)では、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられる様子が描かれています。

今日のミサは勝谷司教様の司式でした。
司教様のお説教の一部をご紹介します。


先日、札幌教区主催のフィリピン・エクスポージャーを終え帰国したところです。
残念ながらこの教会からの参加者はありませんでしたが、毎年、参加した若者達からは、「生き方が変わるような体験だった」という声が聞かれます。
恐らく彼らは、これから今回の貴重な体験を生かして、社会や共同体の中でこれまでとは違った目線で関わりを持っていくのではないかと考えています。
しかし、人というものは他者に対しては、一度固定したイメージを持ってしまうと、その後のその人の変化をなかなか受け入れられないという性向があります。
それが神様の導きによる良い変化であるなら、足を引っ張らずに応援していくという寛容さが私たちにも求められています。

今日はイエス様が洗礼者ヨハネによって洗礼を受けられたことをお祝いする「主の洗礼」の祝日です。
マタイ福音書(3・13-17)では、イエス様が洗礼を受けた際の様子が描写されていますが、それは聖霊の働きによるイエス様の内面の変化を表しているものと推察されます。
聖霊の働きは、水面に落ちた雫が波紋のように静かに拡がっていく様子に例えられるように、徐々にその人の内面を変えていくものです。

洗礼には、自らの罪を認め悔い改め、救いを得るという個人的な意義がありますが、イエス様は神の子なので、本来は洗礼を受ける必要はないはずでした。それなのに何故、あえて洗礼を受けられたのでしょうか?
それは、自ら市井の人々の中に入り交わり、貧しく虐げれている人々に救いをもたらすためであったのです。

私たちは今日のこの祝日に、このイエス様が示された洗礼の意味、すなわち社会や共同体の中での神の愛の実践について、改めて考えていかなければなりません。


【お知らせ】

  • 明日は「成人の日」です。当教会でも7名の新成人の方々にささやかな記念品をお送りしました。
  • ミサの後、降誕祭の馬小屋、クリスマスツリー、リース等の後片付けを行いました。
  • 来週の日曜日は、ミサの後「雪割り」を行う予定です。お手伝いお願いいたします。

2014年1月6日月曜日

主の公現 -1月5日(日)-

今日は主の公現の祭日でした。
日本では12月25日が過ぎると一気にお正月色に変わりますが、降誕節は主の洗礼の祝日までです。欧米では公現祭に色々なお祝いをします、イタリアではベルファーナの祭りと言って良い子たちにお菓子を振舞って楽しみ、フランスではこの日に「ガレット・デ・ロワ」と言うお菓子を幾つかに切って皆で食べるそうです。お菓子の中にはフェーブ(そらまめ)と呼ばれる小さな人形が入っていて、フェーブの入ったお菓子に当たった子は王様(女王様)になれるそうです。各国で表現は様々ですが、主の公現をお祝いする気持ち、小さな子ども、小さなものを大切にする気持ちは同じですね。

ミサは森田神父様の司式でした。ミサのお説教の一部をご紹介します。
占星術の学者の事を「マギ」と言い、これはペルシア系祭司階級の呼称。占星術は、良く占いと誤解される事がありますが本来は天文学で、聖書では占いは否定されています。
私たちは理性を神様から与えられています、理性によって色々な状況を判断しながら正しい道を見つけることが出来ます、その際に信仰が大いに役に立ちます。
道を探すときは心を波立たせる様々な誘惑から離れ、心を穏やかにする事が大切です。
海の波が静まった時に月をはっきりと映し出すように、私たちの心が穏やかな時、平和を願う心、誠実な心、信仰の心によって自分たちの方向性を、色々な方の助言を仰ぎながら見つけて行くことが出来ます。その時に私達を常に導いてくれるのが神の御言葉です、神が私達を導いて下さる事を信じて行きたいと思います。


馬小屋「主の公現」